第八十話 風の向こう側
第百階層への到達が公表された翌朝。
シェルミアは大量の記録板を抱え、誰よりも早く魔皇城を出ていた。
冒険者組合本部で開かれる報告会の準備を、自分で確認したいらしい。
少し遅れて、ゼラスとリズナも出発の支度を整える。
リュミエラは機密報告の整理とミテイの監督があるため、城に残ることになっていた。
『三人で話す?』
ミテイは自分の帳面を抱え、二人を見る。
「ああ。公表できる範囲だけだがな」
ゼラスが外套を羽織る。
「外側の門や、お前に関することは話さない」
『分かっている』
以前のように、理由を何度も確かめることはなかった。
ミテイは帳面の表紙へ手を置く。
『私は、ここで自分の記録を書く』
「戻ったら、報告会のことも話すわね」
リズナが答えた。
「行くぞ。遅れるとシェルミアが勝手に始める」
ゼラスが扉へ向かう。
「もう始めてるかもしれないわね」
「否定できないのが面倒だ」
リズナは苦笑し、ミテイへ手を振ってからゼラスを追った。
冒険者組合本部の前には、大勢の人が集まっていた。
冒険者だけではない。
商人や研究者、各地から訪れた見物人まで、入口近くに設置された掲示板を囲んでいる。
そこには、第百階層への到達者として四人の名が刻まれていた。
リュミエラ。
ゼラス。
リズナ。
シェルミア。
馬車から少年姿のゼラスが降りると、周囲のざわめきが一段大きくなった。
「あの少年がゼラス?」
「本当に第百階層の守護者を倒したのか?」
「同名の別人じゃないのか?」
聞こえてくる声を、ゼラスは気にも留めない。
リズナが隣へ並んだ。
「やっぱり、その姿だと驚かれるわね」
「好きに驚かせておけ」
「報告会では、もう少しちゃんと喋ってよ」
「必要なことは話す」
「必要かどうかを、あんただけで決めないでね」
ゼラスは返事をせず、組合本部へ入った。
「今の沈黙、少し不安なんだけど……」
リズナもその後を追った。
大講堂へ入ると、壇上にはすでにシェルミアがいた。
何枚もの記録板を床や卓上へ並べ、迷宮管理局の職員へ説明している。
「この図は中央へ。階層構造の記録は順番を変えないでほしいね。それから――」
「まだ始めてなかったか」
ゼラスが声をかける。
シェルミアが振り返った。
「開始の鐘までは待っているよ」
「待ってるだけで、準備は全部乗っ取ってるじゃない」
リズナが呆れる。
「私が説明した方が正確だからね」
「職員の方々が困っていますよ」
迷宮管理局の職員たちは、否定も肯定もせず微妙な表情を浮かべていた。
開始を告げる鐘が鳴り、三人は所定の席へ着いた。
最初に、迷宮管理局の責任者が第百階層への到達を正式に発表した。
未知の経路。
新たに確認された守護機構。
一般の冒険者に対する立ち入り制限。
外側の門や深層の命令を伏せながら、公開できる情報だけが慎重に説明されていく。
続いて、シェルミアが壇上へ立った。
迷宮の話になると、普段の軽さが薄れ、言葉が正確になる。
「今回使用した経路は、現在すでに閉鎖されています。再現できる保証もございません」
一人の研究者が手を上げた。
「第百階層より深い領域が存在する可能性は?」
「あります」
シェルミアは明確に答えた。
「ただし、現時点では経路を確認できておりません。推測だけを根拠に探索を行うべきではないと考えております」
隣に座るリズナが、小声で呟く。
「ずいぶん慎重ですね」
「魔皇陛下とアーヴェルに、何度も念を押されたからね」
「ずっと覚えていてくださいね」
「努力するよ」
「約束ではないんですね……」
次に、ゼラスの名が呼ばれた。
少年姿の彼が壇上へ立つと、再び会場がざわめく。
「第百階層の守護機構を単独で撃破したと記録されていますが、間違いありませんか?」
組合員が尋ねた。
「最後に戦場へ残ったのが俺一人だっただけだ」
ゼラスは壇上から会場を見渡す。
「そこへ至るまでに、リズナが敵の動きを崩し、シェルミアが構造を解析した。リュミエラにも経路と退路を維持してもらった」
「では、単独での戦果とは言えないと?」
「最後の一撃だけを見れば、俺が倒した」
ゼラスは淡々と続ける。
「だが、俺一人で第百階層まで行ったわけじゃない。過程を無視して結果だけ語るなら、記録としては不完全だ」
シェルミアが僅かに目を細めた。
記録への指摘ではあったが、否定する様子はない。
