第五十七話 第二接続
遥か下で動き始めたものの振動が、第八十四階層の足元まで伝わってきた。
一度。
二度。
巨大な石同士を擦り合わせるような低い音が、迷宮の奥から響く。
リズナは円形の足場へ風を巡らせた。
「まだ動いてる」
「どこまで届いている?」
ゼラスが尋ねる。
「分からない。下へ送った風が、幾つもの空間を通って戻ってくる。百階層だけじゃなくて、その途中まで何かが連動してるみたい」
リュミエラが床に浮かぶ文字を調べる。
第一接続を完了。
炎の鍵、適合。
風の器、適合。
百階層の受け入れ準備を開始する。
どの文字も、既に光を失っていた。
「今の接続路が、百階層にある仕組みの一部を起動したのでしょうね」
「止められる?」
シェルミアが尋ねる。
「ここからでは難しいわ。接続が完了した時点で、術式は下へ移っているもの」
「なら、先へ進んで止めるしかないな」
ゼラスが第八十四階層の門へ歩み寄る。
リズナがその背中を見る。
「百階層の受け入れって、私たちを迎えるって意味なのかな」
「そうだろうな」
「随分あっさり言うのね」
「他に受け入れるものが見当たらない」
「そうだけど……」
ゼラスが振り返る。
「不安か?」
リズナは少し迷った後、頷いた。
「器って呼ばれてるのが、やっぱり気になる。道を保つだけならいいけど、百階層では別の使い方をされるかもしれないでしょ」
「ああ」
「否定してくれないの?」
「可能性があるものを、ないとは言えない」
ゼラスは自分より少し背の高いリズナを見上げた。
「だから、何をされるのか確かめる。おかしなものを流し込まれたら、俺が接続を焼き切る」
「私まで焼かないでよ」
「お前の魔力と、それ以外の区別くらいつく」
「……なら、任せる」
「最初からそのつもりだ」
少し離れた場所で、リュミエラが二人を見ていた。
その口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。
けれど、二人が気づくより先に、彼女は石門へ視線を戻した。
「話がまとまったなら、進みましょうか」
シェルミアが門の脇にある石板へ触れる。
「開くよ」
石門が左右へ動き始めた。
第八十四階層から先は、それまでとは違い、階層を越える門が明確に残されていた。
第八十五階層は、天井から黒い結晶が垂れ下がる洞窟だった。
結晶は魔力へ反応し、触れた術式と同じ性質の攻撃を撃ち返してくる。
リュミエラが放った解析術式は紫色の針となって戻り、ゼラスの炎は洞窟全体を走る火線へ変わった。
四人は不用意な魔法を控え、結晶の根元だけを剣と短剣で砕いて進んだ。
第八十六階層では、石床の下を巨大な魔物が泳いでいた。
足音へ反応し、床ごと探索者を呑み込もうとする。
リズナが風で振動の広がりを探り、魔物の位置を避けながら道を選んだ。
途中、一度だけ床が大きく盛り上がった。
黒い顎が石を砕いて現れる。
リズナがシルフィードを振り下ろした。
圧縮された風刃が口内へ入り込み、柔らかい喉を深く切り裂く。
魔物が身を捩ったところへ、ゼラスの炎が傷口から入り込んだ。
石床の下で爆発が起こり、黒い巨体は二度と浮かび上がらなかった。
第八十七階層は、細い橋が幾重にも交差する空間だった。
橋の下には青白い霧が溜まり、触れたものの感覚を鈍らせる。
シェルミアが橋の傷みを確認し、リュミエラが霧を遮る薄い障壁を作った。
一度だけ、崩れた石板と共にシェルミアの足が沈んだ。
ゼラスが腕を掴むより早く、リズナの風が彼女の体を押し上げる。
「助かったよ」
「下を見ながら歩いてください」
