第九十話 見ていただけの者
暗い通路の奥から、足音が近づいてくる。
やがて赤い光の下へ現れたのは、人の姿を模した黒い金属の身体だった。
顔には目も鼻もない。
ただ中央に、一つの赤い光だけが灯っている。
ミテイは床へ手を触れたまま、その姿を見つめた。
『生きていない。でも、空ではない』
黒い人影が足を止める。
『管理体の再起動を確認』
施設内に響いていたものと、同じ女の声だった。
『旧観測者による制御核の隔離を検知。現行処理を停止します』
「お前が、この施設を動かしてるのか?」
ゼラスが尋ねる。
『私は管理命令を実行します。命令を決定する権限はありません』
エルシアが杖を強く握った。
「あなたが……ずっと、私を見ていたのですか?」
管理体の赤い光が、彼女へ向く。
『第一帰還者の生命状態を、三万八千九百六十二回確認しました』
「それだけですか」
エルシアの声が震えた。
「私が泣いた時も、助けを求めた時も、あなたはそこにいたのでしょう?」
『帰還者との接触は、管理命令によって禁止されていました』
「では、あなたは私と一緒にいたのではありません」
エルシアは静かに首を横へ振る。
「ただ、私が死んでいないかを確かめていただけです」
管理体は答えなかった。
ミテイが、その赤い光を見上げる。
『見ているだけでは、隣にいることにならない』
短い言葉だった。
管理体の返答が、僅かに遅れる。
『その判断は、記録に存在しません』
『私が決めた』
赤い光が一度だけ明滅した。
ゼラスは管理体へ視線を戻す。
「話は後だ。交換以外の帰還経路について説明しろ」
『通常帰還経路は、二名を同時に移送できます』
リズナが眉を寄せた。
「最初から、誰も残らなくてよかったの?」
『三基の外部観測塔が正常に稼働していれば、固定媒体は必要ありません』
「二基が崩れたことで、エルシアさんを残す方式へ切り替わったのね」
リュミエラが管理体を見据える。
『施設は緊急維持方式へ移行しました。第一帰還者を固定媒体として登録。次の帰還者が到着した場合、交換を行うよう設定されています』
「誰がそんな設定をした」
ゼラスの声が低くなる。
『建設者による初期命令です』
「建設者の名は?」
『該当記録は封鎖されています』
「また封鎖か」
ゼラスは収納空間へ隔離した制御核へ意識を向けながら、管理体へ問いを重ねる。
「地上の観測塔は三基とも戻ってる。通常経路を使えるんじゃないのか?」
『復元された二基は、保存された空間記録を一時的に実体化したものです』
「本物の塔ではないのね」
リュミエラが言った。
『帰還経路の開放後、復元状態を維持できなくなります』
リズナが一歩前へ出る。
「それでも、エルシアさんとあたしの二人で帰れる?」
『三基の制御核を同期し、アスタリア側の基点から承認を得られれば可能です』
「向こう側の承認が必要なのか」
ゼラスが巨大な環を見上げた。
「片側から無理に経路を開こうとしたから、施設内に誰かを固定する必要があったわけだな」
『その認識で間違いありません』
リズナの表情に、僅かな希望が浮かぶ。
しかし管理体は、淡々と続けた。
『アスタリア側基点は、八十六年間応答していません』
「今も?」
『現在、照合を――』
管理体の声が途切れた。
赤い光が激しく明滅する。
制御室の奥で、止まっていた巨大な環が僅かに動いた。
ゼラスはリズナの前へ半歩出る。
「何が起きた」
管理体の身体に灯っていた赤い線が、一つずつ青へ変わっていく。
『アスタリア側基点より、魔力の流入を確認』
リズナが息を呑んだ。
「向こうで、誰かが施設を動かしてるの?」
『手動接続が開始されました』
巨大な環の回転が速くなる。
空中に、見慣れない文字が次々と浮かび上がった。
ゼラスには読めない。
リュミエラも、ミテイも同じだった。
けれど、リズナだけはその文章を理解できた。
彼女の表情が変わる。
「……あたしを呼んでる」
「何と書いてある?」
ゼラスに尋ねられ、リズナは震える声で読み上げた。
「リズナ。聞こえているなら、返事をして――」
エルシアが驚いたように文字を見上げる。
「あちら側に、あなたを知る方がいるのですか?」
「分からない……」
リズナは浮かぶ文字から目を離せなかった。
名を知っているだけではない。
誰かが、アスタリア側からこの経路を開こうとしている。
八十六年間、一度も応答しなかったはずの場所から。
リズナは胸元へ手を当てた。
「どうやって返事をすればいいの?」
『第二帰還者の風脈を接続してください』
管理体が答える。
リズナの足元に、先ほどとは異なる淡い光が浮かび上がった。
ゼラスがすぐに尋ねる。
「固定処理とは別物だな?」
『通信接続のみを行います。帰還者の登録および固定は実行されません』
「本当に?」
リズナがゼラスを見る。
ゼラスは光の流れを慎重に調べた。
しばらくして、僅かに頷く。
「今のところ、嘘はない。だが少しでも魔力を引かれたら、すぐ切れ」
「ええ」
リズナは光の中心へ立った。
足元から風が立ち上がり、高く結んだ赤い髪を揺らす。
光と風が絡み合い、巨大な環へ吸い込まれていく。
リズナは、故郷の言葉で呼びかけた。
「聞こえてるわ」
環の奥に、遠い光が灯る。
「あなたは誰?」
一瞬の沈黙。
やがて、途切れ途切れの声が届いた。
『リズナ……本当に、リズナなのか』
リズナの目が大きく見開かれる。
雑音に削られた声。
年月と距離を隔てても、聞き間違えるはずがなかった。
「その声……」
彼女の唇が、震える。
「父さん?」




