表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
千年魔族は少年の姿で旅をする  作者: ポボンゴ
第一章 黒風の森編
4/96

第三話 黒森を渡る夜



荷車を離れた二人は、黒風の森を北へ進んでいた。


先頭を歩くリズナは、時折足を止めて風の流れを確かめる。


倒れていた斥候とは別の匂い。


踏み荒らされた土。


折れた枝。


血の混じった微かな空気。


痕跡は途切れかけながらも、確かに森の奥へ続いていた。


「まだ追えるか?」


後ろを歩くゼラスが尋ねる。


「ぎりぎりね」


リズナはしゃがみ込み、地面へ手をかざした。


枯れ葉の下に、僅かな血が残っている。


乾ききってはいない。


それほど古いものではなかった。


「怪我をしてるみたい」


「血の量は?」


「少ないわ」


リズナは立ち上がった。


「でも、歩き方がおかしい。途中から右脚を引きずってる」


地面には、片方だけ深く沈んだ足跡が続いている。


ゼラスがその横へしゃがみ込んだ。


土を指先で掬い、匂いを確かめる。


「魔物の足跡は?」


「近くにはない」


「追われて逃げたわけじゃないのか」


「少なくとも、ここまではね」


リズナは森の先へ目を向ける。


黒い木々が幾重にも重なり、遠くまで見通すことはできない。


周囲の風には、魔物の匂いも、生き物の動きもほとんど感じられなかった。


血を流した者がいるにもかかわらず、獣が寄ってきていない。


荷車のそばにあった遺体と同じだった。


「静かすぎるわ」


「ああ」


ゼラスも周囲を見回した。


「血の匂いを避けてるというより、この一帯そのものに近づいてない」


「何かいる?」


「何かがいた、という方が近いかもしれない」


地面には黒い染みが残っていた。


液体をこぼした跡ではない。


土と枯れ葉だけが、焼け焦げたように変色している。


ゼラスが指先に炎を灯す。


赤い光が黒い染みを照らした。


染みの輪郭が僅かに揺らぐ。


リズナは風を動かし、周囲の空気を自分たちから遠ざけた。


「触らないでよ」


「触らない」


「さっきも聞いたわ」


「同じ答えで問題ないだろ」


ゼラスは炎を地面へ近づける。


黒い染みの中から、細い靄が浮かび上がった。


靄は炎を避け、土の中へ逃げようとする。


ゼラスの炎が青白く変化した。


小さな音を立て、黒い靄が消滅する。


「やっぱり、魔物の中にあったものと同じね」


「濃度は薄い」


「誰かがここで倒した?」


「それなら、魔物の死体か痕跡が残る」


ゼラスは立ち上がった。


「この場所を通っただけだろう」


「黒い霧が?」


「あるいは、霧をまとった何かが」


冷たい風が二人の間を通り抜けた。


木々の枝は揺れていない。


それでも、リズナの赤い髪だけが僅かになびいた。


「今のよ」


リズナが声を低くする。


「森に混じってる変な風」


ゼラスが目を細める。


「俺には、普通の風との違いが分からない」


「空気そのものは流れてないの。なのに、風に触れた感覚だけがある」


「魔力が風を模倣してる?」


「分からない。でも、風じゃないものが風のふりをしてる」


リズナは腰の風晶石へ触れた。


薄緑色の結晶が小刻みに震えている。


その震えは、不快な流れが消えると同時に収まった。


「先へ進むほど濃くなってるわ」


「砦は北だ」


「この黒いものも?」


「少し違う」


ゼラスは森の奥へ顔を向けた。


「異変の中心は、もっと西にある」


「分かるの?」


「ここへ来る前に、森の外から魔力の流れを調べた」


「それで一人で入ってきたのね」


「ああ」


「やっぱり、誰かに頼まれた仕事?」


ゼラスは少しだけ間を置いた。


「古い転移術式が動き出した」


リズナの足が止まった。


「転移術式?」


「森の西側に、かなり古い遺構がある。数日前から魔力反応が観測されるようになった」


「それを調べに来たの?」


「それだけじゃない」


ゼラスは歩きながら続ける。


「術式が反応し始めた頃から、魔物の凶暴化が報告されてる。死霊の目撃も増えた」


