シーン7:転生のアラクネ
「……う……あ……っ」
頭を叩き割られるような激痛と、鼻をつく生臭い湿気。 朋美は、苔の生す薄暗い洞窟の岩肌の上で目を醒ました。
脳裏に過るのは、地獄のようなバスツアーの記憶。横転した車内で全身の骨を砕かれる激痛と、あのバスガイドの女が放った漆黒の冷気――。
(死んだ……の? 私……)
安堵し、身体を起こそうとした朋美は、腰から下の異様な重みと「這い回る感覚」に息を飲んだ。恐る恐る視線を落とした瞬間、喉から凄絶な悲鳴が上がる。
「ひ……ひぃぃぃぃぃっ!? やだ……嫌ぁぁぁぁっ!!」
そこにあったのは滑らかな素肌ではなく、黒く硬質な甲殻と、自分の意思に合わせてワサワサと蠢く八本の巨大な蜘蛛の脚。腰から下全体が、巨大な毒蜘蛛そのものと化していた。
「嘘……嘘でしょ……!? 私が……こんな、こんな不細工な蜘蛛だなんて……っ!!」
狂乱し、助けを求めて八本の脚を不器用に動かしながら洞窟の外へ飛び出した朋美。だが、街道の近くで出会った人間たちは、彼女を見るなり容赦なく石や松明を投げつけてきた。
『アラクネが出たぞ! 人喰いの化け物め、殺せ!!』
「痛いっ! やめて……私よ! 私、人間なのよ……っ! 助けて!!」
どれだけ泣き叫んでも悲鳴は届かず、殺意に満ちた矢や石が降り注ぐ。命からがら逃げ出し、再び薄暗い洞窟の奥へと逃げ戻った朋美は、壁際でガタガタと震えて絶望に打ちひしがれた。
(私……見つかったら殺されるの……!? こんな姿で……どうやって生きていけばいいのよ……!)
◆
それから、どれほどの時間が過ぎただろうか。
薄暗い洞窟の中で、朋美は底知れぬ恐怖と孤立感に苛まれていた。 空腹を満たすために洞窟の壁を這う小虫を泣きながら口にし、泥水をすする悲惨な日々。外へ出れば殺される。ここに居ても死ぬ。自分の美しい容姿も、高慢なプライドも、すべて異形の肉体によって打ち砕かれていた。
震える手で洞窟の奥を這い回っていた時、干し草の陰から一冊の使い古された羊皮紙のノートが見つかった。
(……誰かの手記……?)
縋るようにノートを開いた瞬間――頭の中に強烈なノイズと「知らない記憶」が流れ込んできた。
『―月―日。今日も森で迷った旅人の人に、美味しい木の実を置いておいた。この脚のせいで面と向かって会ったら怖がらせちゃうから。でも、本当は直接「こんにちは」って言って、人間さんとお友達になりたいな』
『アラクネとして生まれたけれど、私はこの森が大好き。誰も傷つけないで、みんなと仲良く優しく生きていけたらいいのにな』
ノートに綴られていたのは、人間から化け物と蔑まれ迫害されながらも、人を恐れさせまいと気遣い、健気に歩み寄りを夢見ていたアラクネの少女の純粋な願いだった。
そして同時に脳裏へ宿る、無邪気に笑う少女の記憶と、何者かの黒い渦に呑み込まれて魂を消滅させられた最後の恐怖。
「……私……この子の身体を……精神ごと乗っ取って、奪い取っちゃったんだ……」
自分が他人の肉体を強奪して成り代わったという恐ろしい事実。 だが、洞窟で絶望に折れかけていた朋美の心に、少女の遺したあまりに温かく健気な感情の残り香が、しとしとと静かに染み込んでいった。
(私……化け物として誰かを傷つけるんじゃなくて……この子の分も、人間として……静かに優しく生きなきゃいけないのかな……)
罪悪感と、少女の純粋な記憶の影響。 外界への恐怖と過酷な日々の中で、朋美の角立っていた心は丸くなり、生前の高慢さすらも薄れ始めていた。
「人間の姿に……戻らなきゃ。人間に害をなさない、綺麗な姿に……」
それからの試行錯誤の日々は、凄絶を極めた。 少女の記憶に残る魔力の使い方を頼りに、朋美は血の滲むような思いで己の肉体と向き合った。
「くっ……うぁぁぁぁっ……!!」
骨と甲殻がギチギチと摩擦し、身を裂くような激痛。 八本の蜘蛛の脚を黒いモヤへと収縮させ、二本の素肌へと圧縮・再形成していく過程は、肉体を解体して再構築するに等しい拷問だった。一度失敗すれば、脚が異常な方向に折れ曲がり吐血した。
それでも朋美は諦めなかった。 「怪物ではなく人間として、誰にも迷惑をかけずに静かに生きたい」という、元の子の影響を受けた純粋な願いが、彼女を支えていた。
何十回、何百回という激痛の死闘の末――。 ついに朋美は、外見上は「漆黒のドレスを纏った、少し肌の白い美しい人間」に見える【人化(偽装)】の術を完全に自分のものとしたのだった。
◆
「できた……。これで……外へ出られる……」
汗と涙に塗れながらも、整った二本足で立ち上がった朋美。 指先から漏れ出る漆黒の糸――自身の固有能力【執着の網】も、攻撃のためではなく、人目を避けて身を守るための道具として扱えるようになっていた。
元の子の記憶と想いを胸に、これからは目立たず、穏やかに人間社会の隅っこで生きていこう。
己の足で、一歩、また一歩。 光の差す街道へ足を踏み出し、朋美は遠くに見える大きな町を目指した。
偽りの二本足で歩く感覚はまだぎこちない。それでも、街の門をくぐり、冒険者ギルドへと足を運ぶ。この異世界『ミラージュ・エデン』で、誰の邪魔もせず、人知れず自分の居場所を作って生きていくために。
かつての我儘な自分を捨て、奪ってしまった身体の元のアラクネの少女のためにも、まっとうな冒険者として生きる道を選ぶ。
暗い過去と過酷な日々を乗り越え、朋美は新しい一歩を踏み出したのだった。