別の冒険者が手を上げる。
「そのお姿について伺ってもよろしいでしょうか」
「報告に関係あるのか?」
「いえ……ただ、その年齢でどのように――」
「見た目と年齢が一致しない種族など、珍しくもないだろ」
「それは、確かに」
「なら次だ」
会場の一部から小さな笑いが漏れた。
「使用された魔剣について、詳細を公開する予定は?」
「ない」
ゼラスは即答する。
「個人の武器と術式を、不特定多数へ教えるつもりはない。ただし、守護機構と同種の敵へ挑むなら、並の武器では耐えられない可能性が高い。それは記録へ加えておけ」
拒むだけでなく、必要な情報は残す。
迷宮管理局の責任者は、すぐに記録板へ書き加えた。
続いて、リズナが壇上へ立った。
一般に公表されているのは、彼女が風と剣を扱う魔族であることまでだ。
アスタリア大陸から転移してきた事実は、魔皇と一部の関係者しか知らない。
「第百階層では、どのような役割を果たされたのですか?」
「あたしは風で敵の動きを抑え、仲間の魔法や移動を支えました。罠や隠された経路の確認もしています」
「ゼラス氏に守られていた、という話もありますが」
リズナの眉が僅かに動いた。
答えるより先に、席に戻っていたゼラスが口を開く。
「守られているだけの奴を、第百階層まで同行させるほど俺は暇じゃない」
会場が静まる。
「リズナの風がなければ突破できなかった場所もある。俺がこいつを守ったこともあれば、こいつに助けられたこともある」
リズナはゼラスを横目で見た後、質問者へ向き直った。
「ゼラスの言うとおりです」
声は穏やかだった。
「あたしたちは、誰か一人が残りを連れていったわけではありません。それぞれが必要な役割を果たしたから、全員で戻ることができました」
「失礼しました」
質問者が頭を下げる。
リズナが席へ戻ると、ゼラスへ小声で言った。
「今日は本当に喋るのね」
「喋れと言ったのはお前だろ」
「そうだけど」
リズナは少しだけ笑う。
「ありがと」
「事実を訂正しただけだ」
「それでもよ」
ゼラスはそれ以上答えなかったが、否定もしなかった。
報告会が終わると、三人は組合本部の裏手にある応接室へ案内された。
室内では、白髪の男性魔族が待っていた。
深緑色の長衣の胸元には、皇立空間魔術研究院の紋章がある。
「突然お時間をいただき、申し訳ございません。空間転移現象を研究しております、フェルドと申します」
フェルドは三人へ頭を下げた。
扉の外には魔皇直属の護衛が立ち、室内にも防音と探知阻害の術式が施されている。
フェルドはリズナへ向き直った。
「魔皇陛下の命により、リズナ殿がアスタリア大陸から転移された際の残留魔力を調査しておりました」
リズナの表情が引き締まる。
「何か分かったんですか?」
「断定には至っておりません。しかし、過去の記録に類似した反応がありました」
フェルドが卓上へ古い地図を広げる。
ガリオール大陸西部。
海岸沿いに建つ、閉鎖された観測施設へ印がつけられていた。
地図を見たゼラスが眉を上げる。
「西方天測所か」
フェルドが顔を上げた。
「ご存じなのですか?」
「ああ。百年ほど前に一度行った」
リズナが驚いて彼を見る。
「また行ったことがある場所なの?」
「長く生きてれば、行った場所くらい増える」
ゼラスは地図上の施設へ指を置いた。
「当時はまだ稼働していた。表向きは天候と星の観測施設だったが、地下に空間の歪みを測る設備があった」
フェルドの目が見開かれる。
「地下観測室をご覧になったのですか?」
「見ただけじゃない。術式も一通り調べた」
「現在残っている資料には、地下設備の詳細がほとんど記されておりません」
「あれ単体で異大陸転移を起こせるような設備じゃなかった。観測と記録が主な役割だ」
「記録が失われた理由に、心当たりは?」
「ない。閉鎖時に処分されたか、最初から一部を伏せていたかだな」
ゼラスは地図から目を離さず尋ねる。
「類似した反応が出たのは、いつだ」
「八十六年前です」
フェルドは別の記録板を並べた。
リズナが転移してきた地点に残されていた魔力波形と、よく似た線が刻まれている。
「完全な一致ではありません。しかし、通常の転移魔法では生じない特徴が三点共通しています」
「八十六年前に、何かが転移したのか?」
ゼラスが尋ねる。
「不明です。何かが現れたのか、逆にどこかへ消えたのかも分かっておりません」