「死霊まで?」


「まだ直接は見てない」


「それで、私が飛ばされてきた」


「あの術式が原因とは限らない」


「でも、無関係とも思えないでしょ?」


「思ってないから話した」


ゼラスの声は落ち着いていた。


希望を持たせることも、不安を煽ることもしない。


分かっていることだけを話している。


「その古い術式を調べれば、戻る方法が見つかるかもしれない」


リズナが言う。


「可能性はある」


「低そうな言い方ね」


「現物を見てないからな」


「分からないものを、分かったふりしないんだったわね」


「覚えてたか」


「言われたばかりだもの」


二人は再び歩き出した。


足元に残る血の跡は、次第に量を増していた。


負傷者の歩みも遅くなっている。


木の幹へ手をつき、身体を支えた痕跡。


膝をついた跡。


何度も立ち止まりながら、必死に北へ進んだことが分かる。


やがて、血の跡が大きな倒木の前で途切れた。


「ここね」


リズナは短剣へ手を伸ばした。


倒木の根元には、空洞がある。


人が一人入れる程度の大きさだった。


中から微かな呼吸音が聞こえる。


浅く、不規則な呼吸。


生きてはいる。


だが、状態は良くなかった。


「監視砦の者か?」


ゼラスが空洞へ声をかける。


返事はない。


代わりに、中で衣擦れの音がした。


何かを構えた気配。


「敵じゃない」


ゼラスは両手を見える位置へ上げた。


「荷車のそばにいた仲間を見つけた。胸元の札も回収している」


空洞の中から、掠れた声が聞こえた。


「……名前を」


「知らない」


ゼラスは正直に答えた。


「すでに亡くなっていた」


しばらく沈黙が続いた。


やがて、空洞の中で何かが地面へ落ちる音がした。


武器を手放したらしい。


リズナが風を薄く流し込む。


内部にいるのは一人。


他に生き物の気配はない。


「入るわよ」


「……待て」


弱々しい声だった。


「俺に……近づくな」


「どうして?」


返事の代わりに、苦しげな息遣いが聞こえた。


ゼラスが空洞の入り口へ炎を近づける。


内部が薄く照らされた。


黒い外套をまとった男が、木の根へ背中を預けて座っている。


右脚は血に染まっていた。


脇腹にも深い傷がある。


だが、最も異常なのは左肩だった。


皮膚の下で、黒い何かが脈打っている。


先ほど魔物の傷口から取り出した、あの異物と同じものだった。


「欠片が入ってる」


リズナが呟く。


黒い欠片から伸びた筋が、男の首元へ向かって広がっている。


「自分で気づいていたのか?」


ゼラスが尋ねる。


男は僅かに頷いた。


「魔力が……吸われる」


「身体を動かせないのは?」


「それだけじゃない」


男の手が震えた。


「声が、聞こえる」


リズナとゼラスが顔を見合わせる。


「どんな声?」


リズナが尋ねた。


「森の奥へ……来いと」


男は肩を押さえた。


「仲間を置いて……戻ろうとした。だが、途中から……自分がどちらへ歩いているのか、分からなくなった」


「だから、ここへ隠れた?」


「ああ」


男の額には汗が滲んでいた。


顔色も悪い。


黒い筋は、ゆっくりと首へ近づいている。


ゼラスが空洞へ入ろうとする。


「近づくなと言った!」


男が声を荒らげた。


「俺が、あの魔物たちのようになったら……」


「その前に取る」


「取れるのか?」


「やってみなければ分からない」


「おい」


リズナがゼラスの肩を掴んだ。


「本人を安心させる気はないの?」


「できないことをできると言うよりはいい」


「そうだけど、言い方があるでしょ」


リズナは男へ顔を向ける。


「大丈夫。少なくとも、ここで放ってはおかないわ」


「……すまない」


ゼラスがリズナを見る。


「俺と同じことを言ってないか?」


「言い方の問題よ」


「そうか」


本当に分かっているのか怪しい返事だった。


ゼラスは空洞の前へ膝をついた。


右手に炎を灯し、左手を男の肩へ近づける。


「その欠片は魔力に反応する」


「だから、燃やすの?」


「先に周囲とのつながりを切る」


