第六十五話 同じ道
隠し部屋を出ると、第百階層には静寂が戻っていた。
中央の白い門は光を失い、ただの石造物へ変わっている。
深層から響いていた声もない。
リズナは目を閉じ、階層全体へ風を広げた。
壁の内側。
床の下。
白い巨人が現れた亀裂の奥。
残された魔力を、一つずつ探っていく。
「……動いているものはないわ」
「こちらも同じよ」
リュミエラが展開していた術式を閉じた。
「外側の門へ伸びていた接続は切れている。中継門も、ミテイを回収しようとした装置も停止したわ」
「命令を出していた側は?」
シェルミアが尋ねる。
「残っているでしょうね」
リュミエラは光を失った門を見上げた。
「ここへ命令を届ける経路を止めただけ。根は、もっと深い場所にあるわ」
「それで十分だ」
ゼラスが答える。
「今回の目的は、外側の門への干渉を止めることだ」
「深層については、次の機会までの課題だね」
シェルミアが記録板へ文字を書き込む。
リズナが横目を向けた。
「もう次のことを考えてるんですか?」
「考えるだけなら自由だよ」
「すぐに戻ってくるつもりじゃないですよね?」
「準備には時間がかかるからね」
「来るつもりはあるんですね……」
シェルミアは否定せず、満足そうに記録板を閉じた。
その隣で、ミテイが白い門を見つめている。
色のなかった短い髪には、淡い青灰色が宿っていた。
灰色の瞳。
細く尖った魔族耳。
右腕と脇腹に残った傷から漏れていた白い光も、今はほとんど見えない。
リズナが風で体内の魔力を探る。
「薬はきちんと吸収できてる。魔力の流れも安定してるわ」
『迷宮から離れても、動ける?』
「おそらくね」
リュミエラが答えた。
「少なくとも、迷宮から魔力を受け取らなければ身体を保てない状態ではないわ」
『外でも生きられる?』
「補給する手段があれば、その可能性は高いわね」
『外』
ミテイが、確かめるように繰り返す。
『地上にある場所?』
「そうよ」
リズナが頷いた。
「空があって、街があって、人がたくさんいるわ」
『迷宮より広い?』
「比べものにならないくらい」
『壁はない?』
「建物にはあるけど、世界全体を囲む壁はないわね」
ミテイは少し考えた。
『分かりにくい』
「見れば分かるわよ」
「見ても、すぐには分からないかもしれないけどね」
シェルミアが付け加える。
リズナが彼女を見る。
「今は安心させてあげてください」
「外の世界が分かりやすいなんて、嘘はつけないよ」
ミテイは二人の会話を聞きながら、自分の髪へ触れた。
『この色も、外では変ではない?』
「変じゃないわ」
リズナはすぐに答えた。
「綺麗な色よ」
ミテイがゼラスへ顔を向ける。
『ゼラスも、そう思う?』
「俺にも聞くのか?」
『四人に聞きたい』
ゼラスは淡い青灰色の髪を見る。
「似合ってる」
『そう』
ミテイの表情はほとんど変わらなかった。
それでも、髪を摘まんだ指はしばらく離れなかった。
第百階層の入口には、砕けた石の守護者が転がっていた。
その向こうには、第九十九階層へ続く通路が伸びている。
シェルミアが境界付近の術式を確認する。
「通常の道は通れるよ」
「来る時に使った白い経路は?」
リズナが尋ねた。
「反応がない。中継門が止まったことで、まとめて機能を失ったんだと思う」
「帰りは普通に上るしかないのね」
「そうなるね」
リズナは通路の奥を見た。
地上へ戻るには、ここまで下りてきた道を上らなければならない。
魔物も罠も、全て消えたわけではなかった。
「下りる時より大変に感じるわ」
「帰るまでが探索だよ」
「それ、何度も言うつもりですよね?」
「便利な言葉だからね」
ゼラスが通路から目を離す。
「出る前に休むぞ。今なら、この階層が一番安全だ」
リュミエラも周囲へ警戒の術式を張った。
「ミテイの傷も、もう少し様子を見ておきたいわ」
五人は光を失った門から離れ、壁際へ移動した。
ゼラスが壁へ背を預ける。
リズナとリュミエラも腰を下ろし、シェルミアはすぐに記録板を開いた。
ミテイだけが立ったまま、四人を見ている。
「座らないの?」
リズナが隣を示した。
『座る必要がある?』
「休むなら、その方が楽よ」
『楽かどうか、分からない』
「試してみればいいんじゃないかな」
シェルミアが言う。
ミテイはリズナの隣へ座った。
背筋を真っ直ぐ伸ばし、両手を膝へ揃える。
しばらくしてリズナの姿勢を真似し、片脚を崩した。
