第七十二話 同じ食卓
日が沈む頃、六人は魔皇城の小さな食堂へ集まった。
大勢を招くための広間ではない。
魔皇が家族や、ごく限られた客人と食事を取るための落ち着いた部屋だった。
中央の卓には、焼いた肉や野菜、温かなスープ、柔らかなパン、切り分けられた果実が並べられている。
ミテイは席の前に立ったまま、卓上を見渡していた。
『種類が多い』
「帰る途中は、保存食ばかりだったものね」
リズナが隣の椅子を引く。
「座っていいわよ」
『うん』
ミテイは腰を下ろした。
彼女の前に置かれた皿には、他の者よりも少ない量の料理が盛られている。
身体が普通の食事をどこまで受け入れられるのか、まだ分かっていないからだ。
迷宮からの帰還中にも、水や保存食を少量ずつ試していた。
飲み込み、身体へ取り込むことはできた。
異常も起きなかった。
ただし、あれは食事を楽しむためではない。
身体が地上でも動き続けられるかを確かめるための試験に近かった。
『これは、試すための食事?』
ミテイが尋ねる。
「身体の様子を確かめる意味はあるわ」
向かいに座ったリュミエラが答えた。
「でも、それだけではないのよ」
『何が違う?』
「今夜は、自分が食べたいものを選んでいいの」
ミテイが卓上を見る。
『全部、食べなくてもいい?』
「ええ。身体に合わなかったり、嫌いだと思ったりしたら、無理に食べなくてもいいわ。ただし、最初は少しずつね」
『命令ではない?』
「もちろん」
リュミエラは微笑む。
「何を口にするかも、自分で選んでいいのよ」
『自分で選ぶ』
ミテイは自分の皿を見下ろした。
魔皇が上座から、その様子を眺めている。
「帰還中は、何を食べた」
『硬いもの』
「説明が短すぎるわね」
リュミエラが苦笑する。
リズナが補足した。
「保存食です。最初は小さく砕いて、水と一緒に少しだけ食べてもらいました」
『硬くて、味が少なかった』
「保存性を優先しているからね」
シェルミアが言う。
「美味しさを求めるものではないよ」
『シェルミアは、たくさん食べていた』
「歩くには体力が必要だからね」
リズナが隣からシェルミアを見る。
「休憩を短くして、先へ進みたかっただけではありませんか?」
「それもあるね」
「そこは否定してください……」
シェルミアは涼しい顔でスープへ手を伸ばした。
その話し方は普段どおりだったが、魔皇へ顔を向ける時だけは姿勢を正した。
「魔皇陛下。食事の前に、帰還した旨は夫へ伝えております」
「そうか」
「明日、改めて話をする予定です」
「明日まで待つと返事があったのか」
シェルミアの手が止まる。
「……まだ返事は届いておりません」
「ならば、そうなるとは限らんな」
「不吉なことを仰らないでください」
リズナが僅かに眉を寄せる。
「やはり、かなり心配されているのではありませんか?」
「その可能性は高いね」
「分かっているのに、落ち着いていますね……」
「今から慌てても、怒られる時間が早まるだけだからね」
「そういう問題でしょうか」
ミテイは二人の会話を聞きながら、匙を手に取った。
リュミエラが用意させた薄味のスープを、慎重に口へ運ぶ。
一口飲み込む。
灰色の瞳が僅かに見開かれた。
『温かい』
「熱くなかった?」
リズナが尋ねる。
『大丈夫』
ミテイはもう一口飲む。
『帰る途中の水とは違う』
「水とスープだからな」
ゼラスが答えた。
今日は魔皇と同じ卓についているため、普段よりも姿勢が整っている。
リズナはその横顔を見た。
「食事中も、魔皇陛下にはその話し方なのね」
「当然だろ」
「分かってはいるけど、まだ慣れないのよ」
魔皇がゼラスへ視線を向ける。
「私に対しても、今は普段の話し方だったようだが」
ゼラスの動きが僅かに止まった。
「失礼いたしました」
リズナは思わず目を丸くした。
「……戻るのが早いわね」
「だから、何を驚いている」
「あんたが素直に謝っているところよ」
