シーン12:執着の目覚め
湿った土と、青く臭い草の匂いが鼻腔を突く。
ネルガル王国の南端に位置する小さな農村地帯――ルークス村。 辺境樹海国グラニアの国境を越えてすぐのこの地に辿り着き、村はずれの廃屋を拠点にしてから三ヶ月の月日が流れていた。
「くっ……ふぅぅぅ……っ」
薄暗い地下室の中、佐伯朋美は膝下の黒い甲殻に意識を集中させ、魔力を静かに、そして極めて滑らかに収束させていく。 かつては全身の骨を砕かれるような激痛にのたうち回り、解けかける脚を必死に抑え込むだけで精一杯だった【人化(偽装)】の術。だが、人目に触れて討伐される恐怖から、昼夜を問わず絶え間なく魔力を微調整し続けたこの三ヶ月間で、朋美の肉体には大きな変化が起きていた。
(……激痛が、消えていく。身体に馴染んできてる……)
指先から溢れ出す漆黒の糸を眺め、朋美は自嘲気味に息を吐く。 人化という不自然な肉体の圧縮を常に維持するため、解けかける脚を無理やり抑え込み、ミリ単位で魔力を制御し続ける日々。その過酷極まる訓練を無意識に繰り返した結果、体内の魔力容量は自分でも気づかぬうちに爆発的に跳ね上がり、常人では考えられないほど高度で精緻な魔力コントロール能力が培われていたのだ。
ギチ、と軽やかな音とともに八本の不気味な蜘蛛脚が黒い魔術の霧へと分解され、滑らかな二本の素足へと戻る。
(私……この身体の元の女の子を奪っちゃったんだ……。だから、誰にも迷惑をかけずに、静かに生きていかなきゃ……)
この身体の元々の持ち主だったアラクネの少女の手記と、その素朴な記憶。 罪悪感と人知れず消される恐怖から、地下室で魔力を抑え込む苦悩を重ねるうちに、朋美はこの村での「偽りの暮らし」をしっかりと確立させていた。
◆
「おはよう、セシリアちゃん! 今日も良い天気だねぇ」
「おはようございます、おばさん! お野菜の仕込み、手伝いましょうか?」
「まあ、いつも気の利く良い子だねぇ。後で出来立てのパンを持ってっていっておくれ!」
地下室での泥臭い努力と過酷な制御の甲斐あって、村の大通りへ出れば、農家の人々や露店の店主たちが次々と温かい声をかけてくる。 朋美――冒険者としては、少女の手記にあった愛称から拝借した『セシリア』という偽名を名乗っていた――は、街の人々に心からの可憐で可愛らしい微笑みを返していた。
本名を隠し、偽りの姿と偽りの名で生きる日々。 地下室で重ねた魔力調節によって人化は完全に安定し、現世(日本)で培った「完璧な優等生」の演技も相まって、いまでは村人たちから「大人しくて健気な、村の愛され冒険者」としての確固たる居場所を勝ち取っていた。
「はい、セシリアちゃん。今日の月光草の買い取り代金だよ。いつも村のために無理のない範囲で頑張ってくれてありがとうね」
「ふふ、ありがとうございます、おじさん! 大切に使わせていただきますね」
簡易ギルドの受付で報酬を受け取り、朋美は胸の前に手を当てて嬉しそうに微笑む。
人化が解ける恐怖に怯え、地下室で一人泣きながら魔術を抑え込んでいた頃の惨めさはもうない。 セシリアとして過ごす毎日は、想像以上に温かく、穏やかな光に満ちていた。
(私……このままここで……)
村の広場のベンチに腰掛け、焼きたてのパンを少しずつちぎりながら、朋美は澄み渡る青空を見上げた。
(ここでセシリアとして……誰の邪魔もせず、村のみんなに愛されながら、静かに生きていく……。私、このままここで……幸せになっても、いいんだよね……?)
