第六十九話 好きという記録
管理所の奥にある応接室へ通されると、シェルミアは抱えていた記録板を机の上へ置いた。
向かいに座る管理所の責任者は、五人を順番に見回している。
ゼラス。
リズナ。
リュミエラ。
シェルミア。
そして最後に、淡い青灰色の髪を持つミテイのところで視線を止めた。
姿だけなら、見慣れない若い魔族に見える。
だが、体内を巡る灰色の魔力は、普通の魔族とは明らかに異なっていた。
「まずは、到達階層から報告するね」
シェルミアが記録板を開いた。
「今回、私たちは第百階層へ到達した」
責任者の手から筆が落ちた。
乾いた音が、静かな室内へ響く。
「……申し訳ありません。今、何階層と仰いましたか?」
「百階層だよ」
「第七十三階層ではなく?」
「第百階層」
シェルミアは少し楽しそうに言い直した。
開かれた記録板には、未知の階層図と文字が隙間なく書き込まれている。
責任者はそれを見つめたまま、しばらく動かなかった。
「詳細な報告は、皇都へ戻ってから行うわ」
リュミエラが穏やかに告げる。
「今回の異変には、外側の門と魔皇城に関わる情報が含まれているの。こちらで不用意に広めることは避けてちょうだい」
「承知いたしました、リュミエラ様」
責任者は姿勢を正した。
それから、改めてミテイへ視線を向ける。
「そちらの方についても、お尋ねしてよろしいでしょうか」
『ミテイ』
「名前ではなく、何者なのかを聞かれている」
ゼラスが横から言う。
『私は、ミテイ』
リュミエラがミテイへ柔らかな視線を向けてから、責任者へ答えた。
「迷宮の中で生まれた存在よ。詳しい経緯は、私から魔皇陛下へ直接報告するわ」
「迷宮で生まれた……」
責任者の表情が硬くなる。
ミテイは、その変化をじっと観察していた。
『警戒している?』
「はい」
責任者は一瞬迷ったが、正直に答えた。
「私どもには、あなたがどういった存在なのか判断できませんので」
『私は、敵ではない』
「それを知らない相手に、言葉だけで信じてもらうのは難しい」
ゼラスが言う。
『また、証明が必要?』
「ああ」
ミテイは自分の手を見下ろした。
『地上でも、これから』
「そういうことだ」
リュミエラが責任者を見る。
「ミテイについては、私が責任を持つわ。管理所では、彼女の存在についても伏せておいてちょうだい」
「承知いたしました」
「百階層へ到達したことも?」
シェルミアが口を挟む。
声に僅かな不満が混じっていた。
「それも、今は待ってちょうだい」
リュミエラが答える。
「あなたの記録を奪うつもりはないわ。ただ、公開する情報と伏せる情報を先に分ける必要があるの」
「到達したことくらいは、すぐ公表してもいいと思うけどね」
「数日くらい我慢なさい」
「数日で済む?」
「済ませるわ」
「なら、待つよ」
シェルミアは渋々と記録板を閉じた。
ミテイがその横顔を見る。
『シェルミアは、記録を見せたい?』
「うん。迷宮の記録は、残して伝えるためのものだからね」
『でも、今は見せない?』
「見せることで誰かが危険になるなら、順番を考える必要があるんだよ」
『自分で選ぶ?』
「そうだね」
ミテイは小さく頷いた。
『難しい』
「少しずつ慣れればいいわ」
リズナが言う。
『リズナも、難しいことを選ぶ?』
「もちろんあるわよ」
『ゼラスのこと?』
「どうしてそこでゼラスが出てくるのよ」
『分からない』
「分からないなら、変なところで名前を出さないで」
ゼラスは何も言わなかったが、二人へ一度だけ視線を向けた。
報告を終えた後、リュミエラは皇都への連絡を管理所へ依頼した。
往路で四人を運んだ小型魔導艇は、一行を降ろした後、補給のため皇都へ帰投している。
当初の予定を大幅に過ぎても四人が戻らなかったため、定期的に出されていた迎えの便も、数日前に一度打ち切られていた。
「新しい魔導艇をここまで向かわせると、到着は明後日になるそうよ」
連絡を終えて戻ったリュミエラが説明する。
「西の中継所まで出れば、早まるか?」
ゼラスが尋ねた。
「ええ。明日の昼には、皇都から来る便と合流できるわ」
「なら、そっちへ行くぞ」
ゼラスは迷わず決めた。
「ここで待たないの?」
リズナが尋ねる。
「一日歩くか、二日待つかだ。歩いた方が早い」
「迷宮を百階層分戻った後だと、街道なんて散歩みたいなものだね」
