シーン7:盤上の境界線
四ヶ月前。
空を覆う分厚い土気色の雲と、絶え間なく響く巨大な歯車の駆動音。
排気ガスと鉄の錆びた匂いが淀む、鋼鉄機導国ガルガニアの最下層。その薄暗い路地裏に打ち捨てられた廃棄物の山の上で、松岡雅紀はゆっくりと目を開けた。
「……なるほど。これが『死』の向こう側、というわけか」
身を起こし、自らの肉体を確かめる。痛みはない。四肢も欠損していない。
脳裏に鮮明に焼き付いているのは、冷たい雨が降る現世の駅のホームだ。自分へ異常な執着を向けていた教え子――伊藤南の狂乱に満ちた顔と、背中を突き飛ばされて視界を埋め尽くした列車の眩いヘッドライト。
教え子にホームから突き落とされて殺されるという、あまりにあっけない幕引き。だが、松岡の唇に浮かんでいたのは、恐怖でも無念でもなく、酷薄で歓喜に満ちた笑みだった。
「原典世界での暇つぶしも、あれはあれで悪くなかったが……やはり、私の魂が馴染むのはこちらの空気のようだ」
大きく息を吸い込む。現世では厳しく制限されていた、体内を巡る濃密な魔力の奔流。
元々この世界――エデンのガルガニア出身である松岡にとって、現世での生活はただの『仮の宿』に過ぎなかった。彼は電車に轢き殺されたことで、皮肉にも本来の肉体のまま故郷へと「帰還」を果たしたのだ。
彼は指先を軽く鳴らす。
――固有能力『時間停止』。
路地裏を這うネズミの動きも、パイプから噴き出していた蒸気も、空から落ちてくる酸性雨の雫すらも、世界の一切が絶対的な静寂の中に凍りつく。原典世界ではわずか『3秒』が限界だった能力が、この世界では息をするように無限の静寂を保ち続けている。
「ふふ……あはははっ! 素晴らしい。やはり私は選ばれている」
凍りついた灰色の世界を悠然と歩き出しながら、松岡は歪んだ悦びを噛み締めていた。
惜しむらくは、現世で丹精込めて作り上げた最高の『死体コレクション』――あのトンネルのバス事故で完璧に熟した姿のまま殺害する予定だった藤原姉妹を、こちらへ持ってこられなかったことくらいか。
「悠希ちゃん、莉子ちゃん……君たちの美しい死顔は、私の記憶の中で永遠に愛してあげるよ」
彼女たちが同じこの世界で生き延び、自分と同じようにこの大地を踏みしめていることなど、狂気の殺人鬼は知る由もない。
松岡は歩みを進める。目指すは、すべての中心である首都ルミナス。その地下深層の暗部に潜り込み、自らの能力をもって再び完璧な『箱庭』を作り上げるために。
◆
現在。中央聖導国ルミナス、ギルド直営の治癒院。
清潔な白いシーツの匂いと、微かに漂う薬草の香り。
窓から差し込む柔らかな午後の陽光の中、藤原悠希はゆっくりと重い瞼を開けた。
「……お姉ちゃん、気がついた……?」
隣のベッドから、妹の莉子が不安そうに身を乗り出してくる。
「莉子……。私、生きて……」
首筋に触れると、丁寧に分厚い包帯が巻かれていた。佐伯朋美の恐ろしい黒い糸に自我を支配され、意識の底で叫び続けていたあの悪夢の記憶が、鈍い頭痛とともに蘇ってくる。
病室の扉が開き、入ってきたのは、異形の左腕を拘束帯で隠した青年――冬夜だった。その後ろから、お盆に温かいハーブティーを乗せた夏芽と、少し申し訳なさそうに視線を落とする瑞希が続く。
「気がついたみたいだな。……あんたたちが操られてたのは分かってる。無事に助け出せたようで何よりだ」
冬夜はベッドの脇の丸椅子を引いて座り、短く息を吐いた。
「私が……私を庇ってくれたせいで、お姉ちゃんがいっぱい血を流して……ごめんなさい……っ」
莉子が涙ぐむと、悠希は優しく首を振って妹の手を握りしめた。
「ううん、莉子が無事でよかった。……助けていただいて、本当にありがとうございます」
悠希は冬夜たちに向かって深々と頭を下げる。
「私は藤原悠希。こっちは妹の莉子です。ギルドの指名依頼を見て、来てくださったんですよね。……あなたたちも、『日本』から来たんですか?」
その問いに、冬夜、夏芽、瑞希の三人は静かに頷いた。
「ああ。俺は佐々木冬夜だ。こっちのフェリシア族は妹の夏芽。夏芽が巻き込まれたバス事故の後……俺は絶望して、自ら電車のホームに飛び込んでこっちに跳ばされた」
「私は岡田瑞希です。……あの、ごめんなさい。あなたたちを操っていた佐伯朋美ちゃんは……私と同じ高校の同級生で……」
