第七十三話 愛しの旦那様
「ご主人様です。帰還の知らせを受け、すぐに魔皇城へ向かわれたとのことです」
侍従の報告を聞き、シェルミアの手が止まった。
「……ずいぶん早かったね」
「それだけ心配されていたのでしょう」
リュミエラが静かに言う。
魔皇は予想していたように杯を卓へ戻した。
「行ってこい。食事は下げさせぬ」
「ありがとうございます、魔皇陛下」
シェルミアは席を立つ。
いつもと変わらない落ち着いた動作だったが、食堂を出る足取りは僅かに速かった。
ミテイもすぐに立ち上がる。
『愛しの旦那様を見る』
「見物へ行くわけではないよ」
『でも、シェルミアが好きな人』
「そうだね」
否定しながらも、シェルミアの声は少し柔らかかった。
リュミエラも席を立つ。
「私も挨拶をしておくわ。長くシェルミアを借りていたもの」
ゼラスとリズナもそれに続いた。
「皆で来る必要はないと思うけどね」
「シェルミアさんの旦那様には、あたしたちからもご挨拶した方がいいでしょう」
リズナが答える。
「迷宮では、シェルミアさんに何度も助けていただきましたから」
「俺は顔を見たら戻る」
ゼラスが言う。
「夫婦の話にまで付き合う気はない」
『ゼラスも、愛しの旦那様を見る?』
「その呼び方を定着させるな」
ミテイは首を傾げたまま、四人の後を追った。
面会用の小部屋の前には、一人の男が立っていた。
濃い青色の髪に、落ち着いた銀色の瞳。
外出先から急いで駆けつけたのか、簡素な上着の上に濃灰色の外套を羽織っている。
男は落ち着かない様子で、扉の前を行き来していた。
廊下の先にシェルミアの姿を見つけた瞬間、その足が止まる。
「アーヴェル」
シェルミアが名を呼んだ。
アーヴェルは返事をしなかった。
真っすぐシェルミアへ歩み寄り、その後ろにいる者たちには視線すら向けない。
妻の両肩へ手を置き、顔、腕、足元へと素早く視線を走らせる。
「怪我は」
「少しだけだよ」
「どこだ」
「治療は受けてる。命に関わるものでもないね」
「軽いかどうかは、俺が確かめる」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
それでも、一つ一つの言葉から、押し殺していた不安が伝わってくる。
アーヴェルはシェルミアの身体を引き寄せ、強く抱き締めた。
シェルミアの目が僅かに見開かれる。
それから、いつもの軽い調子を消し、夫の背へ静かに腕を回した。
「ただいま」
「……ああ」
短い返事だった。
アーヴェルの腕に込められた力は、しばらく緩まなかった。
シェルミアも急かさず、そのまま夫の胸元へ額を預けている。
リズナは二人を見つめ、小声でリュミエラへ尋ねた。
「あんな表情もされるんですね」
「夫の前でまで、いつもと同じというわけではないのでしょうね」
ミテイは抱き合う二人から目を離さなかった。
『これが、好き?』
シェルミアは夫の腕の中で、僅かに笑った。
「そういうものの一つだね」
『会えたから、嬉しい?』
「うん」
『でも、アーヴェルは怒っている』
「それも間違ってないね」
『同時に二つ?』
「感情は、一つずつ順番に出てくるとは限らないよ」
『難しい』
「そうだね」
ようやく身体を離したアーヴェルは、もう一度妻の顔を見る。
「今すぐ傷を確認する」
「もう治療は受けたよ」
「俺も見る」
「アーヴェルは治療師じゃないだろう?」
「傷を隠していないかくらいは分かる」
シェルミアが少しだけ目を逸らした。
「隠してはいないよ」
「なら、見せられるな」
「……分かったよ」
リズナが密かに目を丸くする。
それに気づいたゼラスが尋ねた。
「何だ」
「いえ。シェルミアさんが一度で了承されるんだと思って」
声を抑えたつもりだったが、本人にも聞こえていたらしい。
シェルミアが振り返る。
「リズナ」
「すみません。何でもありません」
「全部聞こえてるよ」
そのやり取りで、ようやくアーヴェルの意識が周囲へ向いた。
まずリュミエラを見て、すぐに姿勢を正す。
「リュミエラ様。ご無沙汰しております」
