第七十六話 選んだ色
昼を少し過ぎた頃、四人は魔皇城を出た。
向かったのは、城に近い商業区にある仕立屋だった。
貴族や高位の魔族も利用する店で、今日はリュミエラの依頼によって二階が貸し切られている。
ミテイの存在を、まだ人目に晒しすぎるわけにはいかない。
移動には窓付きの馬車が用意された。
ミテイはリズナの隣へ座り、流れていく皇都の景色を静かに眺めていた。
石造りの建物。
道を行き交う人々。
店先に並ぶ果物や布。
荷車を引く獣。
昨夜、部屋の窓から見た灯りの一つ一つに、今は人の姿があった。
以前のミテイなら、目に映るものを一つずつ記録しようとしたかもしれない。
だが今は、視線を向けるだけだった。
残したいと思った景色だけを、自分の中へ置いていく。
「気になるものがある?」
リズナが尋ねる。
ミテイは少し考え、露店の前で果物を選んでいる親子を指した。
『選ぶのに、時間を使っている』
「食べたいものを考えているのよ」
『急がなくてもいい?』
「買い物ならね」
馬車の向かい側で、ゼラスが腕を組んでいる。
「迷いすぎれば店が閉まるがな」
「最初から急かさないでよ」
「事実だろ」
リズナは呆れたように彼を見る。
その横で、リュミエラが小さく笑った。
「今日は店を閉めてもらっているから、ゆっくり選んでいいわよ」
『全部見る』
「それは構わないけれど、全部着る必要はないわ」
ミテイは窓の外へ視線を戻した。
質問を重ねることはなかった。
ただ、街の姿を見逃さないように眺めていた。
仕立屋の主人は、ふくよかな体つきの女性魔族だった。
リュミエラの姿を見ると、深く頭を下げる。
「お待ちしておりました、リュミエラ様」
「急なお願いでごめんなさいね」
「とんでもございません」
主人はミテイへ視線を移した。
一瞬だけ、その淡い青灰色の髪と灰色の瞳を観察する。
だが、事情を尋ねることはなかった。
「こちらのお嬢様のお召し物ですね」
『ミテイ』
主人が目を瞬く。
ミテイは自分の胸へ手を置いた。
『私の名前』
「失礼いたしました。ミテイ様ですね」
『様はいらない』
「では、ミテイさんとお呼びしても?」
ミテイは頷いた。
主人も柔らかく笑う。
「承知いたしました。どのようなお洋服がお好みですか?」
ミテイは店内を見回した。
壁には色とりどりの布が並び、衣装棚には形の異なる服が掛けられている。
華やかなドレス。
動きやすそうな長衣。
短い外套。
細かな刺繍を施した上着。
数が多すぎて、すぐには答えられない。
主人はリズナとリュミエラを見た。
「お二人に近いものをご用意いたしましょうか?」
ミテイはもう一度、二人の服を見る。
リズナは剣を扱いやすい服装。
リュミエラは落ち着いた色合いの、品のある長衣を身につけている。
どちらも似合っていた。
けれど、同じものを着たいとは思わなかった。
『二人と同じでなくていい』
主人が僅かに目を細める。
「では、一緒に探しましょう」
その答えに、リュミエラも満足そうに頷いた。
最初に用意されたのは、淡い白色のドレスだった。
柔らかな布を幾重にも重ね、袖や裾には細かな飾りがついている。
試着室から出てきたミテイを見て、リズナが目を輝かせた。
「綺麗ね。よく似合ってるわ」
主人も頷く。
「髪の色とも、とてもよく合っています」
ミテイは鏡の前で身体を動かした。
裾が遅れて揺れる。
腕を上げると、袖の布が重なった。
『走りにくい』
ゼラスが即座に言う。
「戦う服じゃないからな」
「ゼラス、似合うかどうかを聞かれているのよ」
リズナが注意する。
「似合ってはいる」
あっさりとした答えだった。
ミテイは鏡越しにゼラスを見る。
『でも、ゼラスは選ばない』
「俺なら選ばない」
「もう少し言い方を考えて」
「聞かれたから答えただけだろ」
ミテイは裾を少し持ち上げた。
華やかで、綺麗だとは思う。
だが、自分の服にしたいとは感じなかった。
『これは違う』
「承知しました」
主人は嫌な顔一つせず、次の服を用意した。
二着目は、濃い灰色の上下だった。
身体へ密着する作りで、戦闘にも使えるよう丈夫な布が使われている。
