第四話 黒森監視砦
重い門が開ききるよりも早く、砦の中から数人の兵士が駆け出してきた。
彼らの視線は、リズナの風に支えられた担架へ向けられている。
「負傷者だ」
ゼラスが短く告げた。
「黒風の森の斥候らしい。
体内に異物が入り込んでいたが、侵食は止めてある」
兵士たちは担架に横たわる男の顔を確認すると、緊張した面持ちで駆け寄った。
「生存者だ! 医務班を呼べ!」
「担架をこちらへ!」
リズナは風を緩め、兵士たちが受け取りやすい高さまで担架を下ろした。
「右脚と脇腹を負傷しています。
出血は止まっていますが、まだ無理に動かさない方がいいです」
見知らぬ女の言葉に、兵士たちが一瞬だけ動きを止めた。
警戒の混じった視線が、リズナへ集まる。
無理もない。
見慣れない装備を身につけた魔族が、森からゼラスと共に現れたのだ。
「彼女は敵じゃない」
ゼラスの一言で、兵士たちの警戒がわずかに緩んだ。
「治療にも協力してもらった。
詳しい話は中でする」
「承知しました」
兵士たちは負傷者を引き取り、砦の奥へ運んでいった。
その様子を見届けたところで、門の内側から一人の女性が歩み出てきた。
黒い軍装を身にまとった魔族だった。
長い髪は邪魔にならないよう後ろで束ねられ、腰には細身の剣が下がっている。
周囲の兵士たちが彼女の姿を認め、すぐに姿勢を正した。
「ゼラス殿」
女性はゼラスの前で足を止めた。
「ご帰還をお待ちしていました」
「カレナ」
ゼラスは彼女の名を呼び、砦の奥へ運ばれていく負傷者へ目を向けた。
「一人は救助できた。
だが、他の斥候は確認できていない」
「……そうですか」
カレナの表情に苦いものが浮かんだが、すぐに指揮官の顔へ戻った。
「負傷者については、医務班に任せます。
ゼラス殿には、森で確認した異変について詳しくお聞きしたいのですが」
「ああ。」
カレナの視線がリズナへ移る。
「そちらの方は?」
「リズナです」
姓は告げず、リズナは簡潔に名乗った。
「遺跡の転移罠を踏んで、気づいたら黒風の森にいました。
森の中でゼラスと会って、ここまで一緒に来ました」
「転移罠……」
カレナの表情が変わった。
「私はカレナ=フォルツ。
この黒森監視砦の臨時指揮官を務めています」
「臨時指揮官ですか?」
「現在、黒風の森で発生している異常への対応を任されています」
カレナはリズナへ軽く頭を下げると、すぐにゼラスへ向き直った。
「魔皇軍第一席から届いた書面には、古い転移術式の再起動を調査すると記されていました。
彼女の転移も、それと関係しているのでしょうか」
「魔皇軍……?」
聞き慣れない名に、リズナは思わず聞き返した。
カレナが再びリズナを見る。
「魔皇陛下の直轄軍です。
この砦も、魔皇軍の管轄下にあります」
魔皇と呼ばれる統治者の直轄軍。
その言葉を聞いた途端、砦へ入ってから感じていた違和感が、はっきりとした形を持った。
統一された軍装。
命令一つで動く兵士たち。
門に掲げられた、見覚えのない紋章。
ここは単なる森の監視所ではない。
正式な軍事拠点なのだ。
リズナは無意識に背筋を伸ばした。
自分は、この土地で身元を証明できるものを何一つ持っていない。
どこから来たのかさえ、今のところ説明できないまま、見知らぬ軍の砦へ足を踏み入れている。
疑われてもおかしくはない。
場合によっては、事情が分かるまで自由に外へ出られなくなる可能性もある。
腰の風晶石へ手を伸ばしかけ、リズナは途中で止めた。
周囲の兵士たちに、今のところ敵意は感じられない。
カレナの態度も、こちらを威圧しようとしているわけではなさそうだった。
それでも、警戒を解くには早い。
「そんなに固くならなくていい」
隣からゼラスの声がした。
「今のところ、お前は保護された転移者だ。
捕虜でも侵入者でもない」
「今のところって付ける必要あった?」
リズナは小声で返した。
「断言できるほど、事情が分かってないからな」
「そこは安心させるところでしょ」
ゼラスは僅かに口元を緩めた。
「大丈夫だ。
少なくとも、俺がいる間は妙な扱いはさせない」
軽い口調だった。
