第八話 外側
リズナは一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。
「世界の……外側?」
「国境の外でも、大陸の外でもないわ。
私たちが暮らしている空間の、さらに外側」
リュミエラは記録紙に描かれた幾つもの円を、指先でなぞった。
「古代の研究者たちは、この世界を一枚の膜のようなものだと考えていたの」
最も内側に描かれた円を、紫の瞳が見つめる。
「私たちが暮らす場所が内側。
その膜を隔てた向こう側にある、法則も時間も、生と死の区別さえ同じとは限らない領域。
彼らはそこを、ただ『外側』と呼んだ」
音のない禁書庫が、先ほどまでよりも静かになったように感じられた。
リズナは周囲を見渡した。
高く伸びる本棚。
鎖で閉ざされた箱。
魔導灯の光が届かない、通路の奥。
何も変わっていないはずなのに、説明を聞いた後では、暗闇の見え方まで違っていた。
「そんな場所が、本当にあるんですか?」
「存在を証明する確かな記録は残っていないわ」
リュミエラは古い記録紙へ視線を落とした。
「けれど、門を開こうとした記録は残っている」
「成功したのか?」
ゼラスが尋ねる。
「成功と呼んでいいものかは、分からないわね」
リュミエラは記録紙を慎重にめくった。
紙は黒ずみ、端の一部が崩れかけている。
「大規模な実験は三度行われた」
一枚目の記録へ指を置く。
「一度目は、門が開かないまま術式が崩壊。
魔力炉が焼き切れ、研究施設の半分が失われた」
指先が次の記録へ移る。
「二度目は、術式そのものは安定した。
けれど、周囲にいた術者が全員意識を失った」
「死んだの?」
リズナが尋ねる。
「いいえ。
数日後には目を覚ましたわ」
リュミエラはそこで言葉を区切った。
「ただし、実験前後の記憶を失っていた。
一人だけではなく、全員が同じ期間の記憶をね」
「何も覚えていなかったのか?」
「本人たちは、何かを見たとだけ証言しているわ。
でも、それが何だったのかを説明できた者はいなかった」
「説明できない?」
「言葉が出なかった者もいれば、無理に思い出そうとして錯乱した者もいたそうよ」
リズナは唇を閉じた。
記憶を失うほどの何かを、門の向こうに見た。
そう考えただけで、石板へ向けていた足を少し引きたくなる。
「三度目は?」
リュミエラの指が止まった。
僅かな沈黙の後、記録紙の最後へ触れる。
「門は開いたと記されているわ」
リズナは思わず息を詰めた。
「向こう側へ行けたんですか?」
「いいえ。」
リュミエラの紫の瞳が、石板に刻まれた門へ向けられる。
「実験の目的は、観測装置を外側へ送り込むことだった。
術者が向こう側へ渡る予定ではなかったわ」
「なら、何が起きた?」
ゼラスの声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
「正確なことは分からない。
実験場に残された記録は、途中で途切れているもの」
リュミエラは古代文字の一節をなぞった。
「けれど、最後に書き残された一文だけは読める」
魔導灯の淡い光が、古びた紙の表面を照らす。
リュミエラは、その一節を静かに読み上げた。
「門は開いた。
だが、我らは外へ出たのではない」
そこで一度、言葉を止める。
その短い間に、書庫の暗闇が僅かに深くなったように見えた。
「外が、内へ入った」




