第五話 ガリオールの空
翌朝。
黒森監視砦の中庭には、薄い朝靄が残っていた。
夜の間に冷えた石畳の上を、兵士たちが慌ただしく行き交っている。
中庭の奥には、一隻の飛空艇が停泊していた。
大人数を運ぶための大型船ではない。
黒い船体に銀色の骨組みが走る、軍用の小型飛空艇だった。
船の両脇には細長い翼が伸び、その下に幾つもの魔導石が埋め込まれている。
リズナは船体を見上げながら、目を細めた。
「これで魔皇城まで行くの?」
「ああ。」
ゼラスは眠そうな様子もなく、飛空艇を見ている。
「乗ったことは?」
「飛空艇ならあります。
でも、軍のものは初めてです」
背後から近づいてきたカレナに、リズナは敬語で答えた。
「民間船より速度は出ますが、揺れも強くなります。
体調に異変があれば、すぐに乗員へ伝えてください」
「分かりました」
カレナは頷くと、ゼラスへ一枚の書類を差し出した。
「魔皇城第三発着場への入城許可証です。
第一席から、到着後は直接迎えを出すと連絡がありました」
「自分で来るつもりか」
「そこまでは伺っておりません」
ゼラスは書類を受け取り、収納魔法の中へしまった。
カレナは一瞬だけ眉を動かしたものの、何も言わなかった。
「森の遺構については、昨夜の命令どおり監視を継続します。
術式には触れさせません」
「頼む」
「黒い欠片も、封魔容器への移し替えを終えました。
護送部隊の準備が整い次第、本城へ送ります」
「ああ。」
カレナの視線がリズナへ移る。
「リズナ殿。
帰還の方法が早く見つかることを願っています」
「ありがとうございます。
負傷した方のことも、よろしくお願いします」
「お任せください」
カレナは静かに一礼した。
昨日、初めて会った時には、軍の指揮官という肩書きに身構えていた。
だが、負傷者への対応や、部下へ指示を出す姿を見ていれば、信用できない人物ではないことは分かる。
それでも、ここが見知らぬ軍の拠点である事実は変わらない。
リズナは砦の中庭を見渡した。
魔皇軍。
魔皇と呼ばれる統治者の直轄軍。
自分はこれから、その軍の中枢へ向かう。
昨日より事情は分かってきたはずなのに、胸の奥に残る緊張はむしろ強くなっていた。
「そんなに警戒しなくても、いきなり牢屋には入れられない」
隣に立つゼラスが言った。
「いきなりって付けないでくれる?」
「物事に絶対はない」
「安心させる気ある?」
「多少は」
「多少なんだ……」
ゼラスは僅かに笑い、先に飛空艇へ乗り込んだ。
リズナは小さく息を吐く。
不安が消えたわけではない。
だが、ゼラスが平然としているのを見ると、必要以上に恐れるのも馬鹿らしく思えてくる。
「では、お気をつけて」
カレナと兵士たちに見送られ、リズナも飛空艇へ乗り込んだ。
船内は、外から見た印象よりも狭かった。
左右の壁に長椅子が固定され、中央には荷物を留めるための金具が並んでいる。
前方には操縦席があり、二人の魔導操縦士が出発の準備を進めていた。
リズナが窓際へ座ると、向かい側にゼラスが腰を下ろした。
扉が閉まり、船内に低い振動が広がる。
船体の下に埋め込まれた魔導石が、淡い青色の光を放ち始めた。
「離陸します」
操縦士の声が響く。
次の瞬間、飛空艇がゆっくりと地面を離れた。
石造りの砦が、窓の外で徐々に小さくなっていく。
外壁。
見張り塔。
兵士たち。
そのすべてが遠ざかり、やがて砦全体を一度に見渡せる高さまで上昇した。
リズナは窓へ顔を近づけた。
眼下には、黒風の森が広がっている。
地上から見ていた時には果てのない森に思えたが、上空から見ても、その印象は変わらなかった。
黒い木々が大地を埋め尽くし、遠くの山裾まで続いている。
朝日を受けても、森の内側だけは暗いままだ。
その一角に、昨日まで自分たちがいた場所がある。
転移した地点。
負傷した斥候を見つけた場所。
黒い欠片に侵された魔物たち。
そして、森の西側に残された古い転移遺構。
上空から見ても、どこにあるのかは分からなかった。
「風の流れは?」
ゼラスが尋ねる。
リズナは目を閉じ、船外の風へ意識を伸ばした。
飛空艇の周囲には、船体を安定させるための魔力が張り巡らされている。
その外側を流れる風を拾うには、地上にいる時よりも細かな制御が必要だった。
「上空まで変な流れが上がってきています。
でも、昨日より薄いです」
「方向は?」
「やっぱり西。
森の奥へ戻っていくような感じ」
ゼラスは窓の外を見た。
「遺構が止まったわけじゃなさそうだな」
「そうみたい」
飛空艇は速度を上げ、黒風の森の上空を進んでいく。
森を抜けるまで、かなりの時間がかかった。
やがて眼下の木々が途切れ、乾いた大地が姿を現す。