だが、その言葉に迷いはなかった。
リズナはゼラスの横顔を見た後、強張っていた肩から少しだけ力を抜いた。
カレナは二人のやり取りを待ってから、改めてゼラスへ向き直った。
「彼女の転移も、古い術式の再起動と関係しているのでしょうか」
「まだ分からない」
ゼラスは即答しなかった。
「だが、無関係とは考えにくい。
森で見つかった異物も含めて報告する」
「では、作戦室へ。
通信設備の準備も整えます」
カレナに案内され、二人は砦の中へ入った。
石造りの壁には、長い年月を経た傷が幾つも残っている。
新しく補修された場所も多く、砦が今も現役の監視拠点として使われていることが分かった。
中庭では兵士たちが行き交い、武器や物資を運んでいる。
森から戻った斥候を乗せた担架は、そのまま医務室らしき建物へ運び込まれていった。
リズナは周囲を見渡しながら、門の上に掲げられていた旗を思い出した。
黒地に銀色の紋章。
建物の造りも、兵士たちの装備も、リズナが知るものとは少しずつ違っている。
同じ魔族であることは分かる。
言葉も通じている。
それでも、自分の知る土地から遠く離れているという感覚は、砦へ入ってから一層強くなっていた。
作戦室の中央には、大きな机が置かれていた。
机の上には黒風の森と周辺地域の地図が広げられ、赤や黒の印が幾つも書き込まれている。
カレナは記録係の兵士を呼び、ゼラスの正面へ立った。
「森で確認したことを、順にお願いします」
ゼラスは収納魔法から小さな容器を取り出した。
中には、炎で焼いた後の黒い欠片が収められている。
「最初に確認したのは、黒い筋の浮かんだ魔物だ」
容器が机の上へ置かれる。
「身体の中に、これと同じ異物が入っていた。
魔物を倒しても異物自体は消えず、周囲の魔力を吸収しようとした」
カレナが容器をのぞき込む。
「魔石ではないのですか?」
「少なくとも、普通の魔石ではない。
内部に何らかの術式が刻まれているが、破損が激しくて全体は読めない」
「負傷した斥候の体内にも、同じものが?」
「ああ。」
ゼラスは斥候を発見した場所と、その周辺で確認した黒い染みについて説明した。
リズナも、風に混じっていた奇妙な感覚を伝える。
「空気が流れているわけではないんです。
風ではない何かが、風のふりをして森の中を動いていました」
「魔力の流れではなく?」
カレナが尋ねる。
「魔力には違いないと思います。
でも、普通の魔法で起きる流れとは違っていました」
「異変はどちらへ向かっていましたか?」
「西です」
リズナは机の地図へ近づいた。
「森の奥から流れてきて、また西へ戻ろうとしているように感じました」
ゼラスが地図上の一点を指した。
「古い転移遺構がある場所と重なる」
カレナの顔が険しくなる。
「やはり、あの遺構が中心ですか」
「可能性は高い。
だが、まだ直接確認していない」
「死霊の目撃報告も、西側から増えています」
カレナは地図上に記された複数の印を示した。
「三日前から魔物の活動範囲が急速に変化しています。
森の外縁へ逃げ出す魔物がいる一方で、異変の中心へ向かう個体も確認されていました」
「呼ばれていたのかもしれませんね」
リズナが言う。
体内に欠片が入り込んだ斥候は、森の奥へ来いという声を聞いていた。
夜に襲ってきた死鳥たちも、偶然通りかかったとは考えにくい。
「その可能性も含めて調べる必要がある」
ゼラスは容器をカレナの方へ押した。
「これはそちらで保管してくれ。
魔力を近づけすぎるな」
「承知しました。
封魔容器へ移します」
カレナは部下へ指示を出し、黒い欠片を運ばせた。
報告が一段落したところで、リズナは机に広げられた地図へ目を落とした。
森の周辺だけでなく、その先にある山や川、街道まで描かれている。
しかし、見覚えのある地名は一つもなかった。
「もっと広い地図はありますか?」
リズナの問いに、カレナが顔を上げた。
「広域地図ですか?」
「はい。
私がいた遺跡の場所を説明できるかもしれません」
カレナは壁際の棚へ向かい、丸められた地図を一本取り出した。
机の上にあった地図を端へ寄せ、新しい地図を広げる。