『動きやすい』
ミテイは腕を曲げ、軽く足を踏み出した。
「少し地味ではありませんか?」
主人が尋ねる。
「装飾を加えることもできます」
ゼラスが見る。
「迷宮へ行くなら悪くない」
「今日は普段着を選びに来たのよ」
リズナはため息をついた。
「ゼラスに聞くと、全部戦う時の基準になるわね」
「動きにくい服を勧めるよりいいだろ」
ミテイは鏡を見る。
一着目より落ち着く。
けれど、鏡の中の自分は、どこか迷宮にいた頃へ戻ったようにも見えた。
『これも違う』
迷いなく告げ、試着室へ戻った。
その後も、いくつかの服を試した。
明るい黄色の長衣。
深い青色の上着。
細かな装飾が多すぎる服。
柔らかい布で作られた簡素なワンピース。
ミテイは似合うと言われても、それだけでは決めなかった。
腕を動かし、座り、歩く。
鏡に映る自分を見て、何を感じるかを確かめる。
リズナたちも、途中からは先に意見を言わなくなった。
ミテイが鏡を見終えてから、尋ねられた時だけ答える。
やがて主人が、一着の服を持ってきた。
「こちらはいかがでしょう」
淡い青灰色の長衣だった。
丈は膝より少し上。
腰回りには余裕があり、動きを妨げない。
袖口と裾には、白ではなく薄い銀色の糸で、小さな枝のような模様が刺繍されている。
下には濃い灰色の細身の衣服と、足首まで覆う柔らかな靴を合わせる。
華やかすぎず、戦闘用にも見えない。
ミテイは試着を終え、鏡の前へ立った。
髪と服の色は近い。
だが、すべてが同じ色ではない。
銀色の刺繍が、光を受けて僅かに浮かんでいる。
窓の外に見えた、朝の空に似ていた。
『これがいい』
今までよりも早い答えだった。
リズナが笑う。
「気に入ったのね」
ミテイは袖口の模様を指でなぞった。
『枝がある』
「あなたの魔法みたいね」
灰色の魔力が石の中を枝分かれして進む。
主人はその事情を知らない。
ただの装飾として選んだものだった。
それでも、ミテイには自分のために作られたように感じられた。
「外套も合わせましょうか」
主人が何枚か並べる。
ミテイはその中から、濃い灰色の短い外套を選んだ。
最後に留め具を選ぶ。
宝石を使ったもの。
金色のもの。
花を象ったもの。
ミテイの手が、一つの留め具で止まった。
透明な石を使った、小さな円形の留め具だった。
色はほとんどない。
だが光を受けると、その周囲の色を僅かに映す。
『これ』
「色がなくてもいいの?」
リズナが尋ねる。
ミテイは透明な石を見つめた。
『色がないのではなく、光で変わる』
リズナは少し驚いた後、頷いた。
「そうね」
主人が外套へ留め具を取りつける。
これで一式が完成した。
ミテイは鏡の前で、もう一度自分を見る。
誰かの姿を再現したものではない。
誰かに与えられた正しい形でもない。
自分で選んだ服を着た、自分の姿だった。
『私が選んだ』
その声には、確認ではなく実感があった。
「ほかにも何着か必要よ」
リュミエラが言う。
「毎日、同じものを着るわけにはいかないでしょう?」
ミテイは店内を見回し、先ほど試した服の中から二着を選んだ。
一着は動きやすい淡い灰色の上着。
もう一着は、少しだけ明るい青色の服。
最初の一着ほど時間はかからなかった。
一度、自分の基準ができれば、次は比べられる。
「収納は必要ですか?」
主人が尋ねる。
ミテイはリズナの腰へ目を向けた。
小さな革の鞄が下げられている。
「これ?」
リズナが鞄へ触れる。
「硬貨や薬、小物を入れているのよ」
ミテイは自分の服の脇を確かめた。
『ここに入れる場所がほしい』
「ポケットですね」
主人が頷く。
「では、外から目立たないようにおつけします」
『選んだものを、持っておく』
「何を入れたいの?」
ミテイは少し考えた。
今はまだ、入れるものを持っていない。
『これから決める』
それだけ答えた。
会計はリュミエラが行った。
ミテイは卓上へ置かれた硬貨を見ていた。
『服と交換するもの』
「ええ。お金よ」
リュミエラが答える。
「今日の分は、城で負担するわ」
『借りたことになる?』
