第六十七話 五人目
第九十二階層を離れてから、さらに数日が過ぎた。
帰路は決して平穏ではなかった。
上層へ近づくにつれて魔物の強さは落ちていったが、数は増えている。
崩れた通路を避け、罠を解除し、時には別の道を探した。
ミテイは最後尾を歩き続けた。
後方の警戒。
魔物の接近。
壁や床の中を流れる魔力の変化。
四人から得た記録を使いながらも、ただ真似るのではなく、自分で確かめてから伝えるようになっていた。
『右の壁に二体いる』
「距離は?」
ゼラスが尋ねる。
『二十歩。動いていない』
リズナが風を伸ばし、壁の向こうを探る。
「本当ね。眠ってるみたい」
「起こさず通れるかな?」
シェルミアが声を落とす。
ミテイは床へ灰色の魔力を流した。
細い枝のように石の隙間を進み、壁の内側へ入り込んでいく。
『通路から離れている。音を立てなければ、起きない』
「なら、そのまま進むぞ」
五人は足音を抑えて通り抜けた。
しばらく進んでも、壁の中の魔物が追ってくる気配はない。
ミテイが僅かに振り返る。
『起きていない』
「よく分かったわね」
リズナが感心したように言う。
『壁の中へ魔力を入れた』
「もう使いこなしてるじゃない」
『まだ遅い』
「最初から何でもできる方がおかしいのよ」
『リズナは、できる』
「あたしだって、風をここまで扱えるようになるのに時間がかかったわ」
『どのくらい?』
「それは……かなり長いわね」
『かなり?』
「細かく聞かなくていいの」
ゼラスが前を向いたまま口を挟む。
「教えてやればいいだろ」
「年齢を数え始めると、あんたまで巻き込まれるわよ」
「俺は気にしない」
「少しは気にしなさいよ」
ミテイが二人を交互に見る。
『年齢は、聞かれると困るもの?』
「相手によるわね」
リュミエラが微笑む。
「少なくとも、女性へ不用意に尋ねるものではないわ」
『リュミエラにも?』
「もちろんよ」
『シェルミアにも?』
「私は別に気にしないよ」
「そこで教えないから、余計にややこしくなるんですよ」
リズナが言うと、シェルミアは楽しそうに笑った。
ミテイは少し考えた後、ゼラスを見る。
『ゼラスには聞いてもいい?』
「好きにしろ」
『何歳?』
「八百を少し越えた」
『少しではない』
「そうか?」
「その感覚を基準にしないでよ」
リズナの声が通路へ響く。
壁の向こうで、低い唸り声が上がった。
五人の足が止まる。
『起きた』
「誰のせいだ」
「あたしだけのせいじゃないでしょ!」
石壁が大きく揺れた。
ゼラスが剣を抜く。
「走るぞ」
「倒さないの?」
「帰り道で余計な体力を使う必要はない」
五人は一斉に駆け出した。
背後で壁が砕け、二体の魔物が通路へ姿を現す。
リズナが振り返らずにシルフィードを抜いた。
剣へ風刃を重ね、背後へ振り抜く。
二つに分かれた風の刃が曲線を描き、魔物の足元を切り裂いた。
巨体が体勢を崩す。
その隙に五人は角を曲がり、狭い通路へ飛び込んだ。
魔物は入口へ身体を押し込もうとしたが、肩が石壁につかえて進めない。
『追ってこない』
ミテイが告げる。
「最初から静かにしてれば、追われなかったんだけどね」
シェルミアが言う。
「誰が年齢の話を始めたんですか」
「ミテイだね」
『私?』
「気にしなくていいわ。悪いのは大声を出したリズナちゃんだから」
リュミエラが穏やかにまとめた。
「リュミエラさんまで!」
ゼラスが僅かに口元を緩める。
リズナはそれを見逃さなかった。
「今、笑ったでしょ」
「気のせいだ」
「目を逸らして言っても説得力ないわよ」
ミテイは二人を見ながら、灰色の瞳を僅かに細めた。
以前なら、声の大きさと表情だけを記録していただろう。
今は、それが険悪な争いではないと分かる。
『これは、仲がいい?』