ゼラスの左手を淡い光が包んだ。


炎ではない。


色のない魔力が薄い膜となり、男の左肩を覆っていく。


リズナには、それが何の魔法なのか分からなかった。


四大属性のどれとも異なる。


ただ、男の身体と黒い欠片の間へ、細い境界が作られている。


「無属性魔法?」


「ああ」


「そんな使い方ができるのね」


「何でもできるわけじゃない」


ゼラスは男の肩から目を離さない。


「黒いものが外へ漏れたら、風で押さえられるか?」


「閉じ込めればいいの?」


「俺の炎へ集めてくれ」


「分かった」


リズナは両手を広げた。


空洞の周囲へ風の膜を作る。


外から空気を遮断するのではない。


内部の流れを細かく制御し、何かが漏れ出してもゼラスの右手へ運ぶための風だった。


「始めるぞ」


ゼラスが男へ言う。


「痛むかもしれない」


「やってくれ」


ゼラスの左手が動く。


色のない魔力が、皮膚の下へ沈んでいく。


男の身体が強張った。


黒い欠片が激しく脈打つ。


肩から伸びていた黒い筋が、生き物のように蠢いた。


「来るわよ」


皮膚の下から黒い靄が噴き出した。


リズナが風を動かす。


靄は周囲へ散らず、一つの流れとなってゼラスの右手へ集められた。


青白い炎が靄を焼く。


甲高い音が空洞の中へ響いた。


男が歯を食いしばる。


黒い欠片は身体の奥へ逃げ込もうとしていた。


ゼラスの左手を覆う魔力が、その動きを止める。


「悪あがきするな」


ゼラスの声が低くなる。


色のない魔力が一気に収縮した。


男の肩から、黒い欠片が弾き出される。


リズナが風で掬い上げ、そのままゼラスの炎へ運んだ。


欠片は青白い炎に包まれた。


表面に刻まれていた細い溝が赤く光る。


炎の中で暴れるように震えた後、幾つもの小さな破片へ砕けた。


「燃えないの?」


「本体は無理らしい」


ゼラスは炎を消さず、砕けた欠片を包み続ける。


「だが、中に残っていたものは焼けた」


男の肩から伸びていた黒い筋が、徐々に薄くなっていく。


呼吸も僅かに落ち着いた。


リズナは風の膜を維持したまま、男の状態を確認する。


「もう大丈夫?」


「侵食は止まった」


「完全には?」


「しばらく様子を見る必要がある」


ゼラスは砕けた欠片を布で包み、容器へ収めた。


「右脚と脇腹の傷を治療する」


「治癒魔法も使えるの?」


「応急処置程度だ」


「何でもできるじゃない」


「何でもはできないと言っただろ」


ゼラスが傷口へ手をかざす。


淡い光が血を止め、裂けた肉を僅かに塞いでいく。


完全に治しているわけではない。


出血を止め、移動に耐えられる状態へ整えているだけだった。


それでも、何の準備もなく行える処置としては十分すぎる。


「……何者なの?」


リズナが小さく呟いた。


ゼラスは聞こえていたはずだが、答えなかった。


治療を終えると、男は倒木の外へ運び出された。


一人で歩ける状態ではない。


リズナは周囲に落ちていた太い枝を集め、風で蔓を切り取った。


枝を組み、簡素な担架を作る。


「器用だな」


ゼラスが言う。


「風魔法を使うからって、何でも吹き飛ばすわけじゃないのよ」


「俺はそんなこと言ってない」


「顔に書いてあった」


「顔で判断するなと言っただろ」


「便利な言葉ね、それ」


男を担架へ寝かせる。


リズナは担架の下へ風を送り込んだ。


僅かに浮き上がり、地面との摩擦がなくなる。


「私が運ぶわ」


「魔力は大丈夫か?」


「この程度なら問題ない」


「途中で疲れたら言え」


「子供に心配されるほど弱くないわよ」


「まだ言うのか」


「見た目が変わるまでは言うと思う」


「なら、一生言われるかもしれないな」


リズナがゼラスを見る。


「一生?」


「言葉の綾だ」


ゼラスは何事もなかったように歩き始めた。


その背中を見つめながら、リズナは目を細める。


やはり、この少年には隠していることが多い。


だが、それを問い詰めるには、まだ出会ってからの時間が短すぎた。




二人は負傷した斥候を連れ、北へ進んだ。


日が沈むにつれ、森の気温は急激に下がっていく。