「こちらは黒風の森周辺と、ガリオール大陸南西部の地図です」
「ガリオール……?」
初めて聞く名だった。
リズナは地図を端から端まで見渡した。
山脈の位置。
川の流れ。
都市と街道。
国や領地を区切る境界線。
どれも、自分の記憶にある地図とは重ならない。
「ここが、今いる大陸ですか?」
「はい。
ガリオール大陸です」
「この辺りに海はありますか?」
「さらに西へ進めばあります。
ただし、黒風の森からはかなり離れています」
「南側は?」
「山岳地帯を越えた先にも海岸があります」
リズナは指先で地図を辿った。
何度見ても、知っている土地は見つからない。
似た形の山も、同じ名の街もなかった。
「どうした?」
ゼラスが尋ねる。
「分からないの」
リズナは地図から目を離さなかった。
「私が知ってる場所が、一つもない。
村も、街も、国の名前も……この地図にはどこにもないわ」
作戦室が静かになった。
カレナが慎重に尋ねる。
「出身地の名を教えていただけますか?」
「アスタリア大陸です」
その名を聞いたカレナの眉がわずかに動いた。
「アスタリア……」
「知っているんですか?」
「いえ、現在使用されている地図には、その名称の大陸はありません」
リズナの胸が沈む。
しかし、カレナは何かを思い出したように棚へ向かった。
「ただ、古い外洋調査の記録で、似た名称を見た覚えがあります」
分厚い資料を数冊取り出し、机の上へ並べる。
カレナは古びた紙を慎重にめくっていった。
しばらくして、その手が止まる。
「ありました」
広げられたのは、海を中心に描かれた古い地図だった。
現在の地図よりも粗く、海岸線の多くが曖昧な線で記されている。
その端に、小さな大陸の輪郭が描かれていた。
リズナは息を呑んだ。
形は正確ではない。
島の位置も、海岸線もずれている。
それでも、見覚えがあった。
「これ……」
地図へ手を伸ばしかけ、触れる直前で止める。
「アスタリアです」
カレナは地図に添えられた記録を読んだ。
「数百年前の外洋調査記録です。
航路から大きく外れた海域で陸地を確認したものの、上陸には至らなかったとあります」
「それ以降の記録はありますか?」
「少なくとも、この砦に保管されている資料にはありません」
「そんな……」
リズナは古い地図を見つめた。
故郷は存在している。
だが、ガリオールでは、古い記録に名が残っているだけの遠い大陸として扱われていた。
村を出て遺跡へ入った時、海を渡った覚えなどない。
転移術式が、海を越えるほど遠い場所へ自分を飛ばしたことになる。
「別の大陸まで飛ばされたってこと?」
「その可能性が高い」
ゼラスは断定を避けながらも、古い地図と現在の地図を見比べた。
「アスタリアがこの記録の大陸なら、徒歩や通常の船旅で簡単に戻れる距離じゃない」
リズナは改めて、室内を見回した。
見知らぬ大陸。
魔皇と呼ばれる統治者。
その直轄軍が管理する砦。
自分は今、異なる大陸から現れた身元不明の転移者として、魔皇軍の軍事拠点にいる。
先ほどまで漠然としていた不安が、急に現実味を帯びた。
帰る手段が見つからなければ、どれほど長くこの土地に留まることになるのかも分からない。
魔皇軍が自分をどのように扱うのかも、まだ判断できなかった。
不安を悟られないよう、リズナは拳を握る。
「簡単じゃないだけで、戻れないとは決まってないでしょ?」
顔を上げ、ゼラスへ向き直った。
「私を飛ばした転移術式が残ってるなら、逆に辿れるかもしれない」
「ああ、その可能性はある」
ゼラスは黒風の森の地図へ視線を移した。
「だからこそ、西側の遺構を調べる必要がある」
カレナも頷いた。
「異大陸からの転移者となれば、砦だけで判断できる範囲を超えています。
第一席へ直接報告しましょう」
「通信できるのか?」
ゼラスの問いに、カレナはわずかに間を置いた。
「先ほど、高位回線の使用許可が下りました。
書面を送られた第一席ご本人から、ゼラス殿が戻り次第、直接つなぐよう命令を受けています」
ゼラスの表情が、ほんの少しだけ変わった。