「見てたから崩れ方が分かったんだよ」
「落ちながら言わないでください!」
第八十八階層へ着いた頃には、四人とも長い探索の疲れを感じ始めていた。
壁際に比較的安全な窪みを見つけ、短い休息を取る。
魔法灯を一つだけ置き、リュミエラが周囲へ警戒術式を張った。
シェルミアは食事を取りながらも、記録板へ経路を書き続けている。
「休んでるのか、それ」
ゼラスが尋ねる。
「座ってるよ」
「手は動いてるだろ」
「忘れる前に書いた方が正確だからね」
「食べ終わってからでいいんじゃない?」
リズナが言う。
「食べながらでも書けるよ」
「そのうち記録板を食べますよ」
「それはないと思う」
「真面目に答えないでください」
リズナは壁へ背を預け、風晶石の状態を確かめた。
ここまで長時間感知を続けてきたが、魔力の流れに乱れはない。
ただ、第一接続を動かした時に感じた門の魔力だけが、僅かに残っている。
自分の中へ異物が入ったわけではない。
それでも、百階層から細い糸を結ばれたような感覚が消えなかった。
「まだ感じるのか?」
隣に座ったゼラスが尋ねる。
「うん。さっきより弱いけど」
「痛みは?」
「ない。魔力を吸われてる感じもないわ」
「なら、今は様子を見るしかないな」
ゼラスは自分の水筒を差し出した。
「飲んでおけ」
「自分のは?」
「まだある」
リズナは受け取り、僅かに口元を緩めた。
「ありがと」
「ああ」
少し離れた場所で、リュミエラが二人を見ていた。
リズナが気づいて視線を向ける。
リュミエラは穏やかに微笑んだまま、自分の杯へ口をつけた。
「……今、見てましたよね?」
「何を?」
「もういいです」
リュミエラは答えず、笑みだけを残した。
休息を終え、四人は再び立ち上がった。
第八十九階層は、上下の感覚が曖昧になる場所だった。
壁と床が緩やかに回転し、進むほど足元の向きが変わっていく。
最初は水平だった通路が、いつの間にか壁となり、天井だった場所を歩いている。
シェルミアが曲がり角ごとに印をつけ、リズナが風の落ちる方向から本来の下を探った。
ゼラスは一度だけ足を止め、頭上を見た。
そこには、先ほどまで四人が歩いていた通路が逆さまに続いている。
「面倒だな」
「飛んだ方が早いんじゃない?」
リズナが尋ねる。
「方向が分からない場所で飛ぶ方が危険だろ」
「ちゃんと考えてるのね」
「何だと思ってた?」
「魔力で力ずくに進むかと」
「それは最後の手段だ」
「最後にはやるんだ」
回転する通路を抜けた先に、第九十階層への門があった。
門の向こうは、広大な空洞だった。
中央に一本の石柱が立ち、その周囲を巨大な黒い翼獣が旋回している。
六枚の翼。
鉤爪のついた四本の脚。
頭部は細長い骨の仮面で覆われていた。
翼獣が四人へ顔を向ける。
空洞全体へ、低い鳴き声が響いた。
「階層主だね」
シェルミアが記録板をしまう。
「中央の石柱に、次の接続装置らしいものがある」
柱の表面には、炎と風の紋様が刻まれていた。
第一接続と同じ組み合わせ。
ただし、そこへ至る橋も階段もない。
深い穴の中央に、石柱だけが立っている。
「飛べということか」
ゼラスが言う。
リズナが空洞へ風を巡らせる。
「普通に飛ぶのは無理。あの魔物が空気の流れを変えてる」
翼獣が六枚の翼を同時に動かした。
渦を巻く風が空洞の壁へぶつかり、複雑な乱流となって戻ってくる。
「私でも、あの中を四人運ぶのは難しい」
「一人ずつなら?」
「戦いながらは無理」
「なら、先に落とす」
ゼラスが剣を抜く。
翼獣が急降下した。