地下室での苦痛も、自分を縛り付けていた現世のどろどろとした過去も、すべてを置き去りにして新しく生きていく決意。 胸の奥に芽生えた確かな温もりに、朋美の瞳には柔らかく清らかな光が宿っていた。
幸せを実感し、満ち足りた心地で微笑んだ――まさに、その瞬間だった。
「――がはは!」
「 ガルドさん、次に向かう街の街道整備の依頼、思ったより早く片付きそうですね!」
「おう、瑞希の隠密が完璧だからな! 追撃の心配がない分、サクサク進むぜ!」
街道の向こうから聞こえてきた、賑やかな声。 聞き覚えのある、けれどこの世界に存在するはずのない、胸を刺すその「名前」に、朋美の身体が硬直した。
朋美はゆっくりと、吸い寄せられるように首を巡らせた。
村の街道を歩いてくる数人の冒険者たち。 その中心で、軽やかな小剣を腰に差し、笑顔で先輩冒険者と会話を交わしているひとりの少女。
前髪を軽く整え、活き活きとした瞳で未来を見つめるその姿。
「……え……?」
朋美の手から、小さくちぎったパンがポロリとこぼれ落ちた。 呼吸が止まり、世界からすべての音が消え去る。
濡れた雨のホーム。 対岸で自分に向かって寂しそうに微笑み、線路へと身を投げた親友。
「瑞……希……?」
そこにいたのは、自分が完璧に追い詰め、世界から隔離し、永遠に自分だけに依存させるはずだった――岡田瑞希だった。
◆
「瑞希……? 嘘……なんで……?」
朋美は木陰の暗がりへと咄嗟に身を潜め、激しく肩を揺らした。
遠くで見える瑞希の表情。 それは、現世(日本)で朋美の陰湿ないじめと支配に怯え、俯きながら自分にすがりついていた頃の瑞希ではなかった。 仲間と楽しそうに笑い合い、誇らしく胸を張り、自分の足で力強く未来へ向かって歩んでいる「自立した一人の人間」の顔だった。
(なによ……それ……)
朋美の瞳から、つい先刻まで宿っていた温かな光が一瞬で消え失せた。
頭の中の鐘がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。 地下室で耐え抜いた激痛も、村の人々から受けた温もりも、セシリアとして掴みかけた新しい幸せも、一瞬にしてどろどろとした黒い感情の渦へと呑み込まれて消失していった。
(私が……どんな思いで血を吐いて脚を隠して……ッ! 過去を捨てて、必死でここで新しく生きようとしてたと思ってるの……!?)
激しい裏切り感と、血が逆流するような殺意。
瑞希は、私のものだ。 私の「可愛いお人形」として、私の手の中でしか生きられないはずの存在。 なのに、私を置いて一人で勝手に異世界へ逃げ延び、私なしで……私よりも先に、自分だけの幸せと居場所を手に入れていた――。
その残酷な現実が、朋美の心を一瞬で凍りつかせ、覚醒させた。
(許さない……。許さない許さない許さない……ッ!!)
指先から、地下室での制御で桁違いに強靭になった漆黒の糸が、無意識のうちにスッと伸びて大地の土を深く切り刻む。
(あなたがどこへ行こうと、どんな仲間を作ろうと……関係ない。私は絶対にあなたを逃がさない)
木陰の暗がりの中、朋美の口元が、セシリアの可憐な笑みとは対極の……おぞましくも歪んだ悦びへと吊り上がっていく。
村での平穏な暮らしなど、もうどうでもよかった。 セシリアという偽りの幸せも、すべてはどうでもいい。
ただ一つ――岡田瑞希を再び捕らえ、二度と自分から逃げ出せないように、その身体も、心も、自由も、魂のすべてを自分の「網」で永遠に縛り上げてあげる。
(待っててね、瑞希。私たちが離れ離れなんて……やっぱり間違ってるものね……?)
地下室での苦悩を経て掴みかけた光を自ら踏みつぶし、蜘蛛の狂乱が、静かに、そして不気味に目を醒ました。




