シーン3:冷たいホーム
朋美の言葉だけを心の支えに、瑞希は必死に耐え続けていた。
だが、悪意の猛威は止まることを知らなかった。
「……気持ち悪いんだよ」
「朋美ちゃんにすがりついてさ、被害者面すんのやめてくんない?」
取り巻きの女子たちからの嫌がらせは日ごとに苛烈を極め、いつしか瑞希の靴には画鋲が仕込まれ、階段の上から教科書類を投げ捨てられるまでになっていた。
自分が息をしているだけで、誰かを不快にさせている。 朋美がかばってくれればくれるほど、周りの敵意は膨れ上がり、朋美自身にまで被害が及びそうになっていた。
(……もう、ダメだ)
朋美に迷惑をかけたくない。でも、もうこれ以上、この世界で息を吸うことができない。 極限まですり減った瑞希の精神は、静かに、そして致命的に砕け散った。
◆
しとしとと冷たい雨が降る、夕暮れの駅ホーム。
反対側のホームにいた朋美は、手すりに寄りかかりながら、苛立ちを隠すようにスマホの画面をタップしていた。
朋美がこのホームにいたのは、いじめっ子グループの女子たちから頼まれた「頼み事」のためだった。 明日、瑞希をさらに教室で全校生徒の晒しものにするための「余興の道具」――パーティー用のクラッカーや大量の黒い紙吹雪。それを隣町の大型ショップまで買いに行かせるよう、女子グループは瑞希に押しつけようとしていたのだ。
『そんなの、瑞希にやらせたら可哀想だよ。私が代わりに行ってきてあげる!』
朋美はクラスでそう宣言し、健気で優しい親友を演じてその買い出しを引き受けたのだった。 瑞希に「私が代わりに行ってあげたからね」と貸しを作り、同時に明日、瑞希が絶望する顔を特等席で眺めるために。
(本当、手がかかるんだから……。今日もお使いに行ってあげたって恩を売って、私なしじゃ生きていけないようにしてあげなきゃ)
そんな歪んだ愛おしさを反芻しながら、ふと視線を上げた時だった。
線路を挟んだ向かい側――上り線のホームの黄色い線のすぐそばに、ぽつんと立つ少女の姿が目に入った。 濡れた前髪を額に貼りつけ、傘もささずに佇むそのシルエット。
「……え?」
朋美の思考が凍りついた。
「瑞希……?」
対岸のホームで、瑞希は虚ろな目で線路を見つめていた。その表情には生気がなく、今にも消えてしまいそうなほど儚い。
「瑞希! 瑞希―――っ!?」
朋美は手にしていた買い物袋を投げ捨て、なりふり構わず対岸に向かって叫び、ホームの柵を強く掴んだ。 だが、二人の間には深く冷たい線路が横たわっている。階段を駆け下り、線路を大きく迂回して向こう側へ渡るには、あまりにも距離がありすぎた。
朋美の声に気づいたのか、瑞希がゆっくりと対岸へ視線を向けた。 線路越しに朋美と目が合う。瑞希の唇が、小さく動いた。
(ごめんね、朋美。……私を好きでいてくれて、ありがとう)
声は届かない。けれど、瑞希の唇の動きと、その静かな微笑みだけで、朋美には何を言おうとしたのか痛いほど理解できた。
「やめて……! 瑞希、待って! 待ちなさいよ瑞希―――っ!!」
柵を乗り越えんばかりに身を乗り出し、狂ったように手を伸ばす朋美。 いつもなら、どんな時でも自分の手を握り返してくれた瑞希。なのに、今の瑞希は絶対に手の届かない対岸で、優しく微笑んでいるだけだった。
ゴォォォォ……ッ!
けたたましい警笛とともに、瑞希の立つホーム側へ、濡れた鉄の塊が猛スピードで滑り込んでくる。眩しいヘッドライトが瑞希の身体を白く照らし出した。
「瑞希ーーーーーっっ!!!!」
朋美の裂けるような悲鳴が駅全体に響き渡る。
瑞希はゆっくりと両目を閉じた。 恐れも未練もなかった。朋美の叫び声すら、遠い世界の出来事のように思えた。
瑞希の体が、ふわりと浮く。 線路へ向かって吸い込まれるように、瑞希は静かに身を投げた。
衝撃。光。そして耳を刺すスキール音。
だが――意識が闇に塗りつぶされる直前、瑞希の全身を包んだのは激痛でも血の冷たさでもなかった。
浮遊感。 まるで深い底のない温かい水の中に沈んでいくような、不快なほどに静かな感覚。
(あれ……私……?)
衝突音も、対岸で泣き叫ぶ朋美の声も、一瞬にして遠のいていく。 線路の上に散るはずだった瑞希の身体は、肉体も、着ている制服もそのままに、空間の歪みの中へと消え去っていった。
現世のレールから外れ、『ミラージュ・エデン』へと堕ちていく瑞希の「転移」の瞬間だった。
線路を挟んだ対岸には、届かない手を伸ばしたまま、瑞希が消えた線路を見つめて凍りつく朋美の、狂乱した悲鳴だけが虚しく響き続けていた。
急停車した電車の横、騒然となるホームの影。 人だかりの隙間から、雨に濡れる線路を見下ろす一人の青年の姿があった。
恭だ。
悲鳴と怒号が飛び交う喧騒の中、彼だけがどこか遠くを見るような、冷ややかな瞳で誰もいなくなった線路を見つめていた。血の痕跡すら残さず、肉体ごと空間の歪みへと消え去った少女の行方を、彼はすべて理解している。
恭は小さく口元を緩めると、雨の中に静かに呟いた。
「……ようこそ。異世界へ」




