第六十八話 空の下
第七十二階層を越えてから、帰路の進み方は変わった。
公開されている記録がある。
管理所へ提出された地図があり、シェルミア自身が何度も歩いた道も多い。
深層ほど複雑な分岐もなく、足を止める回数は目に見えて減っていった。
「この先は右だね」
先頭近くを歩くシェルミアが、迷わず通路を選ぶ。
リズナが風を先へ送りながら尋ねた。
「確認しなくても大丈夫なんですか?」
「何度も通ってるからね。罠の位置も覚えてるよ」
「位置が変わってたりしません?」
「変わっていたら、その時に考える」
「結局、確認は必要じゃないですか」
リズナの風が曲がり角の先まで流れる。
床に残る魔力。
壁の隙間。
天井から垂れ下がった石柱。
異常がないことを確かめてから、五人は先へ進んだ。
「やっぱり、リズナちゃんがいると楽ね」
リュミエラが微笑む。
「探知しながら歩けるだけで、余計な足止めが随分減るわ」
「何度か引っかかりそうになった人もいますからね」
リズナがシェルミアを見る。
「新しい変化があると、つい近くで見たくなるんだよ」
「ついで罠に近づかないでください」
『近づくと危険?』
最後尾を歩くミテイが尋ねた。
「危険だよ」
シェルミアが答える。
『シェルミアは、どうして近づく?』
「知りたいからだね」
『危険より、知りたい方が強い?』
「そうなることもあるよ」
『それは、命令?』
シェルミアは少し考えた。
「違うね。自分で選んでる」
『危険でも?』
「危険だからやめることもあるし、それでも進むこともある。そこは状況次第だよ」
ミテイは灰色の瞳でシェルミアを見る。
『難しい』
「その結論に戻るの、早くない?」
「でも、間違ってはいないわね」
リュミエラが穏やかに言った。
「自分で選ぶというのは、いつでも簡単なことではないもの」
『リュミエラも迷う?』
「ええ。今でも迷うわ」
『ゼラスも?』
「聞く相手を間違えてるよ」
シェルミアが笑う。
ゼラスが彼女を見る。
「どういう意味だ」
「ゼラスは迷っていても、迷っていない顔をするからね」
「必要な時に決められれば問題ない」
『迷っている時も、決める?』
「ああ」
『間違えたら?』
「次で直す」
ミテイはしばらく考えた。
『やはり、ゼラスには簡単なことが多い』
「簡単だとは言ってない」
「あんた、言い方が簡単すぎるのよ」
リズナが呆れた声を出す。
ゼラスは答えず、先へ歩いた。
ミテイもその背中を見てから、四人へ遅れないよう歩幅を整えた。
階層を越えるたび、空気が変わっていった。
深層に満ちていた重い魔力が薄れ、通路を流れる風も乾いていく。
魔物との戦闘は続いたが、五人の足を長く止めるほどの相手はいなかった。
リズナの風刃が群れの進路をまとめて断ち、ゼラスの炎が残った個体を仕留める。
リュミエラの術式が罠と魔法を封じ、シェルミアが最短の道を選ぶ。
ミテイもまた、壁や床へ灰色の魔力を伸ばし、隠れている魔物や脆くなった場所を見つけていった。
誰かの姿を使うことはない。
声を借りることもない。
自分の目で見て、自分の魔力で確かめる。
初めは報告が遅れた。
距離を間違えることもあった。
だが、階層を上るごとに、その言葉は短く正確になっていった。
『左の床。踏むと落ちる』
「範囲は?」
『六歩先から、横に三人分』
シェルミアが床へ短剣の鞘を当てる。
軽く押しただけで、石板が僅かに沈んだ。
「正解だね」
『正解』
「嬉しい?」
リズナが尋ねる。
ミテイは淡い青灰色の髪へ触れようとして、途中で手を止めた。
『少し』
「もう自分で分かるのね」
『前よりは』
ミテイの声に、大きな抑揚はない。
それでも、四人には以前との違いが分かるようになっていた。
それから、さらに日が過ぎた。
第五十階層。
第三十階層。
第二十階層。
見覚えのある場所を越えるたび、地上は確実に近づいていった。
第十階層へ入ったところで、ミテイが足を止める。
『音が多い』
リズナも耳を澄ませた。
遠くから、金属同士が触れる音が聞こえる。
誰かの話し声。
足音。
荷物を引きずる音。
魔物ではない。
上層を探索している者たちの気配だった。
「他の探索者ね」
『四人以外の人?』
「そうよ。ここまで上がれば、会うことも珍しくないわ」
『記録してもいい?』
問いかけた後、ミテイは自分で首を横へ振った。
『違う』
「何が?」
リズナが尋ねる。
『前は、見れば記録した』
『今は、勝手に取ってはいけない』
シェルミアが少し驚いたように目を細める。
「誰に教わったの?」
『四人を記録した時、嫌がっていた』
ミテイは自分の胸へ手を当てた。
『だから、しない』
リズナは一瞬、言葉を失った。
白い人影に姿を奪われた時の不快感は、今も覚えている。
声を使われたことも。
ゼラスの姿で倒れられたことも。
忘れたわけではない。
「あたしたちが嫌がったから?」
『最初は、そう』