六枚の翼が重なり、黒い槍のような姿で四人へ迫る。
「散って!」
シェルミアの声に合わせ、四人が左右へ跳ぶ。
鉤爪が石床を削った。
翼獣は着地せず、そのまま翼を広げて上昇する。
リズナがシルフィードを振るう。
二本の風刃が翼獣を追う。
翼獣は尾を振り、風の流れを変えた。
一つ目の風刃が逸れる。
だが、二つ目は途中で軌道を曲げ、外側の翼へ食い込んだ。
黒い羽が散る。
「曲がるのか」
ゼラスが言う。
「私の風なんだから、当然でしょ!」
翼獣が鳴き声を上げ、空洞の上部へ逃れる。
リズナは風を広げ、翼の動きを探った。
「次は左から来る!」
直後、黒い巨体が柱の陰から現れた。
リュミエラの術式が空中へ展開される。
紫色の帯が二枚の翼へ絡みついた。
翼獣が強引に羽ばたく。
帯に亀裂が走る。
「長くは保たないわ」
「十分だ」
ゼラスが床を蹴った。
足元から膨大な魔力が噴き出す。
少年の体が空中へ浮かび上がった。
「今回は飛ぶのね!」
「歩ける道がないからな」
ゼラスは翼獣へ真っ直ぐ向かう。
翼獣が拘束を破る。
右の鉤爪が、空中のゼラスへ振り下ろされた。
ゼラスは魔力の放出方向を変え、横へ滑る。
鉤爪を避け、そのまま翼獣の背へ着地した。
剣を翼の付け根へ突き立てる。
黒い血が散った。
翼獣が激しく体を捩る。
「落とすぞ!」
「今、道を作る!」
リズナがシルフィードを両手で構えた。
空洞全体の風を探る。
翼獣が生み出した乱流。
壁へぶつかって戻る風。
ゼラスの飛翔が押し退けた空気。
全ての流れの境目を、一つずつ見極める。
リズナは剣を振り抜いた。
巨大な風刃が空洞を走る。
翼獣そのものではなく、その左側に生まれた乱流を切り裂いた。
複雑に絡んでいた風が二つへ分かれる。
一瞬だけ、空洞の中央へ真っ直ぐな流れが生まれた。
「ゼラス!」
「ああ」
ゼラスが翼獣の背から跳ぶ。
同時に、剣へ炎をまとわせた。
「フレイムランス!」
圧縮された炎の槍が、翼の付け根へ突き刺さる。
先ほどゼラスが剣で作った傷を貫き、体内で炸裂した。
二枚の翼が根元から千切れる。
均衡を失った翼獣が落下を始めた。
残る翼を広げ、必死に姿勢を戻そうとする。
「逃がさない!」
リズナが剣先を下へ向ける。
細く圧縮した風刃を、傷口へ次々と撃ち込む。
黒い翼が切り裂かれ、羽が空洞へ舞った。
リュミエラの術式が残る二枚を拘束する。
翼獣は完全に飛ぶ力を失い、石床へ叩きつけられた。
巨体が跳ねる。
シェルミアが骨の仮面の隙間を見つけた。
「頭部の奥に核がある!」
ゼラスが空中から降下する。
剣を両手で構え、骨の仮面へ振り下ろした。
亀裂が走る。
続いてリズナの風刃が同じ場所へ食い込む。
仮面が砕け、その奥にある黒い核が露出した。
リュミエラの紫色の槍が核を貫く。
翼獣の体が大きく痙攣し、やがて動きを止めた。
「終わったね」
シェルミアが翼獣の反応を確かめる。
「ゼラス、降りられる?」
リズナが空中を見上げる。
ゼラスは中央の石柱付近に浮いていた。
「問題ない」
魔力の放出を弱め、ゆっくりと石柱の上へ着地する。
「本当に飛べるんですね」
シェルミアが言う。
「今さら疑ってたのか?」
「実際に長く飛んだところは初めて見たからね」
「長くはない」
中央の石柱まで、リズナが風の足場を伸ばす。
シェルミアとリュミエラを運び、自分も最後に渡った。
石柱の上には、第一接続と同じ二つの紋様が刻まれている。
炎。
風。
その下に、新しい文字があった。
シェルミアが読み上げる。
「第二接続」
続いて、さらに小さな文字を追う。
「鍵は門を開く」