「生活に必要なものとして用意するの。返す必要はないわ」
ミテイは少しだけ考えた。
『何もしなくても、もらう?』
「今はね」
ゼラスが壁際から口を挟む。
「生まれたばかりの奴に、いきなり金を稼げとは言わない」
『ずっとではない』
「お前が何かしたいと思うようになれば、その時に考えればいい」
リュミエラも頷いた。
「働くことも、誰かを手伝うことも、城に協力することもできるわ。でも、それを今すぐ決める必要はないの」
ミテイは自分で選んだ服を見る。
何も返さなくてよいと言われても、当然だとは思わなかった。
けれど、すぐに答えを出そうともしなかった。
『覚えておく』
ゼラスが僅かに目を細める。
「借りとしてじゃないぞ」
『分かっている』
以前なら、さらに理由を尋ねていたかもしれない。
今は一度、受け取ることを選んだ。
店を出る頃には、通りを歩く人の数が増えていた。
一行は馬車が待つ場所まで、短い距離を歩く。
ミテイは新しい外套を身につけていた。
透明な留め具が、昼の光を映している。
道の端で、小さな子供が木製の玩具を落とした。
丸い玩具は石畳を転がり、排水溝へ向かう。
子供が慌てて手を伸ばす。
その前に、石畳の隙間から灰色の魔力が細く伸びた。
玩具の進路を遮り、そっと止める。
ミテイは拾い上げ、子供へ差し出した。
『落とした』
子供はミテイの髪と耳を見上げる。
少しだけ驚いた顔をした後、玩具を受け取った。
「ありがとう、お姉ちゃん」
母親も気づき、慌てて頭を下げる。
「すみません。ありがとうございました」
ミテイは二人が立ち去るまで、その場に立っていた。
胸元へ手を置くことはなかった。
感情の名前を誰かに尋ねることもしない。
ただ、僅かに口元を緩めた。
「命令されてないのに助けたな」
ゼラスが言う。
『落ちると思ったから』
「そうか」
それだけ答え、ゼラスは先へ進む。
ミテイも彼の隣へ並んだ。
リズナが後ろから二人を見る。
「ゼラス」
「何だ」
「今の、もう少し褒めてもよかったんじゃない?」
「必要か?」
『必要ない』
ミテイが先に答えた。
『ゼラスは、見ていた』
ゼラスは一瞬だけミテイを見る。
「ならいい」
リズナは少し呆れながらも、笑っていた。
魔皇城へ戻ると、ミテイは買った服を自分の部屋へ運んだ。
新しくつけてもらったポケットには、まだ何も入っていない。
衣装棚へ服を掛ける。
淡い青灰色。
濃い灰色。
少し明るい青。
自分で選んだものが、空だった棚を埋めていく。
最後に、今日着ていた服の透明な留め具を鏡へ映した。
周囲の色を受けて、淡く光っている。
ミテイは机の引き出しを開いた。
店から持ち帰った、小さな布の切れ端を中へ置く。
服の丈を調整した時に余った、青灰色の布だった。
価値のあるものではない。
だが、自分が最初に選んだ色だった。
引き出しを閉じる。
空だった場所に、自分で残したものが一つ増えた。
その時、扉が叩かれた。
「ミテイ、入ってもいい?」
リズナの声だった。
『いい』
扉が開く。
リズナの後ろには、記録板を抱えたシェルミアが立っていた。
昨夜より顔色はよくなっている。
「ただいま、ミテイ」
『おかえり、シェルミア』
シェルミアは新しい服を見て、満足そうに頷いた。
「いい色を選んだね」
『私の色』
「うん。今度は最初から、ミテイが選んだ色だね」
ミテイは鏡の中の自分を見る。
迷宮から出た時に生まれた髪の色。
朝の空を見て選んだ服の色。
同じように見えても、意味は違う。
誰かに与えられたものを受け取るだけではない。
これからは、自分で増やしていくことができる。
シェルミアが記録板を持ち上げた。
「ところで、検査の結果を見せてもらえるかな?」
リズナがすぐに彼女を見る。
「戻って早々、もう記録ですか?」
「午後からは仕事をしていいと、アーヴェルに許可をもらったからね」
「本当に休んできたんですか?」
「朝まで記録板には触らなかったよ」
「朝まで、という言い方が気になります……」
ミテイは二人のやり取りを見て、僅かに笑った。
自分の部屋に、初めて客を迎える。
それもまた、自分で選んだことだった。