「違う」
「そうよ」
ゼラスとリズナの答えが重なった。
ミテイが首を傾げる。
『同じ答え』
「だからって仲がいいことにはならないわよ」
『難しい』
「そこは深く考えなくていい」
ゼラスが歩き出す。
リズナも不満そうな顔をしながら、その隣へ並んだ。
第七十八階層へ到達した夜。
五人は、壁と天井に損傷のない小部屋で休むことにした。
入口にはリュミエラの警戒術式。
通路にはリズナの風。
シェルミアが床や壁の罠を確認し、ゼラスは交代で見張る順番を決めた。
「最初は俺とミテイだ」
『私も見張る?』
「最後尾を任せてきただろ」
『信用している?』
「仕事を任せられる程度にはな」
『仲間と同じ?』
「まだ聞くのか」
『まだと言われているから、聞く』
ゼラスは一度だけミテイを見る。
「見張りが終わるまで起きていられたら、少し考える」
『眠くならない』
「なら問題ない」
他の三人が休み始める。
小部屋には、燃料を抑えた小さな火だけが残った。
ミテイは入口の近くへ座り、暗い通路を見つめる。
ゼラスは向かいの壁へ背を預けていた。
しばらく、何も起きなかった。
遠くで魔物の鳴き声が響く。
石の隙間を空気が抜ける。
ミテイは尖った耳を僅かに動かした。
『地上にも、夜がある?』
「ああ」
『今より暗い?』
「場所による」
『迷宮と同じ?』
「空に月と星がある」
『月と星』
「見れば分かる」
『リズナも同じことを言った』
「説明するより早いからな」
ミテイは淡い青灰色の髪へ触れた。
『地上へ行けば、分からないものが増える?』
「増えるだろうな」
『分かるものも増える?』
「ああ」
『なら、行きたい』
ゼラスは答えず、暗い通路へ視線を戻した。
その時、ミテイの灰色の瞳が揺れた。
胸の奥で、何かが脈打つ。
帰れ。
それは声ではなかった。
深層へつながる流れ。
第百階層で切ったはずの命令が、体内に残った細い痕跡を引いている。
ミテイの指が床へ触れた。
灰色の魔力が意図せず漏れ、石の隙間へ入り込む。
帰れ。
戻れ。
空白になれ。
ミテイがゆっくりと立ち上がった。
「どうした?」
ゼラスの声が届く。
『分からない』
身体が入口へ向く。
地上へ続く道ではない。
来た道。
深層へ戻る方向だった。
右足が一歩前へ出る。
ゼラスは剣へ手を伸ばしたが、まだ抜かなかった。
「止まれ」
ミテイの足が止まる。
だが、全身の魔力が深層へ引かれていた。
『止まりたい』
「なら止まれ」
『身体が、戻ろうとしている』
ミテイの左足が前へ動く。
ゼラスが立ち上がった。
その気配で、リズナたちも目を覚ます。
「ミテイ?」
リズナがすぐに立ち上がる。
ミテイは振り返れなかった。
『来ないで』
「命令されてるの?」
『分からない』
『でも、戻りたくない』
灰色の魔力が大きく揺れた。
小部屋の壁へ白い線が浮かびかける。
リュミエラが術式を広げ、外部から流れ込む魔力を遮断した。
「外からの接続はないわ。これはミテイの中に残った命令ね」
「切れる?」
リズナが尋ねる。
「無理に切れば、今のミテイまで傷つける可能性があるわ」
ミテイの身体が、さらに一歩進む。
『止めて』
借りた声ではなかった。
命令でもない。
ミテイ自身が、四人へ助けを求めていた。
リズナが前へ回り込む。
ミテイの両肩を掴み、灰色の瞳を見る。
「こっちを見て」
『見られない』
「なら、あたしの声を聞いて」
リズナは風をミテイの周囲へ巡らせた。
体内の灰色の魔力を傷つけず、深層へ向かおうとする流れだけを押し返す。
「ミテイは、どこへ行きたいの?」
『地上』
「誰と?」
『四人と』
「なら、戻る必要はないわ」
『でも、身体が――』
「身体より先に、ミテイが決めたんでしょう」
シェルミアが背後からミテイの左手を取る。