シェルミアが荷物を持ち上げる。
「それを普通の感覚みたいに言わないでください」
「リズナも歩けるよね?」
「歩けますけど」
「なら問題ないね」
「問題はそこじゃありません」
ミテイが二人を見る。
『散歩は、何をするもの?』
「急がずに外を歩くことよ」
リュミエラが答える。
『今回は急ぐ?』
「多少はね」
『なら、散歩ではない?』
「シェルミアさんの言うことを、あまり真面目に考えなくていいわよ」
「酷いね」
『分かった』
「そこで素直に納得しないでほしいな」
翌朝、五人は魔導艇との合流地点を目指し、管理所を出発した。
街道の上には、朝の光が降り注いでいた。
道の両側には低い草原が広がり、その先には疎らな木々が並んでいる。
ミテイは何度も足を止めた。
風に揺れる草。
空を横切る鳥。
土の上を這う小さな虫。
どれも、迷宮の記録には存在しなかったものだった。
『あれは?』
「鳥よ」
リズナが答える。
『どこへ行く?』
「それは鳥に聞かないと分からないわね」
『記録すれば分かる?』
問いかけてから、ミテイは自分で首を横へ振った。
『違う。勝手に取ってはいけない』
リズナは少し驚いてから、柔らかく笑った。
「そうね。見るだけならいいわよ」
『見るだけ』
ミテイは飛び去っていく鳥を、姿が見えなくなるまで目で追った。
そのたびに一行の足は止まったが、誰も急かさなかった。
昼を過ぎた頃、五人は街道から少し離れた木陰で休むことにした。
リズナが荷物から水筒を取り出し、先にゼラスへ差し出す。
「はい」
「ああ」
ゼラスは受け取り、そのまま口をつけた。
ミテイが二人を見つめている。
『リズナは、ゼラスが好き?』
リズナの手から、自分の水筒が滑り落ちかけた。
「な、何を言ってるの!?」
ゼラスも水を飲む手を止める。
シェルミアは面白そうに顔を上げ、リュミエラは僅かに目を細めた。
ミテイだけが、リズナが慌てた理由を理解できていなかった。
『違う?』
「違うとか、そういう話じゃなくて! どうして急にそんなことを聞くのよ!」
『急ではない』
ミテイは真っ直ぐリズナを見る。
『四人を記録していた時から、違っていた』
「何が違ってたの?」
『リズナは、ゼラスを見る回数が多い』
「見てないわよ!」
『見ている』
「数えてたの!?」
『記録していた』
リズナの尖った耳が赤く染まる。
ミテイは構わず続けた。
『ゼラスが傷つくと、リズナの魔力が大きく揺れた』
『偽物のゼラスが死んだ時は、他の記録と違う反応だった』
「それは、仲間が死んだと思ったら誰だって驚くでしょう!」
『リュミエラやシェルミアの時とは違った』
「比べなくていいの!」
リズナは耳を隠すように、外套のフードを深く被った。
ミテイが首を傾げる。
『記録の中に、好きという言葉があった』
『誰かを特別に大切だと思う感情』
『リズナの反応は、それに近い?』
「近くないわよ!」
「随分強く否定するね」
シェルミアが楽しそうに言う。
「シェルミアさんは黙っていてください!」
『では、ゼラスが嫌い?』
「嫌いじゃないけど!」
リズナは答えた直後、口元を押さえた。
ゼラスが無言で彼女を見る。
「何よ」
「何も言ってない」
「その顔が何か言ってるのよ!」
「普通の顔だ」
ゼラスはそう答えた後、僅かに目を逸らした。
「目を逸らして言っても説得力ないわよ」
『やはり、仲がいい?』
「違う!」
リズナの声が木陰へ響く。
ゼラスは否定も肯定もせず、静かに水を飲み直した。
『ゼラスは答えない?』
「本人が答えたくないなら、追及するな」
『リズナは、答えたくない?』
「今は答えたくないの!」
『今は』
「そこを覚えなくていい!」
ミテイは少し考えてから頷いた。
『分かった』
リズナが安堵したのも束の間、ミテイはリュミエラへ顔を向けた。
『リュミエラも、ゼラスが好き?』
リズナが勢いよく顔を上げる。
ゼラスは小さく息を吐いた。
リュミエラは少しも慌てず、優雅に微笑んでいる。
「好きにも、いろいろあるものよ」
『いろいろ?』
「友人として大切に思うこともあれば、家族のように思うこともある。長い時間を共にした相手へ抱く、簡単には名前をつけられない感情もあるわ」
『リュミエラは、どれ?』
「さて、どれかしらね」
『分からない?』
