シーン12:虚無を穿つ刃
キィィィィン……ッ
高く澄んだ音叉の残響だけが、冷え切った地下書庫を支配していた。
圧倒的な喪失感。
左肩から先を形作っていた熱と紫電が、火の粉ひとつ残さず完全に消え去っている。バランスを崩し、冬夜は僅かに上体をよろめかせた。
夏芽の指先から水の気配が消え、エリス(悠希)の大剣を覆っていた魔力の膜も霧散する。
「制圧しろ。奴らは抵抗などできない。」
クロムウェルの静かな命令に、純白の法衣を纏った『白の執行者』たちが動いた。
彼らは魔法を封じたこの空間で、一切の油断も高揚も見せない。ただ、無力化した獲物を縛り上げるための特殊な拘束具と、無骨な警棒のような鈍器を引き抜き、機械的な足取りで距離を詰めてくる。
魔法絶対主義の中枢にいる彼らにとって、「魔力を失った賊」など、手足をもがれた虫も同然だった。
一人の審問官が、無表情に警棒を振り上げ、片腕になった冬夜の右肩を砕きにかかる。
だが。
「……ナメるな」
振り下ろされた警棒を、冬夜は残された右腕で強引に弾き払った。
そのまま踏み込み、無防備な相手の胸ぐらを鷲掴みにすると、自身の額を審問官の顔面へ容赦なく叩き込む。
ゴキッ、と鼻柱の折れる鈍い音。
「が、ぁっ!?」
魔法の防御すら張れないのは、相手も同じだ。
血を噴き出してたたらを踏む審問官の鳩尾に、冬夜の重い前蹴りが突き刺さる。巨体がくの字に折れ曲がり、石畳に叩きつけられた。
死後の世界に落ちてから、左腕を失った状態で幾度も死線をくぐり抜けてきた冬夜の「泥臭いインファイト」。魔法という飾りが剥がれ落ちたことで、かえって彼の中に眠る野性の牙が剥き出しになっていた。
「な……!?」
別の審問官が驚愕し、背後から瑞希へ刃を向ける。
だが、隠密スキルを封じられたはずの瑞希の姿が、ふっと視界からブレた。
辺境グラニアの過酷な樹海で、ベテラン冒険者から叩き込まれた「独特の歩法」。魔力などなくとも、彼女の身体には死角へ滑り込む生存術が染み付いている。
低く沈み込んだ瑞希は、審問官の膝裏を蹴り抜き、バランスを崩した喉元へ、小剣の柄頭を正確に打ち据えた。声すら上げさせない完璧な制圧。
「ほぅ。……魔術に依存しただけの賊ではないな」
クロムウェルの細い眉が、僅かに動いた。
幾人もの狩ってきた異端者たちだが、魔法を封じられた状況で、ここまで純粋な「暴力」と「物理技術」に長けた相手は想定外だった。
「囲め。死体になっても構わん」
クロムウェルが音叉を掲げ直す。執行者たちが一斉に殺意を放ち、武器を構えて殺到してきた。
いくら白兵戦に長けていようと、多勢に無勢。片腕の冬夜も、乱戦になれば押し切られるのは時間の問題だ。
防戦一方になる中、夏芽は後衛から床を這うようにして後退し、クロムウェルの手元を凝視していた。
(魔力がない……空っぽ。でも、あの『音』だけがずっと空気を震わせてる……)
鳴りやまない音叉の澄んだ高音。あれが空間の波長を均一に塗り潰しているのだとしたら。
「お兄ちゃん! 瑞希ちゃん!」
夏芽が、喉が裂けるほどの声で叫んだ。
「あの『音』を……音叉を直接叩いて!!音を相殺して!!」
その言葉の意図を、冬夜と瑞希は瞬時に理解した。
魔法による遠距離攻撃ができない以上、肉薄するか、物を投げるしかない。
「エリスッ!」
「……ええっ!」
悠希が、身の丈ほどある大剣を「ただの分厚い鉄の盾」として斜めに構え、殺到する執行者たちの斬撃を力任せに受け止める。火花が散り、腕の筋が悲鳴を上げたその隙間。
冬夜が身体を丸ごとぶつけるような低いタックルで敵の陣形に突っ込み、クロムウェルまでの直線を強引にこじ開けた。
「瑞希ィィッ!!」
「はぁぁぁっ!!」
開かれた射線。
瑞希の手から放たれたのは、自身の小剣ではなかった。足元に転がっていた、重く尖ったただの『石の瓦礫』。
魔力など一切帯びていない、純粋な物理的投擲。
魔力感知に長けすぎたクロムウェルの感覚が、その「魔力を持たないただの石ころ」への反応をコンマ数秒遅らせた。
避ける間もない。
ガキィィィンッ……!!
鈍い石が、甲高く鳴り響いていた音叉の枝に激突する。
『虚無の波長』に不協和音が混ざり、音叉が耳障りなノイズを立てて激しく震えた。
「――っ!」
クロムウェルが初めて顔をしかめる。
空間を塗り潰していた重圧が、一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、フッと霧散した。
「もらったぜ」
冬夜の左肩に、爆発的な熱量が蘇る。
限界まで圧縮された紫電と赤熱の火炎が、咆哮とともに魔腕を瞬時に再構築した。
冬夜はその左腕を、目の前のクロムウェルではなく――彼らの背後、禁書庫の出口を塞いでいた『重厚な金属の扉』に向かって、一切の躊躇なく叩き込んだ。
「吹き飛べぇッ!!」
轟音。
閃光とともに金属の扉が爆砕し、壁の一部を巻き込んで通路側へと吹き飛ぶ。
「きゃああっ!」
「うおっ!」
凄まじい爆風と瓦礫が禁書庫内に逆流し、執行者たちの体勢が大きく崩れた。
「行くぞ!」
冬夜は、目当ての古文書の束を抱えた夏芽の腕を掴むと、悠希たちと共に自らこじ開けた扉の穴から迷宮の通路へと飛び出した。
土煙と瓦礫が猛烈な勢いで舞い上がり、禁書庫の出入り口は崩落した石材によって完全に塞がれた。
数分後。
粉塵が立ち込める中、崩れた扉の残骸の前に立つクロムウェルの姿があった。
彼の顔に怒りはない。ただ、手元で狂った振動を続ける音叉と、瓦礫で塞がれた通路を冷徹に見つめる。
「想定以上の『イレギュラー』か・・・・。追え」




