シーン3:目覚めと猫の耳
頭が重い。
全身を冷たい水膜で包まれているような、不思議な浮遊感とともに、夏芽はゆっくりと瞼を 開けた。
「……ん……っ……」
視界に飛び込んできたのは、見慣れた病院の白い天井でも、自分の部屋の模様が描かれたクロス でもなかった。
太い木組みの天井と、壁に飾られた乾燥ハーブの束。窓からは、見たこともない紫が かった柔らかい陽光が差し込んでいる。
(私……生き、てる……?)
確か、友達と楽しみにしていたバス旅行の途中だった。
山道での恐ろしい衝撃。激しい金属音。潰れ る車体。死の恐怖と激痛の中で、自分を必死にかばってくれたバスガイドのお姉さんの顔が 脳裏をよぎる。
(あのお姉さん……何か光るものを持って、私に……)
そこから先の記憶は、まるで濃い霧の向こう側に隠されてしまったかのように霞んで思い出せない。 ただ一つ確かなのは、自分はあの事故で死にかけていたはずだということだ。
「はぁ……よかった……助かったのかな……」
安堵の息を吐きながら体を起こそうとした、その時だった。
(……え?)
頭の上に、何かがついている。
違和感を覚えるとともに、頭頂部にあるふさふさとした柔らかい毛に覆われた三角形の耳が、敏感に ぴくぴくと動いた。
驚いて手を伸ばすと、それは人間の耳ではなく動物の耳だった。 跳ね起き、部屋の隅にある磨かれた金属鏡へ駆け寄る。
「な……なに、これ……っ!?」
鏡に映っていたのは、少し前まで黒髪の女子中学生だった「佐々木夏芽」の姿ではなかった。
そこに いたのは、艶やかな毛並みの猫耳と、お尻から伸びるしなやかな尾を持った、見知らぬフェリシア族 の幼い少女だった。
(私……私じゃない!? でも……この子の名前は……)
頭痛とともに、自分のものではない「誰か」の記憶が津波のように脳内に流れ込んでくる。
この場所は、鏡像世界「ミラージュ・エデン」。
この体の主は、街の薬品店で手伝いをしていたフェリシア族の子供。
その子がこれまで生きてきた風景、家族、街の言葉や知識が、あたかも最初から知っ ていたかのように夏芽の脳内に溶け込んでいく。
だが、どれだけ知識が交ざり合おうとも、精神の根底にいるのは間違いなく「佐々木夏芽」だった。元の子供の人格は消え、ただ記憶の器として夏芽の魂を受け入れたのだと、感覚的に理解してしまう。
「成り代わった……の? 私、この子の体で……別の世界で生かされたの……?」
自分の手のひらを見つめる。集中すると、手のひらから小さな「澄んだ水の球」と、足元から「硬質な 土の塊」が呼応するように浮かび上がった。
見たこともない不思議な力。
言葉にならない混乱と恐怖が押し寄せる。しかし、その不安を振り払うように、夏芽は胸の前で小さな拳を強く握りしめた。
(お兄ちゃん……!)
自分がこんな信じられない姿で「生き延びてしまった」のだとしたら。
残された兄・冬夜は今、どうして いるのだろう。
自分の死を知って、泣いてはいないだろうか。
「生きなきゃ……。この世界がどこであっても……もう一度、お兄ちゃんに会うために……!」
フェリシア族の耳をしならせ、夏芽はまだ見ぬ兄との再会を信じて、鏡像世界の第一歩を踏み出した。