黒い木々の間を、白い霧が漂い始めた。


黒い靄とは違う。


ただの夜霧ではあるが、視界は次第に悪くなっていた。


「このまま進むの?」


リズナが尋ねる。


「もう少し先に、古い見張り小屋がある」


「本当にこの森に詳しいのね」


「昔、道に迷ったことがある」


「あなたでも迷うの?」


「昔の話だ」


「どれくらい昔?」


ゼラスは答えなかった。


「聞こえなかった?」


「聞こえてる」


「答えないの?」


「見張り小屋が残ってるか考えてた」


「露骨に話を逸らしたわね」


ゼラスは振り返らずに歩き続けた。


しばらく進むと、木々の間に石造りの小屋が見えた。


屋根の一部は崩れている。


扉も半分外れ、蔓が壁を覆っていた。


それでも三方の壁は残っており、野営するだけなら十分だった。


ゼラスは小屋の周囲を一周する。


地面。


壁。


屋根。


内部。


罠や魔物の痕跡がないことを確認してから、負傷者を運び入れた。


「慣れてるわね」


「何に?」


「野営地を探すのに」


「長く旅をしてるからな」


「どれくらい?」


「腹が減った」


「また逸らした」


ゼラスは小屋の外へ出ると、乾いた枝を集め始めた。


リズナも風を使って落ち葉と埃を外へ掃き出す。


床へ布を敷き、斥候を横たえた。


男は眠っている。


呼吸は安定していた。


肩の黒い筋も、それ以上は広がっていない。


やがて、小屋の中央に小さな焚き火が作られた。


ゼラスが残っていた肉を取り出す。


「また焼くの?」


「昨日狩った分だから、早めに食べた方がいい」


「昨日から一人で森にいたのね」


「ああ」


「どうして、こんなに味付け用の香草を持ってるの?」


「食事は大事だろ」


リズナは思わず笑った。


「そこは意見が合いそうね」


ゼラスが肉を金属棒へ刺し、火へかざす。


脂が落ち、小さな炎が弾けた。


香ばしい匂いが小屋の中へ広がっていく。


リズナの腹が鳴った。


ゼラスの手が止まる。


「何も言わないで」


「まだ何も言ってない」


「顔に書いてあるわ」


「顔で判断するな」


「今の顔は分かりやすいのよ」


ゼラスは笑いを堪えるように口元を歪めた。


肉が焼けるまでの間、リズナは斥候の水筒を確認する。


中身は空だった。


ゼラスから受け取った水を少しずつ男の口へ含ませる。


「さっきの人、仲間は一人だけだったのかしら」


「目を覚ましたら聞く」


「荷車のそばにいた人と、この人で二人?」


「監視砦の斥候は、通常二人か三人で動く」


「もう一人いるかもしれない?」


「その可能性はある」


ゼラスの表情が僅かに曇った。


「ただ、周囲に別の足跡はなかった」


「この人が目を覚まさないと分からないわね」


「ああ」


二人はそれ以上話さなかった。


肉が焼ける音だけが、小屋の中へ静かに響いている。


ゼラスが焼けた部分を切り分け、木の皿へ載せた。


リズナへ差し出す。


「今日は一口だけじゃないの?」


「最初から分けるつもりだった」


「親切ね」


「働いた分だ」


「案内料?」


「それと、治療の手伝い」


リズナは皿を受け取った。


「じゃあ、遠慮なくいただくわ」


肉は昼間に食べたものより少し硬かった。


それでも香草と塩がよく効いている。


森の中で食べるには十分すぎる味だった。


「おいしい」


「聞き間違いか?」


「今回は素直に認めてあげる」


「それはありがたい」



二人は焚き火を挟んで食事を続けた。


食べ終わる頃、横になっていた斥候が小さく身じろぎした。


ゼラスがすぐにそばへ寄る。


「目が覚めたか?」


男がゆっくりと目を開けた。


視線が定まるまで、しばらく時間がかかった。


「ここは……」


「北へ向かう途中の見張り小屋だ」


「肩の欠片は取り除いた」


リズナが言う。


男は左肩へ手を伸ばす。


皮膚の下を走っていた黒い筋は、ほとんど消えている。


「あなたたちが……?」


「ああ」


ゼラスが頷く。


「何があったか話せるか?」


男は身体を起こそうとしたが、脇腹の痛みに顔を歪めた。