ミテイが答える。
『今は、私も勝手に取られたくない』
リズナは静かに頷いた。
「なら、もう分かってるわ」
『分かっている?』
「少なくとも、それについてはね」
ミテイは少し考えた後、足音のする方へ灰色の魔力を伸ばすのをやめた。
五人は別の通路を選び、探索者たちと出会わないまま先へ進んだ。
第一階層へ続く階段の前で、シェルミアが立ち止まった。
「もうすぐだよ」
『地上?』
「この階段を上がって、少し進めば入口だね」
ミテイは階段を見上げた。
これまで通ってきたものと変わらない石段。
その先から、僅かに風が流れ込んでいる。
リズナの魔法ではない。
迷宮の魔力で生まれた流れでもない。
外から入ってくる、本物の風だった。
ミテイの尖った耳が僅かに動く。
『風がある』
「ええ」
リズナが笑う。
「あたしの風じゃないわよ」
『リズナが動かしていない?』
「地上の風は、あたしが何もしなくても吹くの」
『誰が動かしている?』
「それは……」
リズナが言葉に詰まる。
シェルミアが代わりに答えた。
「空気が暖められたり冷やされたりして動くんだよ」
『誰が暖める?』
「太陽だね」
『太陽』
「空にあるものよ」
リュミエラが微笑む。
『月や星と同じ?』
「同じ空にあるわ。でも、今の時間なら月や星より先に太陽を見ることになるでしょうね」
ミテイは階段の先へ目を向けた。
『見れば分かる?』
「ああ」
ゼラスが答える。
『また、それ』
「実際に見た方が早い」
ゼラスが階段を上り始める。
リズナがその隣へ続き、リュミエラとシェルミアも足を進めた。
ミテイは一度だけ背後を振り返る。
暗い迷宮。
自分が生まれた場所。
記録を集め、空白へ戻るために存在していた場所。
胸の奥には、今も深層へ引く流れが残っている。
だが、足は戻らなかった。
ミテイは四人を追って階段を上った。
入口へ近づくにつれて、光が強くなっていった。
ミテイが灰色の瞳を細める。
『明るい』
「目を閉じないで、少しずつ慣らした方がいいわ」
リュミエラが言う。
『痛い』
「無理に見なくてもいいのよ」
「最初は足元だけ見てなさい」
リズナがミテイの腕へ軽く触れた。
『うん』
石造りの通路が終わる。
その先には、大迷宮の入口を管理する建物があった。
出入りする探索者。
荷物を運ぶ者。
記録を確認する管理所の人間。
多くの声が重なり、ミテイの耳へ届く。
五人が迷宮から姿を現すと、入口付近の空気が止まった。
「シェルミアさん?」
最初に気づいた管理所の者が、驚いた声を上げる。
「戻られたんですか!」
「ただいま」
シェルミアが軽く手を上げた。
別の者がリュミエラへ気づき、慌てて姿勢を正す。
その視線がゼラスとリズナを通り、最後にミテイで止まった。
「……五人?」
ミテイがその言葉へ反応する。
『五人』
「詳しい話は、中でしましょう」
リュミエラが穏やかに告げた。
声を荒らげる必要はなかった。
それだけで、集まりかけていた者たちの動きが止まる。
「この子についても、私から説明するわ。今は騒がないでもらえるかしら」
「は、はい」
管理所の者が道を空ける。
ミテイは周囲の視線を受けながら、四人の後ろを歩いた。
見知らぬ顔。
知らない声。
初めて触れる魔力。
記録しようと思えば、できる。
だが、ミテイは何も取らなかった。
建物の出口が近づく。
扉の向こうから、強い光と風が入り込んでいた。
ゼラスが扉を開ける。
外の光が、一気に五人を包んだ。
ミテイは反射的に目を閉じる。
淡い青灰色の髪が、風に大きく揺れた。
頬へ触れる暖かさ。
肌の上を通り抜ける空気。
石の天井から落ちる光ではない。
しばらくして、ミテイはゆっくりと目を開いた。
頭上に、青が広がっていた。
壁もない。
天井もない。
どこまで見ても、空が続いている。
白い雲が流れ、その向こうから太陽の光が降り注いでいた。
ミテイは灰色の瞳を見開く。
『これが、外?』
「そうよ」
リズナが答える。
ミテイは空を見上げたまま動かなかった。
『広い』
「迷宮より?」
シェルミアが尋ねる。
『比べられない』
風がもう一度吹く。
淡い青灰色の髪が光を受け、迷宮の中にいた時よりも鮮やかな青を帯びた。
ミテイはその髪へ触れず、初めて見る空から目を離さなかった。
『壁がない』
ゼラスが隣を通り過ぎる。
「最初に聞いただろ」
『聞いた』
「見れば分かったか?」
ミテイは僅かに考える。
『聞いた時より、分からなくなった』
ゼラスが足を止める。
『どこまで続いている?』
「知らない」
『ゼラスも?』
「ああ」
ミテイは再び空を見上げた。
その答えが、なぜか嫌ではなかった。
知っている記録の中にはない。
誰かから借りた記憶でもない。
自分の目で、初めて見るものだった。
ミテイは四人と共に、迷宮の入口から一歩踏み出した。
空白だった存在が選んだ最初の行き先は、どこまでも続く青空の下だった。




