第六十四話 戻る場所
灰色の瞳が、石室の暗闇から四人を見つめていた。
「ミテイ……」
リズナがその名を呼ぶ。
そこにいたのは、第七十四階層で得た年若い女性の姿だった。
色のない短い髪。
血色の薄い肌。
四人の記録をもとに形作られたためか、髪の間から覗く耳は、誰のものとも微妙に異なる尖った魔族耳をしている。
ただ、右腕と脇腹には深い傷が残っていた。
傷口から血は流れていない。
代わりに、白い光が弱々しく漏れている。
『また会った』
ミテイがゆっくりと立ち上がる。
以前よりも、自分の声がその体へ馴染んでいた。
「その傷、どうしたの?」
『ここへ来る途中で、魔物と戦った』
「第九十八階層にあった死骸は、やっぱりミテイが倒したのね」
『そう』
リズナが石室へ風を送り込む。
ミテイの体内では、魔力が途切れることなく循環している。
傷は深いが、すぐに体が崩れるような状態ではない。
ゼラスとリュミエラは、石室の中を見渡していた。
広さは以前と変わらない。
壁に刻まれた古い術式。
外部からの魔力を遮断するための、幾重もの隔離構造。
そして中央には、何も置かれていない石の台座が残っている。
かつてリュミエラがレイスウィザードを置き、八百年前にゼラスが見つけた場所だった。
その奥の壁には、もう一つ、複雑な古い術式の痕跡が刻まれている。
ゼラスは一瞬だけ、そこへ視線を向けた。
「まだ残っているのね」
リュミエラが静かに呟く。
「形だけだ。中身はもうない」
二人だけに通じる会話だった。
リズナがゼラスを見る。
「何の術式?」
「昔、この部屋に残されていたものだ」
「それは見れば分かるわよ」
「今はミテイが先だ」
ゼラスはそれ以上答えず、石室の奥へ視線を戻した。
リュミエラも説明を加えなかった。
ただ、古い術式の痕跡と少年の姿をしたゼラスを見比べ、僅かに目を細める。
シェルミアが中央の台座へ近づいた。
「ここが、二人の言っていた隠し部屋?」
「ああ」
ゼラスが答える。
「でも、奥の壁は違うわ」
リュミエラが石室の最深部を見る。
黒い石壁の中央に、白い円盤が埋め込まれていた。
人が両腕を広げたほどの大きさがあり、表面には無数の細い線が巡っている。
千年前には存在しなかったものだ。
ゼラスが訪れた時にもなかった。
「ミテイは、どうやってここへ入ったの?」
シェルミアが尋ねる。
『第九十八階層で、呼ばれた』
「誰に?」
『分からない』
ミテイが白い円盤を見る。
『戻る場所があると、声が言った』
「戻る場所……」
リズナが顔をしかめる。
『ここへ来れば、自分が何か分かると思った』
「分かったのか?」
ゼラスが尋ねる。
ミテイは僅かに首を横へ振った。
『まだ、触れていない』
白い円盤の前には、細い溝が一本だけ伸びている。
ミテイの足元まで続く白い光によって、円盤の一部は既に起動していた。
リュミエラが術式を伸ばそうとする。
その直前、石室の入口が音を立てて閉じた。
「閉じ込められた?」
リズナが振り返る。
白い線が床を走った。
四人には向かわない。
全ての光が、ミテイの足元へ集まっていく。
『記録の帰還を確認』
石室の中へ、先ほどまで百階層から聞こえていたものとは異なる声が響いた。
抑揚はない。
だが、外側の門の声よりもさらに古く、擦り切れている。
『収集した記録を回収』
白い線がミテイの両脚へ絡みついた。
『空白状態への復元を開始』
「復元?」
リズナがシルフィードを抜く。
「ミテイを何に戻すつもり?」
ミテイの体が白く光った。
灰色の瞳が大きく開く。
その中へ、幾つもの顔が浮かび上がった。
ゼラス。
リズナ。
リュミエラ。
シェルミア。
第七十三階層の壁に残されていた探索者たち。
外側の門で聞いた声。
迷宮の中で触れた魔物の動き。
これまでミテイが集めた全てが、白い円盤へ引き出されようとしている。
『私は……』
ミテイの声が揺れる。
『記録を集めるための、空白だった』
白い線が腕へ伸びる。
傷口から漏れていた光が円盤へ吸い込まれ、その中へ見知らぬ光景が映った。
暗い通路。
誰もいない石室。
壁を伝って運ばれる、無数の声と姿。
そして、白い形を持たない何かが、それらを受け取りながら迷宮を進んでいく。