「そのままでいい」


ゼラスが止める。


男は再び身体を横たえ、息を整えた。


「俺たちは、二人で西側の遺構を見に行った」


「二人だったのね」


リズナが言う。


男が頷く。


「転移術式が、夜になると光るという報告があった。俺たちは遠くから確認するだけの予定だった」


「中には入ってない?」


ゼラスが尋ねる。


「近づくこともできなかった」


男の手が僅かに震える。


「遺構の周囲に、死んだ魔物が集まっていた」


「死霊化していた?」


「分からない。身体は腐っていた。なのに、歩いていた」


小屋の外で、風が鳴った。


「突然、術式が光った」


男は目を閉じた。


「空に、穴のようなものが開いた。そこから何かが落ちてきたように見えた」


リズナの表情が変わる。


「何が落ちてきたの?」


「遠すぎて分からない。人影に見えた気もするが……すぐに木々の向こうへ消えた」


ゼラスがリズナを見る。


リズナも無言で見返した。


転移術式。


空に開いた穴。


そこから落ちてきた人影。


時間が一致しているとは限らない。


それでも、リズナが森の上空へ放り出された現象と、あまりにも似ていた。


「それは、いつ?」


リズナが尋ねる。


「今日の昼頃だ」


転移した時刻と、ほぼ一致している。


「その後、黒い霧が広がった」


男は続けた。


「魔物たちが一斉に動き始めた。俺たちは砦へ戻ろうとしたが、途中で襲われた」


「仲間は荷車のそばで亡くなっていた」


ゼラスが静かに告げる。


男の目が閉じられた。


唇を強く噛み、しばらく動かなかった。


「……そうか」


やがて、掠れた声が漏れた。


「札は回収した」


「ああ」


男は短く答えた。


涙を流すことはなかった。


ただ、その声には深い疲労が滲んでいた。


「術式の近くに、誰かいたか?」


ゼラスが尋ねる。


「見ていない」


「魔法を使った痕跡は?」


「黒い霧以外は分からなかった」


「砦には報告できた?」


「伝令石を使った。だが、最後まで届いたかは分からない」


ゼラスは少し考え込んだ。


「分かった。今は休め」


「あなたたちは……」


男がリズナとゼラスを交互に見る。


「砦の人間ではないな」


「俺は調査を頼まれて来た」


ゼラスが答える。


「彼女は、転移術式に巻き込まれた」


「じゃあ、あの時の人影は……」


男の視線がリズナへ向く。


「おそらく私ね」


「どこから?」


「それが分かれば苦労しないわ」


リズナは苦笑した。


「遺跡にあった転移罠を踏んで、気づいたらこの森の上空にいたの」


「上空……」


男は信じられないという顔をしている。


無理もなかった。


リズナ自身も、まだ完全には受け入れられていない。


「詳しい話は砦で聞く」


ゼラスが言う。


「今夜は移動しない方がいい」


男は頷き、再び目を閉じた。


疲労が限界だったのだろう。


すぐに眠りへ落ちていった。


リズナは小屋の入り口へ移動した。


外では白い霧が濃くなっている。


森の中は、焚き火の光さえ呑み込むような闇に包まれていた。


「私が飛ばされた術式と同じものね」


「その可能性が高くなった」


ゼラスが隣へ立つ。


「でも、どうしてあの遺跡から、ここの森へ?」


「それを調べるために砦へ行く」


「砦に分かる人がいるの?」


「直接分かるとは限らない。だが、詳しい奴へ連絡は取れる」


「その昔の知り合い?」


ゼラスは答えなかった。


「また黙るのね」


「今、名前を出す必要はない」


「会えば分かる?」


「おそらくな」


リズナは夜の森を見つめた。


黒い風が、遠くで渦巻いている。


それは西へ向かっているようにも、森全体から西へ集まっているようにも感じられた。


「ゼラス」


「何だ?」


「私、ここへ来たのが偶然じゃない気がする」


「転移罠を踏んだのは偶然だろ」


「そういう意味じゃないわ」


リズナは腰の風晶石を握った。


「飛ばされた先が、この森だったこと」


「誰かが行き先を指定したと?」


「分からない。でも、ただ遠くへ弾き出すだけなら、空へ落とす必要はないでしょう?」