「陛下の御前だ」
「それを聞くたびに、知らない人みたいに見えるのよね」
魔皇は面白そうに二人を見ていた。
「昔から、リュミエラの前では多少崩れていたがな」
「父上」
リュミエラが窘めるように呼ぶ。
「事実だろう」
「今、その話を広げる必要はありません」
「承知した」
魔皇が僅かに口元を緩める。
ミテイは三人を順番に見た。
『家族だと、話し方が変わる?』
「相手との関係で変わることはあるわね」
リュミエラが答える。
『ゼラスは、魔皇陛下の家族?』
「違う」
ゼラスが即答した。
魔皇は少し考える。
「かつては、城にいる時間が家族より長い側近ではあったな」
「陛下」
「分かっている。昔の話だ」
ゼラスが僅かに目を伏せる。
その横で、リズナは興味を隠せずに彼を見ていた。
「何だ」
「本当に側近だったのね」
「今さら疑っていたのか」
「疑ってはいなかったわ。ただ、普段のあんたを見ていると、なかなか実感が湧かなくて」
「余計な一言が多いぞ」
『仲がいい』
ミテイが言った。
リズナの尖った耳が、僅かに赤くなる。
「……その話は、もう少し後にしましょう」
『答えたくない?』
「今は食事中でしょう」
リズナは静かにスープへ視線を落とした。
魔皇が僅かに眉を上げる。
「随分と穏やかにかわしたな」
「魔皇陛下の御前ですので……」
「俺と同じだな」
ゼラスが言う。
リズナは彼を横目で見る。
「あんたと一緒にしないで」
声は小さかったが、耳の赤みは消えていなかった。
ミテイは再びスープを飲んだ。
その後、柔らかなパンを小さくちぎる。
一口食べ、ゆっくりと噛んだ。
『これは、保存食より柔らかい』
「同じ感想を持たなかったら驚くよ」
シェルミアが言う。
リズナが彼女へ視線を向ける。
「ミテイは真面目に比べているんですから、面白がらないでください」
「面白がってはいないよ」
「口元が笑っています」
シェルミアは否定せず、スープを飲んだ。
ミテイはパンと保存食の違いを確かめるように、もう一口食べた。
次に野菜。
肉。
再びスープ。
一つ口へ運ぶたびに、僅かに間を置く。
身体に異変がないか確かめながら、味の違いを覚えている。
誰かの記録を取り込むのではない。
目の前のものを、自分で食べて知っていく。
『みんな、順番が違う』
ミテイが卓を見回した。
ゼラスは黙々と料理を口へ運んでいる。
リュミエラはスープから始め、魔皇は先に肉へ手をつけていた。
シェルミアは食べながらも、卓の端に置いた記録板へ何度か目を向けている。
そのたびにリズナが気づいていた。
「食べ方に、決まった順番はないもの」
リュミエラが答える。
「好きなものから食べる人もいれば、最後まで残しておく人もいるわ」
『好きなもの』
「食べていて、もう一度食べたいと思うものよ」
『必要だからではなく?』
「ええ」
ミテイは自分の皿を見た。
そこに残っている料理を、一つずつ確かめる。
やがて、最後に置かれていた果実へ手を伸ばした。
薄く切られた一片を口へ入れる。
ミテイの目が、先ほどよりも大きく開いた。
『甘い』
「気に入った?」
リズナが尋ねる。
ミテイはすぐには答えず、もう一切れ食べた。
『もう一度、食べたい』
「なら、今のところそれが一番好きなのかもしれないわね」
『好き』
ミテイは皿の上の果実を見る。
『好きは、これにも使う?』
「使うわよ」
リズナは答えた後、僅かに間を置いた。
「ただし、人に向ける好きとは、少し意味が違うこともあるわ」
『違う?』
「食べ物の好きと、誰かを大切に思う好きは、同じ言葉でも気持ちが違うのよ」
「随分丁寧に説明するね」
シェルミアが言う。
リズナは耳を赤くしたまま、彼女を見る。
「シェルミアさん、面白がらないでください」
「感心しただけだよ」
「その顔で言われても、あまり信じられません」
ミテイがリズナを見る。
『リズナは、ゼラスより果実が好き?』
リズナの手が止まった。