「久しぶりね、アーヴェル。シェルミアを長く連れ回してしまって、ごめんなさい」
「リュミエラ様が謝られることではありません」
アーヴェルは隣の妻へ視線を戻す。
「本人が自分の意思で迷宮へ入ったことは、よく理解しておりますので」
「理解があって助かるね」
「許しているとは言っていない」
「そうだったね」
アーヴェルはリズナとミテイへ視線を移す。
そして最後に、少し離れて立つ黒髪の少年を見た。
銀色の瞳が僅かに見開かれる。
「……ゼラス様」
「久しいな、アーヴェル」
ゼラスが答えた。
アーヴェルは何かを言いかけた。
しかし、すぐに妻の腕へ目を戻す。
ゼラスもそれを察し、軽く手を振った。
「俺のことは後でいい。今はシェルミアを見てやれ」
「ありがとうございます」
アーヴェルは短く頭を下げると、シェルミアを小部屋へ促した。
「中で座ってくれ」
「立ったままでも平気だよ」
「座れ」
「……はい」
シェルミアは素直に部屋へ入った。
リズナがゼラスへ小声で尋ねる。
「知り合いだったの?」
「ああ。魔皇軍にいた頃から知ってる」
「旦那様がアーヴェルさんだってことも?」
「知るわけないだろ」
ゼラスは小部屋へ入っていく二人を見ながら、僅かに眉を寄せた。
「シェルミアの旦那というのが、アーヴェルだったとはな」
「意外なの?」
「二人が繋がる話を、一度も聞いたことがない」
「シェルミアさん、旦那様がいることすら話していませんでしたものね」
「聞かれなかったからね」
部屋の中からシェルミアの声が返ってくる。
リズナは小さく息を吐いた。
「そこは聞かれなくても話してよかったと思います……」
小部屋へ入ると、アーヴェルはシェルミアを長椅子へ座らせた。
袖を捲り、治療された傷の状態を確かめる。
深い傷ではない。
だが、腕や肩には浅い傷がいくつも残っている。
数日に及ぶ帰還を終えたばかりであることは、僅かに疲労の滲む表情からも分かった。
「これで少しだけなのか」
「もう塞がってるだろう?」
「傷の数の話をしている」
「迷宮では珍しくない程度だよ」
「比較の対象を迷宮にするな」
「それは難しいね」
「シェルミア」
名前を低く呼ばれ、シェルミアは肩をすくめた。
「心配をかけたことは、本当に悪かったと思ってるよ」
「予定を何日過ぎた」
「数えなくても分かってる」
「連絡もなかった」
「できる場所ではなかったからね」
「帰れなかったのか」
シェルミアの返事が僅かに遅れた。
「途中からは、簡単に戻れなくなった」
「途中までは戻れた?」
「……戻る選択肢はあったね」
アーヴェルは目を閉じ、一度ゆっくりと息を吐いた。
声を荒らげることはない。
だからこそ、その沈黙の方が重かった。
「事前の予定は、第七十三階層付近の確認だったはずだ」
「そうだね」
「どこまで行った」
シェルミアはリュミエラを見る。
リュミエラが静かに頷く。
到達した事実自体は、いずれ公表される。
「第百階層だよ」
アーヴェルの表情が止まった。
「……もう一度言ってくれ」
「第百階層まで到達した」
「第七十三ではなく?」
「百だね」
「二十七階層分、予定を越えたと」
「普通の経路を一階ずつ下りたわけではないけどね」
「そこは今、重要ではない」
「そうかな?」
「重要ではない」
シェルミアは口を閉じた。
リズナが隣で僅かに姿勢を正す。
アーヴェルは怒鳴っていない。
それでも、巨大な魔物を前にした時とは別種の緊張が部屋を満たしていた。
「戻る選択肢があった時点で、なぜ戻らなかった」
「先へ進む必要があったからだよ」
「調査のために?」
「それだけじゃない」
シェルミアの声から軽さが消える。
「放置すれば、魔皇城や外側の門へ被害が及ぶ可能性があった。私たちが進まなければ、異変を止められなかったかもしれない」
「それは、迷宮を調べたい気持ちとは無関係だったと言えるか」
シェルミアは少し考えた。
「……無関係とは言えないね」
「そうか」
「嘘をついても仕方ないだろう?」
「ああ。正直に話してくれたことはよかった」
アーヴェルは妻の目を見つめる。