「術式が壊れていた可能性もある」


「私が壊したのよ」


「何?」


「起動した直後に、床へ刻まれていた術式を斬った」


ゼラスがリズナを見る。


「先に言え」


「聞かれなかったもの」


「転移術式を斬れば、行き先がずれても不思議じゃない」


「じゃあ、やっぱり私のせい?」


「少なくとも、空へ放り出された原因にはなってるかもしれない」


リズナは額へ手を当てた。


「最悪……」


「生きてたんだから、判断としては間違ってない」


「慰めてる?」


「事実を言ってる」


「もう少し優しく言えないの?」


「無事でよかったな」


あまりにも平坦な声だった。


リズナはゼラスの顔を見る。


本人は真面目に言っているらしい。


「……あなた、本当に不器用ね」


「何が?」


「何でもない」


リズナは小さく笑った。




その時、小屋の外を流れていた風が止まった。


完全な無風。


葉の擦れる音も、虫の声も消える。


焚き火の炎だけが、小さく揺れていた。


リズナは瞬時に短剣を抜いた。


ゼラスも小屋の外へ視線を向ける。


「何か来る」


「どこから?」


「全部」


森の闇の中で、赤い光が幾つも灯った。


高い位置。


木々の枝の上。


一つや二つではない。


無数の目が、小屋を取り囲んでいる。


翼が羽ばたく音が響いた。


黒い鳥が、霧の中から姿を現す。


羽根は抜け落ち、腹部の肉が腐っている。


生きているはずのない身体。


それでも翼は動き、赤い目は三人を捉えていた。


「さっき話してた死霊ね」


リズナが短剣を構える。


「おそらくな」


ゼラスの手元に、空間の揺らぎと共に剣が現れた。


今度は細身の両刃剣だった。


「さっきの剣と違う」


「狭い場所では、こっちの方が使いやすい」


「何本持ってるの?」


「数えてない」


「普通は数えるでしょ」


「来るぞ」


死鳥の群れが一斉に翼を広げた。


「中へ入れないで」


リズナが踏み出す。


風が小屋を覆うように渦巻いた。


死鳥が次々と突っ込んでくる。


風の壁へ触れた個体が軌道を逸らされ、地面や木の幹へ叩きつけられた。


だが、痛みを感じていない。


折れた翼を引きずりながら、再び立ち上がろうとする。


「倒すだけじゃ止まらない!」


「核を焼く」


ゼラスが剣を振るった。


刃に細い炎が走る。


死鳥の胸を切り裂き、体内に埋め込まれていた黒い欠片を正確に断つ。


青白い炎が傷口から広がった。


死鳥の身体が崩れ、黒い灰となって地面へ落ちる。


「胸の中心にある!」


ゼラスが叫ぶ。


「全部?」


「見た限りはな!」


リズナは風を広げる。


飛び交う死鳥の動き。


翼が空気を押す感触。


胸の内側にある、小さな異物。


一体一体を目で追う必要はない。


風を通じて、すべての位置が分かる。


「左から三体!」


リズナが風を巻き上げた。


三体の死鳥が一か所へ集められる。


ゼラスが剣を横薙ぎに振るった。


細く伸びた炎が三体の胸を同時に貫く。


「上!」


ゼラスが頭上へ剣を向ける。


小屋の屋根を突き破ろうとしていた死鳥へ、赤い炎が直撃した。


燃えた死鳥が落下する。


リズナが風で受け止め、外へ投げ捨てる。


「右奥、五体来る!」


「多いな」


「文句を言わない!」


リズナは二本の短剣を投げた。


風に乗った刃が木々の間を走る。


一体目の胸を貫き、軌道を変えて二体目の翼を切り落とす。


残る三体を風の壁で押し戻した。


ゼラスが地面へ手を向ける。


小屋の周囲に、赤い線が円を描いた。


「伏せろ!」


リズナは即座に身を低くする。


円の外側だけに炎が噴き上がった。


小屋を囲んでいた死鳥たちが、一斉に青白い炎へ包まれる。


木々には燃え移らない。


枯れ葉も、草も、炎に触れているはずなのに焦げてすらいなかった。


黒い欠片と、死霊を動かしていた魔力だけが燃えている。


甲高い鳴き声が森へ響いた。


やがて、すべての死鳥が灰となって崩れ落ちる。


炎が消えた。


森に静けさが戻る。


リズナは立ち上がり、周囲を見回した。


