シーン6:救われない母子
――カチリ、と水道の蛇口を捻る音が、狭いアパートの台所に虚しく響く。
宮本玲奈は、真っ赤に腫れ上がるほど自分の手を石鹸で洗い続けていた。皮膚が擦り切れ、血が滲んでも洗うのを止められない。いくら洗っても、全身にへばりついたあの男の匂いと嫌悪感が拭い去れないのだ。
夫が病で他界してからの数年間、玲奈と娘の愛奈の生活は泥の底を這うようだった。 体調を崩して正規の仕事に就けず、受給する生活保護と、近くのスーパーでのパート収入で細々と繋ぐ毎日。そんな弱り切った母子に目をつけたのが、パート先の店長だった。
弱みを握った男は次第に図に乗り、やがて玲奈たちのアパートにまで当然のように上がり込んで横暴に振る舞うようになった。
理不尽な怒号と威圧が充満する四畳半の部屋。 幼い愛奈は恐怖に怯え、母親の背中にしがみつくことしかできなかった。男の存在そのものが恐怖の象徴となり、母子の日常と尊厳をじわじわと侵食していく。
最初の頃は泣きじゃくっていた愛奈だったが、逃げ場のない圧迫感に晒され続けるうちに、いつしか感情そのものを失っていった。
愛奈の瞳からは「怒り」も「恐怖」も消え、ただ虚空を見つめるだけの、心が完全に壊れてしまったかのような状態に陥っていく。
「お母さん……痛くないよ……何も、かんじないよ……」
感情の抜け落ちた声でそう呟く愛奈の姿を見た時、玲奈の胸は張り裂けるような激痛に引き裂かれた。 自分がどれだけ耐えても、愛する娘の心が目の前で壊されていく。
(ああ……もう、いいんだ。……全部、終わらせよう)
玲奈の心から、すべての感情と怯えがスッと消え去った。
台所へ向かい、包丁の柄を握りしめる。 男が油断した背後から、溢れ出す怨嗟のすべてを込めて刃を振るった。
この男に救いなど訪れない。他人の人生を踏みにじった醜い命は、ただ現世の泥の中で消滅するだけだ。
崩れ落ちた男を見下ろし、玲奈は息を荒げ、血のついた手を震わせながら愛奈の元へ崩れ落ちるように寄り添った。
愛奈の手元には、現世の現実から心を遮断するために描き殴られたスケッチブックがあった。そこに描かれていたのは、顔の潰れた黒い人間と、歪んだ赤と黒の渦。心が完全に壊れてしまった少女の、無機質で狂気に満ちた世界だった。
「愛奈……」
「……お母さん?」
壊れた瞳のまま見上げてくる愛奈を、玲奈は強く抱きしめた。 そして愛奈を抱え、夜の街へと走り出す。
向かうは、雨の降る無人の踏切。
カン、カン、カン、カン――。
遠くから線路を揺らす激しい走行音と、疾走してくる電車の眩しいヘッドライトが迫る。 警報機が鳴り響く中、玲奈は遮断機を潜り抜け、中央で愛奈をきつく抱きしめた。
「ごめんね、愛奈。……もう、つらい思いはさせないからね。一緒に、誰もいない遠いところへ行きましょう」
激しい眩しい光と、鼓膜を裂くブレーキ音。 命の灯火が圧倒的な衝撃とともに吹き飛ばされる、完全な絶望。
――だが、二人の意識は永遠の無には落ちなかった。
……ドクン。
鼓動が跳ね起きる。 鉄の匂いと雨の冷たさは消え、肌を撫でるのは清廉で冷たい「異世界の夜風」だった。
「……つ……あ……?」
玲奈が目を開けると、そこは日本の踏切ではなく、見たこともない巨木がそびえ立ち、蒼い月が浮かぶ見知らぬ森の草の上だった。 電車に跳ね飛ばされ、死んだはずの身体。しかし傷一つなく、手足ははっきりと温かい。
「お母さん……? ここ……どこ……?」
隣で、愛奈が目をこすりながら起き上がった。その小さな手には、現世で握りしめていたはずのスケッチブックとクレヨンがしっかりと握られている。
「愛奈……っ! よかった、生きて……っ」
玲奈は震える手で愛奈を強く抱きしめ、周囲の異質な風景を見回した。 自分たちはどこへ来てしまったのか。なぜ死ねなかったのか――。
◇
――同刻、現世。雨の降りしきる踏切。
緊急停止した電車の脇、闇の中にひっそりと佇む一人の男の姿があった。
雨を吸った黒いコートの襟を立て、作業端末のような小さな機器を操作している――恭。 彼は『異常点検』の任務として、踏切で起きた因果の歪みと、生身のまま別世界へ跳び越えた事象を静かに確認していた。
画面に表示される【位相転移反応:確定】という無機質なログ。
線路に残されたかすかな二人の残香。現世の泥に押し潰され、絶望の果てに命を捨てて世界を越えていった魂。
恭は静かに端末を閉じ、雨の夜空を見上げて低く呟いた。
「……そうか」
恭は目を伏せ、この世界から消え、見知らぬ異世界へと落ちていった母子に向けて、切なく祈るような言葉を落とした。
「今度は……救われてほしいな」
その言葉を残し、恭の姿は雨の夜の闇の中へ、何事もなかったかのように静かに溶け込んで消えていった。




