幕間5:黒銀の死神
冷たい秋の雨が、打ち捨てられた都内の廃工場を無機質に叩き続けていた。 錆びついた鉄骨とコンクリートの残骸に囲まれた薄暗い空間の中心で、如月美憂は膝を抱えてうずくまっていた。
「……う……あ……っ」
全身の細胞が軋み、引き裂かれるような激痛に美憂は脂汗を流す。本来、異世界の能力など存在しないはずの原典世界において、彼女の肉体は完全に許容量を超えていた。
彼女が【刈り取る者】の大鎌でエデンへと送った魂たち。彼らが向こうの世界で開花させた能力が、魂のバイパスを通じて現世の美憂に強烈なフィードバックをもたらしているのだ。
美憂の周囲には、彼女の意思とは無関係に漆黒の極細い糸がびっしりと蜘蛛の巣のように張り巡らされ、近づく野良犬や雨粒すらも自動的に切り裂いて彼女を保護している。それは、佐伯朋美の魂がエデンで開花させた『執着の網』の力だった。
そして彼女自身の腹部や背中の致命傷を塞ぎ、命を繋ぎ止めているのは、佐々木夏芽から還元された
『水と土の治癒魔法』。
だが、美憂を最も苦しめているのは、藤原姉妹の能力が単体用にバグを起こして変質した、得体の知れない異能だった。
一つは、受けたダメージや苦痛そのものを魔力に変換し蓄積する『代償の盾』。そしてもう一つは、体内に宿る複数の異なる魂のスキル同士を共鳴させる『魂の共鳴』。
「あ……がぁぁっ……!」
突如として、エデンにいる悠希が受けたであろう物理的な激痛が、時空を越えて美憂の肉体を幻痛として打ち据える(ペイン・コンバーター)。
それに呼応して異能の過負荷が体内で暴走し、美憂の周囲のコンクリートが不可視の風刃や紫電によってズタズタに削り取られていく。
複数の異なる理が、ただの人間に過ぎない美憂の肉体を内側から食い破ろうと暴れ狂っていた。
震える手で、美憂は傍らに落ちていたスマートフォンを引き寄せた。 ひび割れた画面には、何十件もの『神崎恭』からの不在着信とメッセージが残されている。
『美憂、どこにいるんだ』
『警察なんて関係ない、俺が何とかするから』
『お願いだ、連絡をくれ』
画面に並ぶ文字を見るだけで、目頭が熱くなり、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
今すぐ電話をかけて、彼の胸の中で泣きじゃくりたい。助けてほしい。
けれど、美憂は血の滲む指でその画面をそっと撫でると、ギリッと奥歯を噛み締めてスマートフォンを床に叩きつけ、完全に破壊した。
「……恭くんは、巻き込めない」
私はもう、無実のバスガイドではない。
理不尽から客を救うためだったとはいえ、あの双子や朋美の魂を刈り取り、人間であることをやめてしまった化け物だ。これ以上、彼を私の呪いに引きずり込むわけにはいかない。 孤独と絶望に押し潰されそうになる美憂の耳元で、ふと、おどけたような軽妙な神の声が響いた。
『――おや、困ったねぇ美憂。君のその健気な心とは裏腹に、その綺麗な器は複数の異能の過負荷で今にも破裂しそうじゃないか』
「……フィスト……?」
美憂が呟くと、脳内に悪戯っぽく笑う神の気配が広がる。
フィストは彼女の味方として復讐の力を貸し与えた。
彼は唐突に現れ、道化師のような軽やかな口調で語りだした。
『器を安定させるには、もっとたくさんの魂を刈り取り、君自身の存在を強固にするしかないのさ。……例えば、君をこんなルツボに突き落とした張本人。君を殺人鬼に仕立て上げ、恋人との未来を奪ったあの『嘘つきの少女』の魂とかね』
「……伊藤、南……」
美憂の瞳に、昏い炎が宿る。
自分が客を守ろうとした行動を「殺人鬼の凶行」とすり替え、警察に虚偽の通報をしたあの女子高生。彼女の嘘さえなければ、自分は追われる身になどならず、今頃恭の隣で笑っていられたかもしれないのに。
フィストの悪びれない、けれど心地よい誘い文句が、美憂の心を真っ黒に染め上げていく。
『さあ、行こうか。君の人生を狂わせた嘘つきを、その手で断罪して、君の力を確かなものにするんだ』
囁かれるままに、虚ろな目をした美憂はフラフラした足取りで雑踏の中に消えていった。
◆
冷たい雨が打ち付ける深夜の路上を、伊藤南は傘もささずに狂ったように走り続けながら呟いた。
「はぁっ……一番……っ、わた……しっ!」
駅のホームで、愛する松岡雅紀の背中を突き飛ばした。
自分の想いを踏みにじり、狂気的な本性を見せたあの男を、自分の手で線路へと。
(私は悪くない……! 悪いのは松岡先生よ! 私の事を差し置いてあんな女たちを特別に扱って……!)