次にゼラスを見て、壁へ背を預ける。
『これが休む?』
「形だけ真似しても、楽にはならないよ」
『前は、真似れば分かった』
「今は?」
『真似ても、同じにならない』
「身体も、感じ方も別だからね」
『別』
ミテイは何度か姿勢を変えた。
最後に、壁へ片方の肩だけを預ける。
『これは、嫌ではない』
「なら、今はそれでいいわ」
リズナが答えた。
シェルミアは、その様子を記録板へ書き込んでいる。
『私を記録している?』
ミテイが尋ねた。
シェルミアは筆を止める。
「嫌なら消すよ」
『回収するための記録?』
「違う」
シェルミアは記録板をミテイへ向けた。
「ミテイがここにいたことを残すための記録だよ」
ミテイは並んだ文字を見つめる。
『残せば、消えない?』
「記録そのものは、いつか失われるかもしれない。でも、残そうとしたことには意味があると思う」
『難しい』
「そうだね」
『でも、嫌ではない』
「なら残しておくよ」
ミテイは小さく頷いた。
しばらく、誰も話さなかった。
やがてミテイが、開いた通路へ目を向ける。
『四人は、地上へ戻る?』
「ああ」
ゼラスが答えた。
『その後は?』
「皇都へ戻ることになるでしょうね」
リュミエラが言う。
「外側の門で起きたことを、魔皇へ報告する必要があるわ」
『私は?』
四人の視線がミテイへ集まった。
『行く場所がない』
リズナの表情から、僅かに柔らかさが消えた。
ミテイはそれに気づき、灰色の瞳を向ける。
『一緒に行ってもいい?』
すぐに答える者はいなかった。
先ほどまでとは違う沈黙が、五人の間に落ちる。
ミテイは自分の手を見る。
『駄目?』
「簡単に、いいとは言えないわ」
リズナが答えた。
声は穏やかだった。
だが、曖昧にはしなかった。
「ミテイは、あたしたちを襲ったでしょう」
『襲った』
「あたしたちの姿を使って、声を使って、殺そうとした」
『殺そうとした』
「覚えてるのね」
『覚えている』
ミテイはリズナを見る。
『リズナの風を真似た』
次にゼラスを見る。
『ゼラスの姿を使った』
リュミエラとシェルミアにも目を向ける。
『四人を記録として集めた』
『足りないものを、四人から取ろうとした』
リズナの指が、膝の上で僅かに強く握られた。
「あの時のミテイにとって、あたしたちは何だったの?」
『必要な記録』
答えは早かった。
飾ることも、誤魔化すこともない。
『人だとは、分からなかった』
「今は?」
『人だと分かる』
「何が違うの?」
ミテイはすぐには答えなかった。
四人を一人ずつ見つめる。
『傷つけば、痛い』
『失えば、戻らないものがある』
『声も、姿も、記録するだけでは同じにならない』
リズナが問いを重ねる。
「あたしたちを傷つけたことを、悪いと思ってる?」
ミテイは胸へ手を当てた。
『悪い、が分からない』
リズナの眉が僅かに寄る。
『でも、思い出すと、ここが乱れる』
ミテイは胸元を押さえたまま続けた。
『リズナが偽物のゼラスを見た時、怖がった』
リズナの目が揺れる。
『ゼラスは怒った』
『リュミエラは、私を消すことも考えた』
『シェルミアは警戒しながら、名前をくれた』
『今は、それをもう一度したくない』
「なぜ?」
『四人がいなくなるのは、嫌だから』
ミテイ自身にも、その言葉の意味は分かっていないようだった。
ただ、借り物ではない自分の声で答えている。
シェルミアが静かに尋ねる。
「それを後悔と呼ぶのかもしれないね」
『後悔?』
「してしまったことを、しなければよかったと思う気持ちだよ」
ミテイは考える。
『戻れるなら、襲わない』
「でも、戻れない」
『分かっている』
「だから、これからどうするかが大事になる」
シェルミアは記録板を閉じた。
「名前をつけたからといって、あの時のことが消えるわけじゃない。私も、全部を信用しているわけではないよ」
『シェルミアも?』
「もちろん。私は迷宮が好きだけど、迷宮に殺されたいわけではないからね」
『私は迷宮ではない』
「今はね」
シェルミアが僅かに笑う。
「それを、これからも証明してほしいと思ってる」
リュミエラがミテイを見る。
「命令に従っていたことは、あなたの行動を理解する理由にはなるわ」
『理由』
「けれど、何も知らなかったから何をしても許される、ということにはならない」
『許されない?』
「すぐには、ね」
リュミエラの声は柔らかい。
それでも、言葉は明確だった。
