第八十四話 帰還者
『――ようやく、戻ってきた』
訓練塔に響いた声は、女のものだった。
床に映し出された西方天測所。その最上部に立つ人影は、輪郭が曖昧で、顔までは見えない。
リズナは光の円から動かず、問い返した。
「誰なの?」
人影は答えない。
代わりに、その周囲へ細かな文字列が浮かび上がった。
見慣れない文字だったが、リズナの表情が変わる。
「これ……アスタリアの古い文字よ」
「読めるのか?」
ゼラスが光の接続を維持したまま尋ねる。
「少しだけ。今はほとんど使われてないけど、遺跡で見たことがあるわ」
リズナは目を凝らした。
「帰還……照合……風の、何か――」
『人ではない』
壁へ触れていたミテイが言った。
灰色の枝が、青白い光の流れへ慎重に重なる。
『これは記録。決められた言葉を、条件に合わせて返している』
「お前の以前の状態と似てるのか?」
『似ている。でも、これは自分を作ろうとしていない』
ミテイの言葉を聞き、リズナは人影を見直した。
自分を知る誰かが待っていたわけではない。
それでも、アスタリアの文字がここに存在する。
その事実だけで、胸の鼓動が速くなった。
ゼラスが指先を動かす。
絡め取った観測術式へ、自分の魔力を細く流し込んだ。
「記録なら、条件を変えれば別の答えを返す」
「壊さないでよ」
リズナが言う。
「壊す気はない。向こうが先に城を覗いたんだ。少しくらい答えてもらう」
ゼラスの魔力が光の円へ混ざる。
人影の輪郭が一度大きく揺れた。
『旧登録反応を確認』
「旧登録?」
リュミエラがゼラスを見る。
次の瞬間、人影が明瞭な声で告げた。
『ゼラス=ヴェルゼイア。西方天測所への接触記録、一件』
リズナが目を丸くする。
「あんた、登録されてたの?」
「頼んだ覚えはない」
「百年前に勝手に記録されたのね」
「趣味の悪い施設だな」
ゼラスは眉を寄せたが、接続を切らなかった。
「俺を認識できるなら答えろ。誰が施設を再起動した」
『該当記録なし』
「八十六年前の異常は?」
『帰還座標との接続に失敗』
部屋の空気が変わった。
リズナが一歩踏み出しかける。
足元の光が強まり、ゼラスがすぐに片手を上げた。
「そこから動くな」
「でも今、帰還座標って――」
「聞こえた。だからこそ焦るな」
ゼラスは人影へ視線を戻す。
「帰還座標はどこだ」
数秒の沈黙。
人影の背後に、円形の術式が展開された。
『照合中』
青白い線が幾重にも重なり、一つの文字を形作る。
リズナには、読み上げられる前から分かった。
『帰還座標――アスタリア大陸』
息を呑む音がした。
リズナ自身のものだった。
ずっと探していた故郷の名が、この大陸の古い施設から告げられた。
推測ではない。
似た反応でもない。
はっきりと、アスタリアと言った。
「本当に……つながってるの?」
人影はリズナの問いには答えず、記録された言葉を続ける。
『帰還者の風脈反応を確認』
「帰還者って、あたしのこと?」
『照合率、九十一』
「残りの九は何だ」
ゼラスがすぐに問う。
『個体記録なし。風脈反応のみ一致』
リュミエラが静かに言う。
「リズナちゃん本人を知っているのではなく、魔力の性質を識別しているのね」
「誰かと間違えている可能性もあるわけか」
リズナの声に、僅かな硬さが混じる。
帰る道を見つけた喜びと、自分ではない何かとして呼ばれる不快感。
その両方が表情に現れていた。
人影が再び告げる。
『帰還者は、西方天測所へ移動せよ』
「勝手に決めないで」
リズナは人影を真っすぐ見た。
「あたしは、あんたが待っていた誰かじゃない」
記録に感情がないと分かっていても、言わずにはいられなかった。
「あたしはリズナよ。帰るかどうかも、そこへ行くかどうかも、あたしが決める」
人影から返事はない。
だが隣で、ミテイが小さく頷いた。
『名前は、自分で決める』
リズナは彼女を見る。
「そうね」
ゼラスも止めなかった。
ただ、どこか満足そうに目を細めている。
「それでいい。記録にお前の判断を任せるな」
「分かってるわ」
「なら、必要な情報だけ取る」
ゼラスは術式へさらに魔力を送り込んだ。
「帰還経路は、今も使えるのか」
人影の姿が激しく乱れる。
『観測塔、一基不足』
「突然戻った塔のほかに、もう一基必要ということか」
『第二復元処理、進行中』
「完了までの時間は?」
塔の映像に数字が浮かぶ。
リズナには読めなかったが、リュミエラが術式の変化を追う。
「二日と……十八時間ほどね」
『復元完了後、帰還経路を一度だけ開放』
リズナの瞳が揺れた。
二日後。
故郷へ続くかもしれない道が開く。
だが、ゼラスの表情は険しいままだった。
「一度だけだと?」
『開放後、西方天測所は機能を停止』
「通れる人数は」
『不明』
「経路の安全性は」
『不明』
「向こう側の状態は」
『不明』
ゼラスが舌打ちする。
「肝心なことは何も分からないじゃない」
リズナも眉を寄せた。
『伝達終了』
人影が薄れていく。
「待って!」
リズナの声にも、記録は反応しなかった。
最後に、女の声だけが訓練塔へ残る。
『帰還者よ。扉が閉じる前に、帰還せよ』
光の円が砕ける。
西方天測所の映像も、人影も消えた。
ゼラスは即座に周囲の術式を閉じ、外部との接続を断つ。
静けさが戻った訓練塔で、リズナはしばらく動かなかった。
故郷へ帰れるかもしれない。
しかも、選ぶために残された時間は三日もない。
「リズナちゃん」
リュミエラが声をかける。
リズナは顔を上げた。
「大丈夫です」
声は少し硬かったが、目は逸らしていない。
「まだ、帰ると決めたわけじゃありません」
「ああ」
ゼラスが隣へ立つ。
「まず施設へ行く。安全かどうか確かめる。それから決めろ」
「時間が足りなかったら?」
「足りるように動く」
迷いのない返事だった。
「明日の朝、出るぞ」
リズナは小さく息を吸い、頷いた。
「ええ」
西方天測所へ。
故郷へ続くかもしれない、ただ一度の扉を確かめるために。