ガタガタと震える歯の根を噛み合わせながら、南は人気のない高架下へと逃げ込んだ。
遠くではサイレンが鳴る。
音に怯え、自分がついに本当の殺人者になってしまったという恐怖と罪悪感が押し寄せた。
時間とともに、不安な感情が彼女の精神をズタズタに引き裂いていた。
だが――南が暗い高架下の奥へ足を踏み入れた瞬間。 ピィンッ、と張り詰めたピアノ線のような音が響き、南の身体が不可視の何かに弾き飛ばされた。
「きゃああっ!?」
冷たいアスファルトに倒れ込み、起き上がろうとした南の顔が恐怖に引きつる。
彼女の手足は、いつの間にか漆黒の極細い糸によってがんじがらめに縛り上げられていた。もがけばもがくほど糸は皮膚に食い込み、血が滲む。
「……嘘で塗り固めた現世の居心地は、どうだった?」
静寂の中、雨音を切り裂いて響いたその冷ややかな声に、南は息を呑んだ。
暗闇の奥から、一人の女性が歩み出てくる。 ずぶ濡れの衣服。青白く透き通るような肌。そして、その華奢な腕に握られているのは、身の丈を超える禍々しい黒銀の大鎌だった。
「あ……あなた、は……!」
南の瞳孔が極限まで開く。
忘れるはずがない。あのトンネルのバス事故で、横転した車内で乗客たちを次々と殺していった指名手配中の連続殺人犯。
「ば、バスガイドの……如月美憂……ッ! なんで……なんであなたがここにいるのよぉぉっ!!」
南の悲鳴を聞いても、美憂の表情はピクリとも動かなかった。
ただ、その瞳には底なしの悲しみと、凍てつくような怒りが渦巻いている。
「あなたが警察に嘘をついたせいで……私はすべてを失った。帰る場所も、大好きな人の隣も、全部」
「ち、違う! 私は見たのよ! あなたが朋美先輩たちをナイフで……!」
「私は誰も刺していない。あれは松岡の仕業よ。私はただ……絶望的な痛みの中で死にかけていたあの人たちを、この狂った世界の理から逃がしてあげただけ」
大鎌の柄を握りしめ、美憂は一歩ずつ南へと近づく。
「あなたも……今日、自分の手で松岡を線路へ突き落としたんでしょう?わかっているのよ。あなたももう、こっち側の人間だってことが」
「いや……こないで……! 殺さないでぇぇっ!! 誰か、誰か助けてぇぇぇッ!!」
拘束されたまま狂乱し、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして命乞いをする南。
だが、美憂の心に一切の憐憫は湧かなかった。彼女の暴走する異能が、南の放つ醜い自己保身の感情を敏感に感じ取り、殺意へと変換していく。
「……あなたは、ここで生きるべき人間じゃない」
美憂は静かに大鎌を高く振り上げた。
「お願い、嫌あああああぁぁぁぁっ――!!」
南の絶叫が夜の高架下に響き渡る中、黒銀の刃が躊躇いなく振り下ろされた。
音もなく、肉を断つ感触もなく。 大鎌の刃が南の胸をすり抜けた瞬間、南の肉体から青白い『魂』が引きずり出され、美憂の胸に刻まれたバイパスへと吸い込まれていく。
「あ……ぁ……」
南の肉体は糸が切れた人形のように崩れ落ち、やがて空間の歪みとともに、痕跡ひとつ残さず現世から消失した。エデンへと転生させられたのだ。
「……はぁっ……! あ……ぁぁっ……!」
南の魂を刈り取った瞬間、美憂の体内に新たな因果が強制的に接続された。
「五つ目・・・。」
激しい拒絶反応と、器が無理やり拡張されるような絶望的な痛みに、美憂は膝をついて絶叫する。 けれど、同時に耳元で軽やかに微笑むフィストの言葉通り、暴走していた複数の異能の痛みが、新たな魂を人柱にすることで(ペイン・コンバーターにより)不気味なほどの安定を取り戻していくのを感じていた。
人を呪い、魂を喰らい、化け物として完成していく自分。
もう二度と、元の自分には戻れない。
冷たい雨が血と涙を洗い流していく中、美憂は暗闇の空を見上げ、ただ一人の愛しい人の名前を慟哭のように呼び放った。
「恭くん……ッ! 恭くぅぅん……ッ!!」
彼女の悲痛な叫びは雨音に掻き消され、黒銀の死神は、完全に現世の闇の奥深くへと姿を消していった。