そこには、緑の平原だけではなく、焼けた土や崩れた石壁が点在していた。
古い砦の跡。
埋められた塹壕。
途中で途切れた街道。
遥か昔の傷跡が、今も大地に残っている。
リズナは窓の外から目を離せなかった。
「ここも戦場だったの?」
「ああ。」
ゼラスは平然と答えた。
「黒風の森だけじゃない。
この辺りは何度も国境が動いてる」
「何度も……」
リズナの故郷であるアスタリアにも争いはある。
だが、眼下に広がる傷跡は、リズナが知る戦争よりも遥かに大きかった。
長い時間をかけて、何度も軍が通り、街や砦が作られては壊されてきたのだろう。
「ガリオールでは、ずっと戦争をしてるの?」
「ずっとではない」
ゼラスは僅かに考えてから続けた。
「休んでる時間が短いだけだ」
「それ、ほとんどずっとじゃない?」
「否定はしない」
飛空艇はさらに東へ進んだ。
地上には次第に街道が増え、荷車の列や、小さな集落が見えるようになる。
やがて、幾重もの防壁に囲まれた大きな都市が見えてきた。
都市の外には倉庫が並び、幾つもの飛空艇が発着を繰り返している。
「大きな街……」
「南西方面の補給都市だ」
ゼラスが答える。
「魔皇領へ送る物資の多くが、あそこを通る」
「軍のための街なの?」
「軍だけじゃない。
商人も職人もいる。
ただ、戦争が始まれば真っ先に忙しくなる場所だ」
都市の周囲には畑が広がっている。
荷車が街道を行き交い、市壁の内側からは幾筋もの煙が上がっていた。
黒風の森を出て、初めて目にした大きな街だった。
遠く離れた場所から見ているだけでも、そこに多くの人が暮らしていることが分かる。
同じ魔族が暮らす大陸。
言葉も通じる。
町があり、畑があり、商人が物を運んでいる。
それでも、リズナにとっては全く知らない世界だった。
「不思議ね」
「何が?」
「何もかも知らない場所なのに、暮らしてる人たちは私たちとそんなに変わらない」
「どこへ行っても、腹が減れば飯を食うし、眠くなれば寝る」
「急に雑なまとめ方しないで」
「大体合ってる」
「大体で世界を語らないでよ」
リズナは呆れながらも、少しだけ笑った。
見知らぬ大陸へ飛ばされたという事実は変わらない。
だが、知らないものばかりだと怯えているより、実際に見て確かめる方がいい。
窓の外を流れる景色を見ながら、リズナはそう思った。
補給都市を越えてから、景色は再び大きく変わった。
広い街道が何本も東へ伸び、各地から一つの方向へ集まっている。
地上を走る馬車も、空を行く飛空艇も、同じ方角を目指していた。
「もうすぐ着く」
ゼラスが言った。
リズナは窓の外へ目を向ける。
最初に見えたのは、山だと思った。
黒い巨大な影が、地平線の上へ浮かんでいる。
だが、飛空艇が近づくにつれて、その輪郭が人工物であることが分かってきた。
高くそびえる城壁。
幾本もの尖塔。
空へ伸びる巨大な中央塔。
黒銀の外壁が日の光を反射し、遠くからでも鈍い輝きを放っている。
城の周囲には大きな都市が広がっていた。
幾重もの防壁が都市全体を囲み、その内側には建物が隙間なく並んでいる。
数え切れないほどの飛空艇が、城の周辺を行き交っていた。
「あれが……魔皇城?」
「ああ。
ヴェルグラントだ」
リズナは言葉を失った。
大きい。
高い。
黒い。
それに、妙に光っている。
軍事拠点という言葉から、黒森監視砦をさらに大きくした程度のものを想像していた。
だが、目の前にあるのは砦などではない。
都市そのものを従える、巨大な城だった。
「大きすぎない?」
「最初に来た奴は大体そう言う」
「ゼラスは思わなかったの?」
「思った」
「思ったんだ」
「ああ。
無駄にでかいと思った」
「本人たちの前で言わない方がいいと思う」
「何度も言ってる」
リズナは思わずゼラスを見る。
「それで怒られなかったの?」
「怒られた」
「でしょうね」
飛空艇が高度を下げ始めた。
魔皇城の外壁が、急速に近づいてくる。
城壁の上には武装した兵士が並び、飛空艇の出入りを監視していた。
船体へ確認用の魔力が照射される。
操縦士が許可証を提示すると、正面に張られていた薄い結界が開いた。
飛空艇は城壁を越え、魔皇城の敷地内へ入る。
内部には複数の発着場があり、大型の軍用船や、伝令用の小型艇が整然と並んでいた。
その中の一つに、第三発着場を示す表示が見える。
「着陸します」
操縦士の声と共に、船体がゆっくりと下降した。
僅かな振動を残し、飛空艇が石造りの発着場へ接地する。
扉が開く。
外から冷たい風が入り込み、リズナの赤い髪を揺らした。
ゼラスが先に降りる。
リズナもその後へ続いた。
発着場には、黒と金の軍装をまとった兵士たちが整列していた。
その中央に、一人の女性が立っている。