「俺は、君が迷宮へ行くこと自体を止めたいわけではない」
「分かってるよ」
「強いことも、知識が必要とされていることも知っている。だが、帰ると約束した日を越え、連絡もなく、どこにいるかさえ分からないまま待つ側のことも考えてくれ」
シェルミアは両手を膝の上で重ねた。
「申し訳なかった」
今度の謝罪に、普段の軽い響きはなかった。
「次からは、予定外の経路が現れた時にどうするかも、出発前に話し合おう」
「予定外のことを事前に決めるのは難しくないかな?」
「全てを決めろとは言っていない。どの時点で撤退を考えるのか。連絡できない状況が何日続けば救援を要請するのか。決められることはある」
シェルミアの指が、何もない空中で僅かに動いた。
記録板へ書き留めようとしたらしい。
アーヴェルがその指を見る。
「今は記録しなくていい」
「大事な話だから、覚えておこうと思っただけだよ」
「まず俺の顔を見て聞いてくれ」
シェルミアは夫を見上げる。
「聞いてるよ」
「なら、今夜は休むと約束してくれ」
「報告書の整理がある」
「明日からでいい」
「魔皇陛下から、城に残って整理するよう命じられているよ」
「今夜中に終わらせろとは言われていないはずだ」
リュミエラが微笑む。
「ええ。今日は休ませるつもりだったわ」
「リュミエラ様」
「アーヴェルの言うとおりよ。報告書は明日からで構わないわ」
シェルミアはしばらく考えた後、諦めたように息を吐く。
「分かりました。今日は休みます」
リズナが感心したように呟く。
「本当にお強いですね……」
アーヴェルが彼女を見る。
「俺が?」
「シェルミアさんを休ませられる方は、あまりいないので」
「休ませられているわけではない」
アーヴェルは苦笑した。
「帰ってきた時に、頼み込んでいるだけだ」
『シェルミアは、アーヴェルの命令に従う?』
ミテイが尋ねる。
「命令ではないよ」
シェルミアが答えた。
『でも、休む』
「私がそうした方がいいと思ったからね」
『断ってもいい?』
「ああ」
アーヴェルが答える。
「断ることはできる。ただ、断られれば俺は理由を聞くし、心配もする」
『シェルミアは、心配させたくない?』
「そうだね」
『好きだから?』
シェルミアは夫を見る。
「それもあるよ」
アーヴェルの表情が僅かに和らいだ。
ミテイは二人を見比べる。
『怒っていても、好き?』
「ああ」
アーヴェルは迷わず答えた。
「無事に帰ってきて嬉しい。それと、無茶をしたことに怒っている。どちらも本当だ」
『同時に二つ』
「そうだ」
『好きは、難しい』
「俺にも難しい」
「そこは、分かっていると言ってほしいところだね」
シェルミアが言う。
「分かっているつもりになって、君の考えを決めつける方が嫌だろう?」
「それはそうだね」
『分からなくても、一緒にいる?』
アーヴェルは妻の手を取った。
「ああ。分からないから、話をする」
ミテイは二人の重なった手を見つめた。
シェルミアの傷に緊急性がないと分かり、アーヴェルはようやく周囲へ落ち着いた視線を向けた。
黒髪の少年を見る。
先ほどは驚く余裕すらなかったらしい。
今度は、その顔に少しずつ懐かしさが浮かんだ。
アーヴェルは立ち上がり、姿勢を正す。
「改めまして、お久しぶりです。ゼラス様」
「ああ。二百年ぶりくらいか」
「お会いするのは、ゼラス様が魔皇軍を離れられて以来です」
「その呼び方はやめろ」
ゼラスはすぐに返した。
「俺はもう魔皇軍の所属ではない。軍を離れて二百年になる」
「承知しております」
「なら、ゼラスでいい」
「それはできません」
迷いのない返事だった。
ゼラスが僅かに目を細める。
「俺が軍にいたから、そう呼んでいたんじゃないのか」
「いいえ」
アーヴェルは穏やかに首を横へ振る。
「私がゼラス様とお呼びするのは、軍籍を理由にしているからではありません」
「呼び方を変えるつもりはないと?」
「ありません」
ゼラスはしばらくアーヴェルを見た後、小さく息を吐いた。
「……昔から頑固なところは変わらないな」
「ゼラス様も、お変わりないようで安心しました」