「あなたが空白ではなくなったのなら、自分がしたことも持っていかなければならないわ」
ミテイは淡い青灰色の髪へ触れる。
『この色と同じ?』
「ええ」
リュミエラが頷いた。
「自分で選んだものだけでなく、選ぶ前にしてしまったことも、あなたの一部よ」
『重い』
「生きるのは、そういうものかもしれないわね」
ミテイは最後にゼラスを見た。
『ゼラスは、私を信用していない?』
「していない」
ゼラスは即答した。
リズナが僅かに目を見開く。
だが、ミテイは目を逸らさなかった。
『私は、敵?』
「今は違う」
『仲間?』
「それを決めるには早い」
『いつ決める?』
「言葉では決めない」
ゼラスが濃紫の瞳でミテイを見る。
「これから何をするかで決める」
『地上まで一緒に行けば、分かる?』
「少しはな」
『途中で、また命令されたら?』
「従うのか?」
『従いたくない』
「なら、自分で止めろ」
『止められなかったら?』
「俺たちが止める」
静かな声だった。
脅しではない。
ただ事実を告げている。
「その時に敵へ戻るなら、俺が斬る」
『分かった』
「怖くないの?」
リズナが思わず尋ねた。
ミテイはゼラスを見る。
『怖い』
その答えに、今度はゼラスが僅かに目を細める。
『でも、何も分からないまま残る方が、もっと嫌だ』
ミテイは四人を見る。
『地上を見たい』
『四人と行きたい』
『敵ではないと、証明したい』
リズナは長く息を吐いた。
まだ、全てを許したわけではない。
目の前にいる女性の姿を見れば、白い人影に追われた時のことを思い出す。
偽物のゼラスが倒れた光景も。
自分の声を使われた不快感も。
簡単に消えるものではなかった。
「あたしは、まだミテイを完全には信用できないわ」
『うん』
「また襲ってくるかもしれないと思ってる」
『うん』
「だから、見てるからね」
『監視する?』
「それもあるわ」
リズナは少しだけ口元を緩めた。
「でも、困ってたら助ける。傷ついてたら治す。それは別の話よ」
『敵でも?』
「今は敵じゃないって、ゼラスも言ったでしょう」
ミテイはリズナを見つめた。
『なら、一緒に行ってもいい?』
リズナはゼラスたちを見る。
リュミエラが頷く。
シェルミアも異論はないようだった。
ゼラスが立ち上がる。
「地上まで同行を許す」
『同行』
「仲間になれるかは、その間に自分で示せ」
ミテイも立ち上がった。
『分かった』
「簡単に分かったと言うな」
『では、まだ分からない』
「それでいい」
リズナが小さく笑った。
休息を終えた五人は、第九十九階層へ続く大扉の前へ並んだ。
先頭にはゼラス。
その隣にリズナ。
少し後ろへリュミエラとシェルミアが続く。
ミテイは最後尾へ立とうとして、足を止めた。
『私は、どこを歩けばいい?』
リズナが振り返る。
「好きな場所でいいわよ」
『先頭はゼラス』
「ああ」
『リズナはゼラスの隣』
「そうね」
『リュミエラとシェルミアは後ろ』
「役割で決めているだけよ」
リュミエラが答える。
『最後は、後ろから来るものを見る場所?』
「そうなることもあるね」
シェルミアが言った。
『なら、私が見る』
ゼラスがミテイへ目を向ける。
「できるのか?」
『後ろの記録は残っている』
「記録だけに頼るな」
『使ってはいけない?』
「違う。今の自分で見ろ」
ミテイは背後の第百階層へ顔を向けた。
灰色の瞳で見て、尖った耳で音を拾う。
体内を巡る灰色の魔力を、慎重に周囲へ広げる。
以前なら、四人の誰かの感覚を再現していただろう。
今は借りた形ではなく、自分のやり方で確かめた。
『何もいない』
「なら、そこを歩け」
『分かった』
ゼラスが大扉を押し開く。
第九十九階層の冷たい空気が流れ込んだ。
五人が歩き始める。
扉を抜ける直前、ミテイは一度だけ振り返った。
深層からの流れは、今も胸の奥に残っている。
帰れ。
戻れ。
空白になれ。
声にならない命令が、遠い場所から彼女を引いていた。
それでも、ミテイは戻らなかった。
前を歩く四人を見る。
『私は、五人目?』
ゼラスが僅かに振り返る。
「まだだ」
『いつ、五人目になる?』
「それを決めるのは、これからだ」
『分かった』
今度の言葉には、少しだけ迷いがあった。
それでもミテイは、四人と同じ方向へ歩き出した。
四人で始めた探索に、かつて敵だった一人が加わった。
まだ仲間とは呼べない。
だが五人は今、同じ道を地上へ向かっていた。