「……全部?」


「動いているものはいない」


ゼラスは剣を下ろした。


リズナは風を広げる。


死鳥の気配は消えている。


黒い風も、今は遠ざかっていた。


「最初から、あの炎を使えばよかったんじゃない?」


「範囲を決める時間が必要だった」


「私が時間を稼ぐのを待ってた?」


「頼まなくてもやると思った」


「勝手に信用しないでよ」


「失敗したか?」


リズナは言葉に詰まった。


「……してないけど」


「なら問題ない」


ゼラスは当然のように答えた。


出会ってから、まだ一日も経っていない。


互いの魔法も、得意な距離も、戦い方も詳しくは知らない。


それでもゼラスは、リズナが死鳥を小屋へ入れないと判断していた。


リズナもまた、ゼラスなら黒い欠片をまとめて焼けると思っていた。


「変な感じね」


「何が?」


「初めて一緒に戦った気がしない」


ゼラスは灰となった死鳥を見つめた。


「戦いやすかった」


「それだけ?」


「他に何がある?」


「別に」


リズナは短剣を拾い上げ、風で汚れを払った。


ゼラスらしい返事だった。


小屋の中では、斥候が目を覚ましていた。


戦う力は残っていない。


それでも手に短剣を握り、身体を起こそうとしている。


「終わった」


ゼラスが声をかける。


男は周囲を見回し、力を抜いた。


「死霊が、ここまで……」


「あの欠片がお前を追ってきた可能性はある」


「俺の中に入っていたものが?」


「取り除いた時に、何かへ信号を送ったのかもしれない」


リズナが小屋の外へ目を向ける。


「私たちを狙った可能性もあるわ」


「どちらにしても、明るくなったらすぐに砦へ向かう」


ゼラスは焚き火へ薪を足した。


「今夜は交代で見張る」


「最初は私がやるわ」


リズナが言う。


「お前は魔力を使っただろ」


「このくらいで疲れない」


「俺も疲れてない」


「じゃあ、ゼラスが先に休んで。私の方が風で周囲を探りやすいもの」


ゼラスは僅かに考えた後、頷いた。


「分かった。異変があればすぐに起こせ」


「得意な方に任せるんでしょう?」


「ああ」


ゼラスは壁へ背中を預け、目を閉じた。


剣は手元から消えている。


眠っているように見えても、完全に警戒を解いてはいない。


呼吸は浅く、僅かな音にも反応できる状態だった。


「本当に子供らしくないわね」


リズナが小さく呟く。


「聞こえてるぞ」


「寝なさいよ」


「今から寝る」


ゼラスはそれきり黙った。


リズナは小屋の入り口へ座り、夜の森を見つめる。


黒い風は、今も西へ流れている。


あの先に、リズナをこの森へ飛ばした転移術式がある。


帰るための手がかり。


森を侵す黒い霧。


死者を動かす欠片。


そして、それらを調べるために派遣された、少年姿の魔族。


分からないことばかりだった。


それでも、完全に一人ではない。


背後では焚き火が燃えている。


そのそばには、つい数時間前に出会ったばかりのゼラスがいる。


奇妙な安心感だった。




翌朝。


霧が薄くなり始めると同時に、三人は見張り小屋を出発した。


負傷者を乗せた担架を、リズナの風が運ぶ。


ゼラスは前を歩き、森の中に残る魔力を警戒していた。


夜の襲撃以降、魔物は現れなかった。


黒い風も次第に弱くなっている。


木々の隙間から差し込む光が、少しずつ明るさを増していった。


「森を抜ける」


ゼラスが言う。


その先で、木々が途切れていた。


開けた丘の向こうに、石造りの砦が見える。


高い外壁。


四隅に設けられた見張り塔。


門の上では、黒地に銀の紋章を描いた旗が風に揺れている。


「北西監視砦だ」


砦の見張り塔から、こちらを発見した兵士の声が上がった。


鐘が鳴らされる。


重い門が、ゆっくりと開き始めた。


リズナは足を止め、初めて目にする旗を見上げた。


森を抜けた。


だが、自分がどこへ辿り着いたのかは、まだ分からない。


その答えを知る者が、砦の中で二人を待っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