嫌そうというほどではない。
喜んでいるようにも見えない。
だが、平然と聞き流せる相手ではないらしい。
「準備できてるなら、つないでくれ」
「承知しました」
カレナに案内され、二人は作戦室の奥にある通信室へ移動した。
室内の中央には、円形の魔導台が設置されている。
周囲には幾重もの術式が刻まれ、壁にも外部への魔力漏洩を防ぐ結界が張られていた。
「第一席直属の暗号回線を使用します」
カレナが魔導台へ手を置く。
「接続中は、この部屋への出入りを禁止します」
術式へ魔力が流れ込む。
円形の魔導台から青白い光が立ち上り、空中に薄い光の膜が広がった。
最初は何も映っていなかった膜に、少しずつ人の輪郭が浮かび上がる。
薄紫色の髪。
紫の瞳。
黒と金を基調とした軍装。
映像の向こうに現れた女性は、椅子へ座ったまま書類を読んでいた。
やがて顔を上げ、こちらを見る。
その視線がゼラスを捉えた瞬間、女性の動きが止まった。
ゼラスも何も言わない。
短い沈黙が、通信室を満たした。
先に口を開いたのは、映像の向こうの女性だった。
「……久しぶりね、ゼラス」
「リュミエラ」
ゼラスが名を返す。
「二百年ぶりに顔を見せたと思ったら、それだけ?」
「書面は読んだ」
「書面は顔を見たことにはならないでしょう?」
リュミエラは呆れたように息を吐いた。
その口調は柔らかい。
しかし、紫の瞳はゼラスから離れていなかった。
「まあ、いいわ。
生きていることは分かったし、姿も相変わらずね」
「お前も変わってない」
「私はあなたほど変わらないわけじゃないけれどね」
リュミエラの表情に、かすかな安堵が滲んだ。
二人の会話を聞きながら、リズナは黙って映像を見ていた。
魔皇軍第一席。
この砦を管轄する軍の中でも、最上位に近い立場の人物。
リズナは一度息を整えてから、一歩前へ出た。
未知の大陸で、自分の扱いを決める権限を持っているかもしれない相手だ。
そう考えると、自然と背筋が伸びた。
リュミエラの視線がリズナへ向く。
「そちらが、森で合流した転移者ね?」
「初めまして。
リズナです」
「初めまして、リズナちゃん。
私はリュミエラ。
魔皇軍第一席よ」
想像していたよりも柔らかな声だった。
そのことに少しだけ安堵しながらも、リズナは姿勢を崩さなかった。
リュミエラの表情から、すぐに柔らかさが消える。
「詳しく聞かせて。
転移する前にいた場所と、使われた術式について、覚えている範囲で構わないわ」
リズナは遺跡へ入った経緯から説明した。
最近発見された地下遺跡だったこと。
最深部で古い転移術式を見つけたこと。
不用意に近づいた際、術式が突然起動したこと。
強い風と光に飲み込まれ、気づいた時には黒風の森にいたこと。
リュミエラは途中で口を挟まず、最後まで話を聞いていた。
「術式の形は覚えている?」
「全部は覚えていません。
でも、円が幾つも重なっていて、外側に見たことのない文字がありました」
「中心には何があったの?」
「割れた石がありました。
魔石に見えましたが、光ったのは術式が動き出した後です」
リュミエラは机上の紙へ何かを書き留めた。
「術式が起動した直後に、床の紋様を斬ったのね?」
「はい。
そのまま待っていたら、もっと危険だと思ったので」
「判断そのものは間違っていないわ。
ただ、その影響で接続先から外れ、空中へ放り出された可能性はあるわね」
リズナは僅かに肩を落とした。
「やっぱり、あれが原因なんですね……」
「原因の一つかもしれない、という段階よ。
今はまだ決めつけない方がいいわ」
リュミエラは書き留めた内容へ目を落とす。
「アスタリアの遺跡から、ガリオールの黒風の森へ転移した。
偶然で片づけるには、少し出来すぎているわね」
「森の遺構とつながっているんですか?」
「まだ断定はできないわ。
でも、同じ系統の術式である可能性は高いと思う」
リュミエラの視線がゼラスへ移る。
「黒い欠片は?」
「砦で封印させた。
魔力を吸収し、生物の魔力回路へ侵食する」
「声を聞いた者がいるのね?」
「ああ。
森の奥へ来いと言われたらしい」
リュミエラは指先で机を軽く叩いた。