アーヴェルは少年姿のゼラスを見つめ、懐かしそうに目を細める。
「魔皇軍にいらした頃も、そのお姿で過ごされることの方が多かったですから」
「この姿を見て懐かしむな」
「申し訳ありません。ですが、昔と変わらぬお姿を見ると、どうしても」
「中身は二百年分変わってる」
「先ほどのやり取りを拝見する限り、根本の部分はあまり変わられていないように思えます」
ゼラスが僅かに顔をしかめた。
「会って早々、随分言うようになったな」
「ゼラス様が軍を離れられてから、私にも二百年分の時間がありましたので」
「それを言われると否定しづらいな」
リズナが二人を交互に見る。
「思っていたより、親しいのね」
「昔から知ってるだけだ」
ゼラスが答える。
「ゼラス様にとっては、そうなのでしょう」
「余計な訂正をするな」
アーヴェルの口元に僅かな笑みが浮かぶ。
その様子を見たゼラスは、改めてシェルミアとアーヴェルを見比べた。
「しかし、シェルミアの旦那がお前だったとはな」
「ご存じなかったのも当然かと」
アーヴェルが答える。
「私たちが夫婦になったのは、百年ほど前です。ゼラス様が魔皇軍を離れられてから、百年近く後のことになります」
「なるほど」
ゼラスが納得したように頷く。
「俺が知るはずもないわけだ」
「はい。結婚してから、ゼラス様とお会いするのは今日が初めてです」
「それにしても、お前とシェルミアか」
ゼラスはまだ少し意外そうだった。
シェルミアが首を傾げる。
「そんなに不思議かな?」
「アーヴェルが結婚したと聞いても驚かなかっただろうが、相手がお前だとは予想できない」
「どういう意味だい?」
「そのままの意味だ」
「説明になってないね」
アーヴェルが妻を見る。
「俺も、シェルミアと結婚したとゼラス様へ報告する機会はなかった」
「お前まで真面目に説明しなくていいよ」
「だが、知らなかった理由を確認されている」
「そういうところだろうな」
ゼラスが呟いた。
「何がだい?」
「お前たちが夫婦になった理由だ」
シェルミアとアーヴェルは一度、互いの顔を見る。
リズナも二人を見比べた。
「なんとなく、分かる気がします」
「リズナまで?」
「アーヴェルさんがいれば、シェルミアさんが迷宮以外のことを忘れても大丈夫そうですから」
「褒められてる気がしないね」
「半分は褒めています」
「残りの半分は?」
「シェルミアさんへの心配です」
アーヴェルが小さく頷く。
「よく分かる」
「早速、意見が合っていますね」
シェルミアは困ったように息を吐いた。
アーヴェルは、リズナへ向き直った。
「あなたがリズナさんか」
「はい。初めまして」
リズナは姿勢を正す。
「シェルミアさんには、迷宮で何度も助けていただきました」
「こちらこそ、妻が世話になった」
アーヴェルは深く頭を下げた。
「帰還までの詳しい事情は、まだ聞いていない。だが、リズナさんたちが一緒だったからこそ、無事に戻れたのだと思っている」
「シェルミアさんも、あたしたちを何度も助けてくださいました」
「それでも、礼を言わせてほしい」
「はい」
リズナも丁寧に頭を下げた。
続いて、アーヴェルの視線がミテイへ向く。
「そちらの方は?」
ミテイは胸へ手を置いた。
『私は、ミテイ』
『迷宮で生まれた』
アーヴェルの表情が僅かに引き締まる。
リュミエラが一歩進んだ。
「詳しい事情は、まだ公にできないの。けれど、現在は私たちの仲間として、私の管理下で城に滞在することになっているわ」
「承知しました」
アーヴェルはそれ以上追及しなかった。
シェルミアが続ける。
「迷宮で私が落ちかけた時、ミテイが助けてくれたんだよ」
アーヴェルがミテイを見る。
「君が?」
『はい』
「自分も傷を負っていたと聞いた」
『シェルミアが落ちそうだった』
「なぜ助けた」
ミテイはシェルミアを見る。
『シェルミアが傷つくのが、嫌だった』
アーヴェルは静かに頭を下げた。
「ありがとう」
ミテイの灰色の瞳が僅かに見開かれる。
『私は、最初は四人を襲った』
「その話も、いずれ聞く必要はあるだろう」