「記録じゃなく、自分で地上を見たいって言ったよね」
『言った』
「今も変わってない?」
『変わっていない』
リュミエラの隔離術式が、ミテイの周囲へ重なる。
「命令はあなたの一部に残っている。でも、命令に従うかどうかは、今のあなたが選べるわ」
『怖い』
「ええ」
リュミエラは否定しなかった。
「怖くても、選ぶことはできるわ」
ゼラスがミテイの背後へ立つ。
レイスウィザードには触れていない。
普通の剣も抜いていなかった。
「前に言ったな」
『何を?』
「止められなければ、俺たちが止める」
ミテイの身体が震える。
『斬る?』
「敵へ戻るならな」
『私は、敵に戻りたくない』
「なら戻るな」
『簡単に言う』
「ああ」
ゼラスは迷わず答えた。
「だが、一人で止めろとは言ってない」
ミテイの灰色の瞳が僅かに動いた。
初めて、正面にいるリズナを見る。
次にシェルミア。
リュミエラ。
最後に、背後のゼラスを振り返る。
四人がいる。
誰も姿を奪われていない。
誰の声も借り物ではない。
ミテイは胸へ手を当てた。
『私は、ミテイだ』
灰色の魔力を、自分の内側へ引き戻す。
深層へ向かっていた流れが抵抗する。
足が再び後ろへ引かれかけた。
リズナの風が支える。
リュミエラの術式が外への逃げ道を塞ぐ。
シェルミアが手を離さない。
ゼラスが背後に立っている。
『私は、地上へ行く』
魔力の流れが反転した。
白く浮かびかけていた線が砕け、灰色の光へ飲み込まれる。
ミテイの身体から力が抜けた。
リズナが支え、その場へ座らせる。
『止まった?』
「ええ」
リュミエラが体内を確かめる。
「命令そのものは、まだ消えていない。でも、今はあなたの魔力が抑えているわ」
『また起きる?』
「可能性はあるわね」
『その時も、止めてくれる?』
リズナが答えようとする。
その前に、ゼラスが口を開いた。
「ああ」
ミテイが彼を見る。
『信用していないのに?』
「敵へ戻らないために助けを求めた」
ゼラスはミテイを見返す。
「敵なら、黙って俺たちから離れていただろ」
『では、敵ではない?』
「ああ」
『仲間?』
しばらく沈黙が落ちた。
ミテイは答えを急かさず、ただ待っている。
ゼラスが小さく息を吐いた。
「もう五人目でいい」
ミテイの灰色の瞳が見開かれた。
『まだではない?』
「何度も言わせるな」
『五人目』
「そうよ」
リズナが笑う。
「あたしたちの五人目」
「記録も直さないといけないね」
シェルミアが記録板を取り出した。
『今、記録する?』
「大事なことだからね」
「先に休ませてあげなさい」
リュミエラが苦笑する。
ミテイは胸へ手を当てた。
深層からの流れは、まだ遠くに残っている。
それでも、その上には新しい感覚があった。
一人で耐えなくてもいい。
助けを求めても、空白には戻らない。
『これは、嬉しい』
今度は、たぶんをつけなかった。
さらに数日後。
五人の前に、第七十二階層へ続く大扉が現れた。
シェルミアが扉へ手を触れる。
公開されている探索記録の最深部。
ここから先は、地上にも知られている領域だった。
「戻ってきたね」
「ここからも長いですけどね」
リズナが答える。
「百階層から比べれば、もう地上みたいなものだよ」
「それはシェルミアさんだけです」
ゼラスが扉を押し開く。
見覚えのある石造りの通路へ、上層の乾いた空気が流れ込んだ。
ミテイが四人の後ろから、その先を見る。
『この先に、地上がある?』
「ああ」
『五人で行く?』
ゼラスは振り返らなかった。
「今さら一人で残るつもりか?」
『残らない』
ミテイは淡い青灰色の髪へ触れ、四人に続いた。
五人目として踏み出した最初の道は、迷宮のさらに奥ではなく、まだ見たことのない空の下へ続いていた。