『集めた記録を運ぶ』
『足りない記録を補う』
『ここへ戻し、また空白になる』
ミテイが自分の胸へ手を当てる。
『それを繰り返すものだった』
「だった?」
シェルミアが白い円盤の線を追いながら尋ねる。
『今は違う』
ミテイの灰色の瞳から、ゼラスたちの顔が消える。
再び、ミテイ自身の目へ戻った。
『体を得た』
『魔力が、自分の中を巡っている』
『名前を得た』
白い線がミテイの首元へ伸びる。
声が僅かに乱れた。
『戻れば、それも消える』
『空白へ戻る』
「嫌なの?」
リズナが尋ねる。
ミテイはすぐには答えなかった。
円盤へ引かれ、右足が一歩前へ動く。
灰色の瞳が白い光に覆われかける。
『……嫌だ』
初めて、はっきりと拒んだ。
『私は、ミテイだ』
白い円盤が強く輝いた。
『個体名は回収対象に不要』
「どこかで聞いたようなことを言うな」
ゼラスがレイスウィザードへ手をかける。
『収集記録と個体情報を分離』
ミテイの輪郭が揺らいだ。
肌の一部が透け、その内側から幾つもの顔が浮かび上がる。
集めた記録だけではない。
ミテイ自身の姿まで、円盤へ吸い込まれ始めていた。
「ゼラス、待って」
リュミエラが制止する。
「この円盤だけを壊せば、引き出されている記録ごと消える可能性があるわ」
「なら、先に接続を切る」
リズナが白い線へ風刃を放つ。
床を這っていた光が切断された。
だが、円盤から新たな線が伸び、ミテイの胸へ直接つながる。
「床だけじゃない!」
「この部屋の壁全体が回収術式になっているね」
シェルミアが石室を見回す。
白い光は、新しく埋め込まれた円盤だけから流れているわけではなかった。
古い壁の隔離術式へ入り込み、その構造を逆向きに利用している。
本来は外部の魔力を遮断するための部屋。
今はその閉鎖性によって、ミテイを逃がさず回収する器へ変えられていた。
「リュミエラ、この部屋の術式は動かせる?」
シェルミアが尋ねる。
「ええ。全てではないけれど、外部との接続を断つことはできるわ」
リュミエラが中央の台座へ手を触れる。
紫色の術式が石室全体へ広がった。
千年前に見つけた古い隔離術式。
当時と同じ位置へ魔力を通し、一つずつ起動させていく。
黒い壁に紫色の線が浮かび上がった。
『隔離機能の起動を確認』
白い円盤の光が揺れる。
『深層との接続を維持』
「させないわ」
リュミエラが指先を閉じた。
石室を包む術式が完成する。
外側から流れ込んでいた白い魔力が、入口の手前で切断された。
白い円盤の光が一気に弱まる。
ミテイを引いていた力も緩んだ。
「今よ、リズナ!」
「はい!」
リズナがシルフィードを振り上げる。
円盤とミテイをつなぐ白い線。
その全ての流れを風で捉える。
一本ではない。
細い線が幾重にも重なり、体の内側へ入り込んでいる。
力任せにまとめて切れば、ミテイ自身の魔力まで傷つける。
リズナは風晶石へ魔力を集中させた。
ミテイの中を巡る灰色の魔力。
外から入り込んでいる白い流れ。
二つの境目を探る。
「動かないで」
『分かった』
「痛かったら言って」
『痛い』
「まだ何もしてないわよ!」
『今も痛い』
「それは先に言って!」
リズナが一歩踏み込む。
シルフィードを横へ薙いだ。
目に見える刃は、ミテイへ触れない。
剣から放たれた細い風だけが体の周囲を巡り、白い接続を一本ずつ切り裂いていく。
肩。
腕。
胸。
腹。
白い線が切れるたび、ミテイの輪郭がはっきりと戻る。
だが、最後の一本だけが胸の奥深くへ入り込んでいた。
「これ、内側までつながってる」
「ミテイ自身が切らなければならないね」
シェルミアが円盤の構造を読み取る。
「最初から持っていた記録と、今のミテイをつないでいる部分だよ。外から切れば、どちらも傷つく」
ミテイが自分の胸を見る。
その内側に、白い形を持たなかった頃の記録があった。
壁を伝って移動した感覚。
他人の声しか持たなかった時間。
ゼラスたちの姿を借り、言葉を覚え、戦い方を知った記憶。
それらはミテイの始まりだった。
同時に、空白へ戻すための接続でもある。
『切れば、集めたものを失う?』
「全部ではないと思う」
シェルミアが答える。