瑞希の沈んだ声に、悠希は目を丸くした。
「佐伯さんって……あのトンネルのバス事故の時に、同じ車両に乗っていた佐伯朋美さん……?」
「ええ。私への歪んだ執着から……私をおびき寄せるために、きっとあなたたちを利用したんです」
瑞希は自分の膝の上で、拳をぎゅっと握りしめた。
「でも、もう逃げません。朋美ちゃんがどれだけ狂っていても、私がちゃんと向き合って止めなきゃいけないから」
悠希と莉子は顔を見合わせた。それぞれが抱える現世での凄惨な因果が、この異世界で複雑に絡み合っていることを痛感する。
「佐々木さんに、岡田さん……。お互いの状況を、少し整理しましょう」
悠希はベッドの上で姿勢を正し、真剣な眼差しで切り出した。
「私たちが経験したあのバスツアーの事故。あれは……ただの不運な交通事故じゃありません。私たちの高校時代の担任だった教師、松岡雅紀が仕組んだ、意図的な大量殺人だったんです」
「なっ……! 教師が……!?」
冬夜が息を呑み、夏芽も信じられないというように両手で口元を覆った。
「ええ。彼は最初から私たちを殺すためにツアーを計画して……暗いトンネルの中で、突然ナイフを取り出して暴れ回ったわ。運転手さんを殺して、バスを無理やり横転させたのよ」
莉子も震える声で、当時の地獄のような光景を語り継ぐ。
「私たちは潰れたバスの下敷きになって、骨を砕かれて……もう助からないって思ってた。でも……」
「じゃあ……なんであんたたちは、この世界にいるんだ?」
冬夜の問いに、悠希は静かに首を振った。
「美憂さんよ。……如月美憂っていうバスガイドの女性が、血だらけになりながら、不思議な光る大鎌で私たちの胸を突いたの。激痛で苦しむ私たちを、この世界へ逃がしてくれた……彼女が、私たちを殺してくれたから、今こうして生きている」
その言葉を聞いた瞬間、お盆を持っていた夏芽の手がガタッと震えた。
「……如月、美憂……さん?」
夏芽が信じられないものを見るように、大きく目を見開く。
「私……私も同じだよ! 私が巻き込まれた1回目のバス事故の時……死にかけてた私に、その人が言ったの。『理不尽な世界の理の外側へ逃がしてあげる』って……そして、光る大きな鎌で……!」
病室の空気がピンと張り詰めた。
「待て……ちょっと待てよ」
冬夜が腕を組み、鋭い視線で全員の顔を順番に見回した。彼の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが急速にひとつの法則へと組み上がっていく。
「偶然なんかじゃない。俺たちがこの世界に落ちてきた経緯には、明確な『ルール』がある」
冬夜は自分の顔と、瑞希の顔を指差した。
「俺と瑞希は、どちらも現世で『電車に轢かれて』ここへ来た。そして、俺たちは現世と同じ『自分の肉体』のまま、この世界に存在している」
次に、冬夜は夏芽の猫耳と、悠希と莉子の尖った耳へ視線を移す。
「だが、夏芽と藤原姉妹……それに、怪物の姿になっていた佐伯朋美。あんたたちは全員『バス事故』に巻き込まれ、あのバスガイドに『殺されて』ここへ来た。そして全員が、エデンの住人の肉体を奪う転生をしている」
「あ……」
瑞希が小さく声を漏らし、ハッと息を呑んだ。
「電車で轢かれた私たちは……そのままの姿で『転移』して。バスガイドさんに殺された人たちは……この世界の人間の体に『転生』している……?」
「間違いない」
冬夜は拳を強く握りしめ、窓の外に広がるルミナスの巨大な街並みを睨みつけた。
「俺たちをこの世界に呼んだ奴らは、無差別に魂をばら撒いてるわけじゃない。電車でそのまま跳ばす方法と、バスガイドの手で他人の身体に成り代わらせる方法……何か、見えざる手による底知れない『作為』のようなものを感じる」
「なら……もしかして、これからも私たちみたいに日本からこの世界にやって来る人がいるかもしれないってこと……?」
夏芽の言葉に、冬夜は重く頷いた。
「ああ。現時点じゃまだ情報が足りないが、その可能性は高い。現に俺たちはこうして一堂に会している」
現世で起きた不可解な現象と、このエデンでの異常な法則。
なぜ自分たちは世界を分かたれ、異形の力を与えられたのか。不気味な法則の存在に気づいた彼らの胸に、得体の知れない薄ら寒さと、世界の深淵に迫る確かな決意が同時に宿り始めていた。