「当時の調査記録は?」
「大規模な嵐による魔力乱流と判断され、詳しい調査は行われませんでした」
「地下設備の存在を知っていて、その判断をしたのか?」
「それも確認できておりません」
ゼラスの表情が僅かに険しくなる。
「随分と都合よく記録が抜けてるな」
シェルミアが波形を覗き込む。
「意図的に調査を止めた者がいた可能性もあるね」
「現時点では、否定できません」
フェルドが答えた。
リズナは二つの波形を見比べる。
「この反応が、アスタリアへつながっている可能性があるんですね」
「はい。可能性にすぎませんが、無視できるほど低くはありません」
フェルドは次の記録を開く。
「そして三日前、封鎖されているはずの観測術式が一度だけ起動しました」
ゼラスの指が地図上で止まる。
「あり得ないな」
「何がでしょうか」
「あの設備は、地下の魔力炉だけでは動かない。外側にある三基の観測塔を、同時に接続する必要がある」
フェルドが記録を確認する。
「観測塔のうち二基は、すでに崩壊しています」
「なら、誰かが別の魔力源を接続した」
ゼラスはリズナを見る。
「自然に再起動したわけじゃない」
「誰かが動かしたってこと?」
「その可能性が高い」
シェルミアが身を乗り出す。
「失われた観測塔の代わりになるほどの魔力源なら、かなり大規模なものが必要だよ」
「ああ。外から持ち込んだか、俺が行った後に地下設備を改造したかだ」
ゼラスはフェルドへ向き直る。
「起動時に流れ込んだ魔力の方向は?」
「海側から強い干渉があったことまでは確認されています」
「施設内に生体反応は」
「遠隔観測では確認できません。ただし、地下区画は現在の術式では探れませんでした」
「先行隊は?」
「まだ派遣しておりません。構造の崩壊と、再起動した術式の危険性を確認できていないためです」
「それでいい」
ゼラスは即座に答えた。
「空間術式が壊れていれば、地下へ足を踏み入れただけで身体の一部を別の場所へ飛ばされることもある」
リズナの表情が引きつる。
「そういうことは、もう少し柔らかく言えないの?」
「危険性を正確に伝えただけだ」
「正確すぎるのよ……」
フェルドは真剣な顔で頷いた。
「魔皇陛下も、まず外部から調査するよう命じられています。設備の安全を確認した後、現地へ入る予定です」
「最初からリズナを連れていくつもりか?」
ゼラスの声が僅かに低くなる。
「いいえ。同じ魔力反応が現地に残っていると確認された場合に限り、ご協力をお願いする可能性があります」
「なら、先に調査結果を見せろ」
「承知しております」
「観測塔と地下魔力炉の配置も調べ直せ。百年前と同じとは限らない。海側の崖下にも、魔力線を通すための補助設備があったはずだ」
フェルドは素早く記録板へ書き込む。
「その設備についても、現存する資料にはありません」
「現地で確認しろ。崩れていても痕跡は残る」
「貴重な情報をありがとうございます」
「礼は調査が終わってからでいい」
リズナは地図とゼラスを交互に見る。
「ゼラスも、現地へ行くつもりなの?」
「お前が行くならな」
答えは早かった。
「昔の構造を知ってる奴がいた方がいい。空間術式にも多少は対処できる」
「多少?」
シェルミアが怪訝そうに見る。
「収納空間の時間まで止める人が言う『多少』は、あまり信用できないね」
フェルドが驚いてゼラスを見る。
「収納空間の時間を?」
「今は関係ない」
ゼラスは即座に話を切った。
シェルミアが残念そうに記録板を下ろす。
リズナは再び地図へ目を向けた。
故郷へ帰る手掛かりかもしれない。
ずっと探していたものが、初めて具体的な場所として示されている。
「調査結果が出たら、あたしにも教えてください」
リズナがフェルドへ告げる。
「現地にあたしの魔力が必要なら、行きます」
「承知しました」
答えた後、リズナはゼラスを見る。
彼は帰れとも、残れとも言わない。
ただ、彼女が進むなら自分も同行すると決めている。
帰りたい。
その思いは、今も変わっていない。
けれど、故郷へ続くかもしれない道を前にして、胸へ浮かんだのは喜びだけではなかった。
リズナは地図の西端へ指を置く。
その向こうには海がある。
さらに風の向こうに、アスタリア大陸があるのかもしれない。
そして今は、その道を一人で探す必要もなかった。