先ほどまでの柔らかな雰囲気は消えている。
「カレナ」
「はい」
「黒風の森西側にある遺構の周辺を立入禁止にして。
監視は継続。
ただし、術式そのものには触れさせないで」
「封鎖措置は行わないのですか?」
「下手に干渉すれば、残っている接続先まで失う可能性があるわ。
破壊も停止も禁止。
異常があれば、すぐに報告して」
「承知しました」
「黒い欠片は封魔容器ごと本城へ。
通常の転送陣は使用禁止よ。
護送部隊に運ばせて」
リュミエラは続けて幾つかの指示を出した。
その声には迷いがない。
通信の向こうにいるのが魔皇軍第一席であることを、言葉ではなく判断の速さが示していた。
「ゼラス」
「ああ。」
「リズナちゃんを一人にしないで。
遺構とのつながりがあるなら、再び何かに狙われる可能性があるわ」
「そのつもりだ」
「ならいいわ」
リュミエラはリズナへ視線を移した。
「リズナちゃんも、しばらくはゼラスの近くにいて。
何か異変があったら、すぐに伝えるのよ」
「分かりました」
「それから、二人で本城へ来て。
直接確認したいことがあるの」
ゼラスは僅かに眉を寄せた。
「ここで話せないのか?」
「話せないというより、この回線に記録を残したくないのよ」
リュミエラは周囲を一度確認してから、僅かに声を落とした。
「私が管理している禁書庫を開けるわ。
現在の公開記録には残っていない、古い転移術式の資料があるから」
「黒風の森の遺構に関するものか?」
「似た術式ではあるわ。
ただ、同じものかどうかは実物を見ないと判断できない」
リュミエラはリズナを見る。
「アスタリアへ戻る方法も、その資料から探してみるわ。
すぐに答えを出せるとは約束できないけれど、調べる価値はあるはずよ」
「ありがとうございます」
「お礼は、帰る道が見つかってからにして」
リュミエラの表情が、わずかに柔らかくなった。
「今日は砦で休みなさい。
本城への出発は明日の朝でいいわ」
「俺は今からでも動ける」
「あなたが平気なのは知っているわ。
でも、リズナちゃんまで同じとは限らないでしょう?」
ゼラスは何も言い返さなかった。
「それに、二百年ぶりに会うのよ。
少しくらい待たせても罰は当たらないでしょう?」
「もう顔は見ただろ」
「これは通信よ。
再会は直接会ってから」
リュミエラは小さく笑った。
「本城で待っているわ」
光の膜が揺らぎ、映像が消える。
青白い光も徐々に薄れ、通信室は元の静けさを取り戻した。
カレナは魔導台から手を離した。
「第一席のご命令どおり、明朝の出発準備を整えます。
本城までは砦の飛空艇をご利用ください」
「ああ、頼む」
ゼラスは短く答え、通信室を出ようとした。
「待って」
リズナが呼び止める。
ゼラスが振り返った。
「何だ?」
「今の人と、二百年ぶりなの?」
「ああ。」
「二百年って……」
リズナは目の前に立つ少年姿の魔族を見つめた。
森での戦い方。
異様なほど豊富な知識。
昔この森で道に迷ったという話。
年齢を尋ねるたび、露骨に話を逸らしていたこと。
幾つもの疑問が一つにつながりかけたが、ゼラスは先に扉を開けた。
「腹が減った」
「また話を逸らしたわね」
「砦の食堂は、まだ開いてるはずだ」
「聞いてる?」
「食べながらなら聞く」
答えるとは言っていない。
リズナは呆れながらも、その後を追った。
廊下の窓から、黒風の森が見える。
森の奥には、リズナをこの大陸へ飛ばしたものとつながるかもしれない遺構がある。
そして明日には、魔皇軍の本城へ向かう。
帰るための道は、まだ見えていない。
それでも、手がかりは一つずつ増えていた。
古い地図に残されたアスタリア。
黒風の森の転移遺構。
魔皇軍第一席が管理する禁書庫。
リズナは腰の風晶石へ触れた。
結晶の中を、小さな風が巡っている。
立ち止まっている暇はない。
知らない大陸であっても、進むべき道は自分で選べる。
砦の外では、日が傾き始めていた。
黒い森の向こうへ沈む光が、古びた石壁を赤く照らしている。
その夜、黒森監視砦の灯は、暗くなるまで消えることはなかった。