「自分の気持ちでも、言葉にしない方がいい時があるのよ」
『答えたくない?』
「そういうことにしておきましょうか」
リュミエラは穏やかな笑みを崩さない。
それから、ゼラスへ一度だけ視線を向けた。
「ただ、とても大切な人ではあるわ」
「リュミエラさんまで……」
リズナがフードの陰から呟く。
ミテイは答えを確かめるように頷き、今度はシェルミアを見た。
『シェルミアも、ゼラスが好き?』
「私は違うね」
シェルミアはあっさりと答える。
『ゼラスが嫌い?』
「嫌いではないよ。でも、私には愛しの旦那様がいるからねー」
「旦那?」
ゼラスが聞き返した。
「えっ、シェルミアさん、結婚してるんですか!?」
リズナの声が重なった。
シェルミアが目を瞬く。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてませんよ!」
「俺も初耳だ」
「聞かれなかったからね」
「普通、どこかで言いませんか!?」
「迷宮の中で、夫婦の話をする必要はなかったからね」
シェルミアは悪びれる様子もなく、水を一口飲んだ。
「でも、無事に戻ったことは早く知らせないとね。予定より随分長く潜っていたから、きっと心配してるよ」
「心配どころか、怒ってるんじゃないですか?」
リズナが尋ねる。
「怒るだろうね」
「第百階層まで行ったって知ったら、もっと怒るんじゃないですか?」
「もっと怒るだろうね」
「分かってるのに、どうしてそんなに落ち着いてるんですか……」
「今から心配しても、怒られることは変わらないからね」
ゼラスが頷く。
「正しい判断だ」
「ゼラスまで納得しないでよ」
ミテイはシェルミアを見る。
『旦那様は、好きな人?』
「もちろん」
シェルミアは、これまでより柔らかな笑みを浮かべた。
「愛しの、って言ったでしょ」
『好きな人と一緒にいると、旦那様になる?』
「必ずではないよ。お互いに一緒に生きていくと決めて、夫婦になれば旦那様になるんだ」
『お互いに決める』
「そう。片方だけでは駄目だよ」
ミテイはしばらく考えた。
それから、再びリズナを見る。
リズナは嫌な予感を覚えたように身を引いた。
「何よ」
『リズナとゼラスは、まだ決めていない?』
「だから違うって言ってるでしょう!」
声に驚いた鳥が、木の枝から一斉に飛び立った。
ミテイが空を見上げる。
シェルミアは肩を揺らして笑い、リュミエラは口元を手で隠していた。
「ゼラスも何か言いなさいよ!」
「ミテイは知らないから聞いてるだけだろ」
「あんたは落ち着きすぎなのよ!」
『リズナの魔力が、また揺れている』
「観察しなくていい!」
ミテイは首を傾げた。
好きという感情は、まだよく分からない。
だが、名前を出すだけで魔力が揺れ、声が大きくなり、周囲の者が笑う。
空白だった頃には、理解できなかった変化だった。
『好きは、難しい』
「そうだね」
シェルミアが答える。
「迷宮より難しいかもしれないよ」
「それは言い過ぎじゃないですか?」
リズナが反論する。
「どうかな。迷宮には地図を作れるけど、誰かの気持ちには地図がないからね」
ミテイはその言葉を考えながら、淡い青灰色の髪へ触れた。
翌日の昼前。
五人が西の中継所へ到着すると、遠くの空に黒い影が現れた。
翼のない船体が魔力の光を帯び、ゆっくりと高度を下げてくる。
『船が飛んでいる』
ミテイは空を見上げた。
「魔導艇よ」
リュミエラが答える。
「あれに乗って、皇都へ戻るの」
『空を進む?』
「ああ」
ゼラスが言う。
『落ちない?』
「普通ならな」
『普通ではなかったら?』
「落ちるね」
シェルミアが答えた。
「シェルミアさん、初めて乗る人を怖がらせないでください」
「可能性を説明しただけだよ」
『危険でも乗る?』
「歩くより早いからな」
ゼラスが魔導艇へ向かって歩き出す。
ミテイは空を進む船と、その背中を交互に見た。
『やはり、外は分からないことが多い』
「皇都へ着けば、もっと増えるわよ」
リズナが言う。
『嫌ではない』
ミテイはそう答え、四人の後へ続いた。
迷宮で集めるだけだった記録は、もう必要ない。
これから知るものは、誰かから奪うのではなく、自分の目で見て、自分の意思で選ぶ。
魔導艇は五人を迎えるように、青空の下へ静かに降りてきた。