「もう自分の中へ取り込んだものと、ただ運んでいた記録は分かれ始めてる。けれど、どこまで残るかは分からない」
『ゼラスたちの声も?』
「借りたままの声は、消えるかもしれないね」
ミテイはゼラスを見る。
『切るべき?』
「俺に聞くな」
『分からない』
「なら、自分で決めろ」
ゼラスは白い円盤へレイスウィザードを向けたまま答える。
「空白に戻りたいなら、そのままでいい。戻りたくないなら切れ」
『私は、戻りたくない』
「なら答えは出てる」
ミテイが胸へ手を当てる。
白い線が、掌の奥で脈打っている。
これまでなら、誰かの動きを真似ていただろう。
ゼラスの炎。
リズナの風。
リュミエラの術式。
シェルミアの短剣。
だが、今はどれも使わなかった。
自分の中を巡る灰色の魔力だけを、掌へ集める。
『私は、ミテイだ』
指を胸の奥へ沈めるように、魔力を掴む。
『空白ではない』
白い接続を引きずり出した。
細い糸の先に、無数の顔と声が浮かんでいる。
ミテイは一瞬だけそれらを見つめた。
そして、自分の手で握り潰した。
白い糸が砕けた。
円盤へ流れ込んでいた記録が途切れる。
ミテイの体から、借りていた幾つもの声が抜け落ちていった。
石室の中へ短い言葉が重なる。
ゼラスの声。
リズナの声。
リュミエラの声。
シェルミアの声。
過去の探索者たちの声。
それらは光の粒となって漂い、やがて何も残さず消えた。
ミテイが僅かによろめく。
リズナがすぐに腕を支えた。
「大丈夫?」
『……分からない』
「声は?」
ミテイは一度、口を開く。
『これは、私の声だ』
「うん」
リズナが小さく頷く。
「ちゃんとミテイの声よ」
白い円盤が激しく明滅した。
『記録の回収に失敗』
『空白状態への復元に失敗』
『独立個体の発生を確認』
「随分遅い確認だね」
シェルミアが言う。
『独立個体を異常記録として処理』
円盤の表面に、白い亀裂が走った。
内部へ残っていた魔力が膨れ上がる。
「壊れるわ!」
リュミエラが障壁を展開した。
だが、ゼラスは既に円盤の前へ立っていた。
「記録は切れたな?」
シェルミアが素早く構造を確認する。
「うん。もうミテイとはつながってない!」
「なら問題ない」
レイスウィザードを一閃する。
黒い刃が白い円盤の中央を通り抜けた。
圧縮された炎が切断面へ流れ込む。
円盤の光が赤く染まった。
「ファイアボール」
内部で火球が炸裂する。
白い円盤が細かな破片となって吹き飛んだ。
リュミエラの障壁が破片を受け止める。
床と壁を巡っていた白い線も、同時に全て消えた。
石室に静寂が戻った。
ミテイはリズナに支えられながら、自分の両手を見ている。
五本の指。
掌の中を巡る、自分だけの灰色の魔力。
借りていた姿ではない。
空白でもない。
「何を覚えてる?」
シェルミアが穏やかに尋ねた。
ミテイはしばらく考える。
『ゼラスを知っている』
ゼラスを見る。
『リズナを知っている』
次に、腕を支えているリズナを見る。
『リュミエラと、シェルミアも知っている』
「名前は?」
『ミテイ』
「よかった」
シェルミアが笑う。
『シェルミアがつけた』
「正確には、勝手に名前だと思われただけだけどね」
『私が選んだ』
「なら、もう未定じゃないですね」
リズナが言う。
『ミテイだ』
「そうだったわね」
リュミエラはミテイの傷へ視線を落とした。
白い光は弱まっているが、傷口はまだ閉じていない。
「魔力回復薬を試してみましょうか」
腰の収納から、小さな瓶を取り出す。
ミテイが透明な液体を見つめた。
『飲むもの?』
「ええ。ただ、あなたの身体へどう作用するか分からないから、最初は少しだけね」
『毒ではない?』
「毒を飲ませる時は、わざわざ説明しない」
ゼラスが言う。
リズナが彼を見る。
「安心させる気あるの?」
「毒ではないと説明しただろ」
「言い方の問題よ」
リュミエラは小さな器へ僅かに回復薬を注ぎ、ミテイへ渡した。
ミテイは液体を見つめた後、慎重に口へ含む。
しばらく何も起こらない。
シェルミアが顔を覗き込んだ。
「どう?」
『苦い』
「そこは普通なんだね」
やがて、ミテイの胸元から灰色の魔力が広がった。
弱っていた流れが全身を巡り、右腕と脇腹の傷へ集まっていく。