薄紫色の髪を横で束ね、黒と金を基調とした軍装を身につけている。
通信映像で見た時よりも、立ち姿には遥かに強い存在感があった。
紫の瞳が、飛空艇から降りたゼラスを捉える。
リュミエラはしばらく何も言わなかった。
ゼラスも立ち止まり、彼女を見ている。
二百年という時間が、二人の間を通り過ぎる。
やがて、リュミエラが小さく息を吐いた。
「これで、ようやく再会ね」
「昨日も顔は見ただろ」
「だから、あれは通信だと言ったでしょう?」
リュミエラは僅かに眉を寄せた。
「二百年ぶりに直接会った相手へ、もう少し何かないの?」
ゼラスは少しだけ考えた。
「元気そうだな」
「今考えたわね?」
「気のせいだ」
リュミエラは呆れたように息を吐いた後、表情を緩めた。
「相変わらずね」
「ああ。」
短い返事だった。
だが、通信越しに話していた時とは、二人の間に流れる空気が違っていた。
リズナには詳しい事情までは分からない。
それでも、二人がただの知り合いではないことだけは伝わってくる。
リュミエラの視線が、リズナへ向いた。
「ようこそ、リズナちゃん。
長旅、お疲れさま」
「ありがとうございます。
昨日は、帰る方法を調べていただけると言ってくださって……」
「その話は中でしましょう。
ここでは落ち着かないもの」
リュミエラは柔らかく答えた。
その背後では、整列した兵士たちが一言も発さずに待機している。
リズナは改めて、彼女が魔皇軍第一席であることを意識した。
通信越しでは親しみやすく見えた。
今も声は柔らかい。
だが、周囲の兵士たちが向ける緊張した視線や、彼女の一言を待つ姿勢は、カレナに対するものよりも遥かに強い。
この人が、自分の今後に大きく関わる立場にいる。
そう考えると、自然と身体に力が入った。
リュミエラはそれに気づいたのか、少しだけ首を傾げた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。
あなたを捕らえるために呼んだわけではないから」
「顔に出ていましたか?」
「少しだけね」
リズナは気まずさを誤魔化すように、ゼラスを見た。
ゼラスは何事もなかったように立っている。
「昨日、同じことを言われました。
言い方はもっと不安になるものでしたけど」
リュミエラの目が細くなる。
「ゼラス?」
「事実を言っただけだ」
「この子を余計に不安にさせてどうするの」
「最後には安心させた」
「最後まで不安にさせないのが普通でしょう?」
ゼラスは視線を逸らした。
リュミエラは小さく息を吐き、リズナへ向き直る。
「この人の言い方は気にしなくていいわ。
少なくとも、魔皇軍があなたを敵として扱うことはないから」
「……分かりました」
その言葉で、リズナの肩から僅かに力が抜けた。
リュミエラは満足そうに頷く。
「まずは部屋を用意させるわ。
その後で、黒風の森とアスタリアの遺跡について、改めて話を聞かせて」
「禁書庫へ行くんじゃなかったのか?」
ゼラスが尋ねる。
「行くわよ。
でも、その前に情報を整理するの」
リュミエラの表情から、少しだけ柔らかさが消えた。
「昨日の報告を確認した限り、単純な大陸間転移では済まない可能性があるわ」
「何か分かったのか?」
「ここで話す内容ではないわね」
リュミエラは魔皇城の内部へ続く扉へ目を向けた。
「禁書庫に入れば、もう少し詳しく説明できる。
まずは中へ入りましょう」
黒と金の軍装を翻し、リュミエラが歩き出す。
兵士たちが一斉に道を開けた。
ゼラスは慣れた様子で、その後へ続く。
リズナも一度だけ魔皇城を見上げてから、二人を追った。
黒銀の城壁。
空を塞ぐほど高い尖塔。
幾重にも重なった魔力の結界。
知らない大陸の、知らない城。
その奥には、アスタリアへ帰る手がかりが眠っているかもしれない。
だが同時に、黒風の森で見たものが、ただの転移事故ではなかったことも明らかになろうとしている。
巨大な扉が、低い音を立てて開いた。
魔皇城ヴェルグラント。
その内部へ足を踏み入れた瞬間、リズナの周囲を流れる風が僅かに揺れた。
外から吹き込んだ風ではない。
城の奥から、何かがこちらを確かめるように流れてきた。
リズナは足を止めかけた。
「どうした?」
ゼラスが振り返る。
リズナは城の奥へ目を向けた。
だが、先ほどの感覚はすでに消えている。
「……何でもない。
少し、変な風を感じただけ」
ゼラスは城の奥を見た。
リュミエラも足を止め、僅かに目を細める。
「詳しく聞くのは、中に入ってからにしましょう」
その声は、先ほどまでより低かった。
リュミエラは再び歩き出す。
リズナも腰の風晶石へ触れながら、その後を追った。
重い扉が、三人の背後で静かに閉じた。