アーヴェルは顔を上げた。
「だが、君がシェルミアを助けてくれたことへの感謝とは別だ」
『別にできる?』
「できる」
『警戒しながら、ありがとうと言う?』
「ああ。知らないことが多いから警戒はする。それでも、感謝するべきことまで消えるわけではない」
ミテイは胸へ手を置いた。
『ここが、少し変わる』
「嫌な感じか?」
『嫌ではない』
「なら、受け取ってくれ」
ミテイは少し考えてから、慎重に答えた。
『どういたしまして』
アーヴェルが微笑む。
その隣で、シェルミアも穏やかに目を細めていた。
「今夜は、シェルミアを連れて帰ります」
アーヴェルがリュミエラへ告げる。
「ええ。そうしてあげて」
「リュミエラ様、城に残れとのご命令は?」
「明日の朝からで十分よ」
シェルミアは僅かに未練のある顔をした。
「記録板だけ、持ち帰ってもいいでしょうか」
「駄目だ」
アーヴェルが即答する。
「まだ何も書くとは言ってないよ」
「持って帰れば書くだろう」
「確認するだけかもしれない」
「確認した後で、気づいたことを書き始める」
「一行だけなら」
「駄目だ」
シェルミアはリュミエラを見る。
リュミエラは笑顔のまま首を横へ振った。
「記録板は私が預かるわ」
「味方がいないね」
『私は、シェルミアを助ける?』
ミテイが尋ねる。
シェルミアの表情が僅かに明るくなる。
「ミテイは優しいね」
『記録板を渡す?』
「それは助けなくていい」
アーヴェルが答えた。
『分かった』
「判断が早いね……」
シェルミアは諦め、リュミエラへ記録板を差し出した。
「では、明日までお願いいたします」
「ええ。今夜は開かずに置いておくわ」
「開いていただいても構いませんよ」
「誘惑しないの」
「はい」
リズナがその様子を見て、小さく笑う。
「シェルミアさん、今日はゆっくり休んでください」
「リズナまでアーヴェルの側なんだね」
「今回は、旦那様の方が正しいと思います」
「今回は?」
「普段のことは、まだ存じませんので」
アーヴェルが僅かに笑った。
「十分だ」
シェルミアは立ち上がり、夫の隣へ並ぶ。
「それじゃあ、皆。また明日」
「おやすみなさい、シェルミアさん」
リズナが答える。
「無理に早く来なくていいのよ」
リュミエラも続けた。
「善処します」
アーヴェルが妻を見る。
シェルミアは小さく息を吐く。
「昼までには来るよ」
「もう少し休め」
「朝よりは遅いだろう?」
「交渉は帰ってからだ」
二人が廊下を歩き始める。
ミテイは、その背中へ声をかけた。
『シェルミア』
「何?」
『愛しの旦那様と帰る?』
「そうだよ」
『嬉しい?』
シェルミアはアーヴェルの腕へ、自分の腕を絡めた。
「とてもね」
アーヴェルはまだ完全には怒りを収めていない。
それでも妻の腕を振りほどかず、歩調を合わせる。
二人の姿が廊下の先へ消えるまで、ミテイはじっと見送っていた。
『好きは、怒っても消えない』
「あの二人の場合はね」
リズナが答える。
『リズナも、好きな相手に怒る?』
リズナは一瞬だけゼラスを見る。
「……そういうことも、あるんじゃない?」
『ゼラスに、よく怒っている』
「それだけで決めないで」
声は穏やかだったが、尖った耳が僅かに赤くなる。
ゼラスは横目でリズナを見た。
『ゼラスは、リズナに怒られても一緒にいる』
「ああ」
『好きだから?』
ゼラスは短く息を吐く。
「今は、お前の部屋を決める方が先だ」
『今は』
「そこだけ正確に覚えるな」
リズナが堪えきれず、小さく笑った。
「さっきと同じ答えね」
「他に言いようがない」
『答えは、後で変わる?』
「部屋へ行くぞ」
ゼラスはそれ以上答えず、廊下を歩き始めた。
ミテイもすぐにその後を追う。
『ゼラス。今は、いつまで?』
「知らん」
「ミテイ、あまり困らせないの」
リズナはそう言いながらも、どこか楽しそうだった。
リュミエラは少し後ろから三人を眺め、穏やかに微笑む。
食べ物の次に、ミテイが自分で選ぶもの。
それは、魔皇城で初めて与えられる、自分だけの部屋だった。