傷口から漏れていた白い光が薄れ、開いていた部分がゆっくりと閉じ始めた。
「吸収できてる」
リズナが風で魔力の動きを確かめる。
「迷宮からじゃなくても、魔力を補えるみたい」
『これが、回復?』
「そうよ」
リュミエラが頷く。
「普通の魔族より効率は低いけれど、きちんと取り込めているわ」
ミテイが自分の手を見つめる。
その時、色のなかった前髪へ、淡い青が滲んだ。
根元から毛先へ。
薄い青灰色が、短い髪全体へ静かに広がっていく。
リズナが目を瞬く。
「髪の色が……」
ミテイは一房を摘まみ、灰色の瞳で見つめた。
『青い』
「あなた自身の魔力が安定して、身体にも色が現れたのかもしれないわね」
リュミエラが答える。
ミテイはレイスウィザードの黒い刀身へ映る自分の姿を見た。
淡い青の髪。
灰色の瞳。
細く尖った魔族耳。
四人の記録から形作られたはずなのに、その姿は誰とも同じではなかった。
『これは、誰の色?』
「誰のものでもないわ」
リズナが答える。
「ミテイの色よ」
ミテイはもう一度、淡い青色になった髪へ触れた。
『私の色』
確かめるように、静かに繰り返した。
リュミエラは壊れた円盤の跡へ術式を伸ばす。
白い魔力は残っていない。
深層との接続も完全に途切れていた。
「この部屋を使った回収機能も止まったわ。同じ方法でミテイを空白へ戻すことは、もうできないでしょうね」
「外側の門への干渉は?」
ゼラスが尋ねる。
「百階層の中継門も、防衛機構も、今の回収装置も失われた。こちら側からつながる経路は全て止まっているわ」
「なら、目的は果たしたか」
「今できる範囲ではね」
シェルミアが壊れた円盤の破片を一つ拾う。
表面へ残った文字を読み取ろうとしたが、触れた途端に白い砂となって崩れた。
「命令元が深層にあることは分かった。でも、ここから先へ下りる道は見つかっていない」
「あっても、今は行かない」
ゼラスが言う。
「ええ」
リュミエラも頷く。
「外側の門との接続を止めることが、今回の目的だもの。準備もなく深層へ進むべきではないわ」
シェルミアは少しだけ残念そうに石室の壁を見る。
「分かってるよ」
「本当に?」
リズナが尋ねる。
「分かってる。少ししか残念じゃないよ」
「少しなら残念なんですね」
ミテイが、壊れた円盤のあった場所へ近づく。
『深層は、まだ私を呼んでいる』
四人の視線が集まった。
「聞こえるの?」
リズナが尋ねる。
『声ではない』
ミテイは自分の胸へ手を当てる。
『帰れという流れが、まだ残っている』
「従うつもりか?」
ゼラスが問う。
ミテイは首を横へ振った。
『戻らない』
「なら、無視しろ」
『ゼラスは簡単に言う』
「簡単だからな」
『私には難しい』
「そのうち慣れる」
ミテイは少しだけ考えた後、灰色の瞳を細めた。
表情と呼べるほど明確ではない。
それでも、以前より人らしい変化だった。
『そうする』
石室の奥で、古い術式が淡く光った。
白いものではない。
千年前からこの部屋を守っていた、隔離術式の光。
閉じていた入口が、再びゆっくりと開き始める。
その向こうには、沈黙した第百階層が見えていた。
リズナはミテイから手を離す。
一人で立てることを確かめてから尋ねた。
「これからどうするの?」
ミテイは開いた扉の先を見る。
『行く場所がない』
「だったら、地上までは一緒に来ればいいんじゃない?」
リズナが答える。
ミテイが彼女へ顔を向けた。
『一緒に行ってもいい?』
「襲わないならな」
ゼラスが言う。
『もう襲わない』
「なら来い」
『分かった』
シェルミアが僅かに笑う。
「行き先も決まったね」
『地上』
「その先は?」
ミテイは淡い青色の髪へ触れた。
『まだ決めていない』
「また未定だね」
ミテイはシェルミアへ顔を向ける。
『名前は決まっている』
「そうだった」
五人は、隠し部屋を出た。
背後で石扉が閉じていく。
かつて魔剣が眠り、古い秘術が残され、空白を回収する場所として利用された部屋は、再び百階層の壁の中へ隠された。
外側の門への干渉は止まった。
だが、ミテイの奥に残る呼び声だけは、今も迷宮のさらに深い場所へつながっていた。