卓上に一瞬の静寂が落ちる。
「……比べるものではないわ」
リズナは困ったように息を吐いた。
「果実とゼラスでは、好きかどうかを考える意味が違うでしょう」
『ゼラスの方が難しい?』
「そういうことになるのかしら……」
思わず答えかけてから、リズナは口を閉じた。
シェルミアが僅かに肩を揺らす。
リズナは彼女を見ずに続ける。
「笑わないでくださいね」
「まだ笑っていないよ」
「時間の問題に見えます」
ゼラスが小さく息を吐く。
「食事くらい、静かにできないのか」
リズナは彼を見る。
「原因の一部はあんたでしょう」
「俺は何もしていない」
『ゼラスは、リズナが好き?』
ゼラスの手が止まった。
リズナも動きを止める。
魔皇とリュミエラが、同時に二人へ視線を向けた。
シェルミアだけが、今度こそ明らかに楽しそうな顔をしている。
「ミテイ」
ゼラスが静かに呼ぶ。
『何?』
「今は食事をしろ」
『答えたくない?』
「その話を、今ここでする必要はない」
『今は』
リズナは俯き、額へ指先を当てた。
「そこだけ正確に覚えているのね……」
魔皇がゼラスを見る。
「答えぬのか」
「陛下まで加わらないでください」
ゼラスは敬語を保っていたが、声には僅かな疲れが混じっていた。
魔皇は口元を緩める。
「そうか。お前にも答えにくい問いができたのだな」
「昔からございます」
「記憶にないな」
「答える必要がなかっただけです」
リズナは顔を上げ、ゼラスを見る。
彼は平静を装っていたが、いつもより僅かに視線が定まっていない。
それに気づいたリズナは何かを言いかけ、結局、静かに水を飲んだ。
リュミエラは二人を見た後、自分の杯へ口をつける。
その表情には、穏やかな笑みだけが浮かんでいた。
「ミテイ」
魔皇が声をかけた。
『はい』
「食事は、身体を動かすためだけにするものではないと分かったか」
ミテイは卓を見回した。
料理を選ぶ。
味を比べる。
言葉を交わす。
笑う者がいて、困る者がいて、昔の話をする者がいる。
帰還中にも、五人で保存食を口にした。
けれど、あの時は先へ進むために必要だった。
今は違う。
急ぐ必要はない。
何を食べるかも、どの順番で食べるかも、自分で決めていい。
『同じ場所で、違うものを選ぶ』
「そうだな」
『でも、一緒に食べている』
「ああ」
ミテイは残っていた果実を一切れ取り、ゆっくりと味わった。
『食事は、難しい』
「何でも真面目に考えるのね」
リズナが笑う。
『嫌ではない』
「なら、また食べればいいわ」
『また、同じ人と?』
「それも、自分で選んでいいのよ」
リュミエラが答えた。
ミテイは四人と魔皇を見る。
『また一緒に食べたい』
魔皇は僅かに目を細めた。
「まずは、今夜の食事を無事に終えてからだ」
『無事に終わらないことがある?』
「シェルミアがいるからな」
「魔皇陛下。私を何だと思っていらっしゃるのですか」
「食事中でも記録板を開こうとする迷宮狂いだ」
「まだ一度も開いておりません」
「三度ほど手を伸ばしていましたよ」
リズナが静かに指摘する。
「開いてはいないよ」
「威張るところではありません」
その時、食堂の扉が静かに叩かれた。
魔皇が入室を許すと、侍従が一礼して入ってくる。
「お食事中に失礼いたします」
「何だ」
「シェルミア様に、面会を求める方がお越しです」
シェルミアの手が止まる。
「……どなたでしょうか」
侍従は僅かに答えづらそうな顔をした。
「ご主人様です。帰還の知らせを受け、すぐに魔皇城へ向かわれたとのことです」
リズナがゆっくりとシェルミアを見る。
ゼラスも顔を向けた。
リュミエラは口元を隠し、魔皇は予想していたように小さく頷く。
ミテイだけが、嬉しそうに尋ねた。
『愛しの旦那様?』
シェルミアは目を閉じた。
「そうだね」
『嬉しい?』
「もちろん嬉しいよ」
シェルミアは静かに席を立つ。
「ただし、たぶんものすごく怒ってるね」




