第八十五話 選ぶまで
出発の朝。
広間へ入ってきたリズナを見て、ゼラスの視線が一瞬だけ止まった。
赤い髪は、今日も後ろで高く結ばれている。
リズナはすぐに気づいた。
「あら。今日は何も言わないの?」
「昨日言っただろ」
「毎日言ってもいいのよ?」
「言わない」
即答したゼラスは、手元の地図へ視線を落とした。
その動きがわずかに早かったため、リズナは満足そうに笑った。
「残念ね」
「朝から遊ぶな。確認を始めるぞ」
卓上には、西方天測所の地図と皇立空間魔術研究院の報告書が広げられている。
ゼラスは施設の外周を指した。
「魔導艇は北側の平地へ降ろす。正面からは入らない」
「入口に何かあるの?」
リズナが尋ねる。
「昔は人を識別する術式があった。今も同じとは限らないが、帰還者とやらを待ってるなら、正面に何か仕掛けている可能性が高い」
「では、裏側から地下設備へ?」
リュミエラが地図を覗き込む。
「ああ。崖下に保守用の通路がある。残っていれば、観測塔を通らず地下へ入れる」
「百年前の記憶を頼りに進むのね」
「大きな構造までは変わってないはずだ。変わっていたら、その場で考える」
リズナが苦笑する。
「最後だけ急に雑じゃない?」
「見てもいないものを断言する方が雑だろ」
そこへ、ミテイが小さな鞄を持って現れた。
中には着替えと青灰色の布切れ、それから自分の帳面が入っている。
『準備できた』
ゼラスが鞄を見る。
「帳面以外は収納へ入れてもいいぞ」
ミテイは首を横に振った。
『これは、私が持つ』
「重くなったら言え」
『自分で持てなくなったら、頼む』
「それでいい」
ミテイはリズナの隣へ立った。
『リズナは、アスタリアへ帰るかもしれない』
広間が静かになる。
リズナは少しだけ困ったように笑った。
「まだ決めてないわ」
『分かっている』
ミテイは短く答えた。
『決めるまで、私も隣にいる』
リズナは彼女を見つめた後、その肩へそっと手を置いた。
「ありがとう」
『帰っても、消えない』
「ええ」
『残っても、消えない』
リズナの笑みが少し深くなる。
「そうね。どちらを選んでも、ここで過ごしたことはなくならないわ」
ゼラスが地図を畳んだ。
「話が済んだなら行くぞ。扉が開くまで、もう二日もない」
「少しくらい余韻を待ちなさいよ」
「魔導艇は待たない」
「ほんと、そういうところよね」
そう言いながらも、リズナはすぐに彼の後を追った。
皇立空間魔術研究院が用意した魔導艇は、昼前に皇都を発った。
通常の便よりも小さいが、速度を優先した軍用艇だ。
西方天測所までは、途中で一度魔力を補給しても一日とかからない。
甲板から皇都が遠ざかっていく。
リズナは手すりのそばに立ち、西から流れてくる風を受けていた。
ゼラスが隣へ来る。
「今のうちに休んでおけ」
「眠れそうにないわ」
「眠れなくても横にはなれ。現地に着いてから倒れられる方が困る」
「心配してる?」
「体調管理の話だ」
「ふうん」
リズナは結んだ髪を指先で揺らす。
「これも体調管理のためよ。海風で髪が邪魔にならないように」
「そうか」
「似合ってる?」
ゼラスは一度、彼女の髪を見る。
今度は視線を逸らさなかった。
「ああ。似合ってる」
あまりにも素直な返事に、リズナの方が目を瞬いた。
「……今日は言わないんじゃなかったの?」
「聞かれたから答えた」
「急に慣れないでよ。おちょくりにくいでしょう」
「知らん」
ゼラスは先に船室へ戻っていく。
リズナはその背中を見送り、少し遅れて頬へ手を当てた。
「言わせたのはあたしなのに……」
風に紛れた呟きを聞く者はいなかった。
夕刻。
魔導艇は西方天測所の北側へ到達した。
崖の上には三基の観測塔が立っている。
八十六年前に崩壊したはずの二基も、傷一つない姿で夕日を受けていた。
中央の建物では、巨大な環状術式がゆっくりと回転している。
「本当に戻ってる……」
リズナが息を呑む。
ゼラスは塔ではなく、その周辺を見ていた。
「降下地点を変えろ」
操縦席へ向けた声に、魔導艇が旋回を始める。
リュミエラが尋ねた。
「何か見つけたの?」
「北側の平地が沈んでる。百年前にはなかった亀裂もある」
魔導艇は施設から距離を取り、岩場へ着陸した。
四人が地上へ降りる。
ミテイはすぐに片膝をつき、地面へ手を触れた。
灰色の魔力が岩盤の内部へ広がっていく。
しばらくして、彼女の表情が変わった。
『地下に空間がある』
「観測室だろ」
ゼラスが答える。
ミテイは首を横に振った。
『もっと下』
枝のような魔力が、さらに深く沈んでいく。
『地図にある地下室より、大きい』
ゼラスが地面を見下ろす。
「形は分かるか?」
『塔が三つある』
リズナが崖の上を振り返った。
そこにも、三基の観測塔が立っている。
『同じ形の施設が、下にもある』
ミテイは岩盤から手を離した。
『下の塔も、動いている』
直後。
足元の遥か下から、巨大な鐘を鳴らしたような振動が響いた。
崖の上にある三基の観測塔が、同時に海の方角を向く。
ゼラスは魔剣の柄へ手をかけた。
「帰還経路は、上の施設だけで開くんじゃないらしいな」