「器は、外側から流れ込むものを受け止める」
リズナの表情が固まった。
「道を保つ、じゃないの?」
第一接続に刻まれていた役割とは違う。
リュミエラが風の紋様へ術式を伸ばす。
「構造も変わっているわ」
「どう違う?」
ゼラスが尋ねる。
「第一接続では、リズナちゃんの風を門の中で循環させていた。けれど、これは――」
リュミエラの声が止まる。
紫色の術式が、風の紋様から外へ弾かれた。
同時に、百階層からつながっていた細い感覚が強くなる。
リズナが胸元を押さえた。
「リズナ?」
ゼラスがすぐに彼女へ近づく。
「何か、来る……」
風の紋様が淡い緑色に光った。
ゼラスはまだ炎を流していない。
誰も装置へ触れていない。
それでも、石柱の奥で接続が始まる。
『炎の鍵を確認』
赤い紋様が、ゼラスの魔力へ勝手に反応した。
『風の器を確認』
緑の光が石柱から伸び、リズナの足元へ絡みつく。
「離れろ!」
ゼラスが剣を振り下ろす。
炎をまとった刃が緑の光を断ち切った。
だが、切れた光はすぐにつながり直す。
リュミエラが遮断術式を展開する。
「接続元が遠すぎるわ! この石柱だけを壊しても止まらない!」
『第二接続を開始』
リズナの周囲で風が逆巻いた。
彼女自身の魔力ではない。
冷たく、重い。
外側の門で触れたものと同じ流れが、百階層から逆流してくる。
「くっ……!」
リズナがシルフィードを石柱へ突き立てる。
自分の風で、侵入してくる流れを押し返そうとする。
だが、外から来る力は風として形を持っていない。
空気ではなく、魔力そのものが体内へ入ろうとしていた。
ゼラスがリズナの肩を掴む。
「俺の声が聞こえるか?」
「聞こえてる……!」
「自分の魔力だけを回せ。外から来るものは俺が焼く」
「そんなことしたら、私の魔力まで――」
「区別はつくと言っただろ」
ゼラスの掌から、細い炎がリズナの周囲へ広がる。
彼女の風には触れず、緑の光だけへ食い込んでいく。
外側の魔力が炎に焼かれ、白い煙へ変わった。
『器による拒絶を確認』
石柱の声が響く。
『受け入れ容量の測定を続行』
「勝手に測るな!」
リズナが風を爆発させる。
シルフィードから放たれた風刃が、足元の紋様を深く切り裂いた。
緑の光が一瞬だけ揺らぐ。
シェルミアが亀裂へ短剣を差し込んだ。
「この線を切れば、接続を遅らせられる!」
リュミエラの術式が、石柱内部の流れを分断する。
ゼラスはリズナから手を離さず、赤い紋様へ剣先を向けた。
「鍵が必要なんだろ」
炎を一点へ集める。
「なら、壊すのも鍵の役目だ」
圧縮された火球が赤い紋様へ撃ち込まれた。
石柱の内部で爆発する。
炎と風の紋様が同時に砕けた。
緑の光が消える。
外から流れ込んでいた魔力も、リズナの手前で途切れた。
静寂が戻る。
リズナは荒い呼吸を整えながら、シルフィードへ体を預けた。
ゼラスが顔を覗き込む。
「残っているか?」
「少しだけ……でも、私の中には入ってない」
リュミエラがすぐに彼女の魔力を調べる。
「ええ。異物は感じないわ。ゼラスが焼き切ったようね」
「だから言っただろ」
リズナはゼラスへ視線を落とした。
「本当に、区別できたのね」
「疑ってたのか?」
「少しだけ」
「信用がないな」
「今は信用してる」
ゼラスは何も答えず、砕けた石柱へ視線を戻した。
その表面へ、新しい文字が浮かび上がっている。
第二接続、失敗。
風の器、受け入れ拒絶。
炎の鍵、接続破壊。
そして最後に、赤い文字が刻まれた。
シェルミアが息を呑む。
「百階層の受け入れ条件を変更……」
「何に変わった?」
ゼラスが尋ねる。
シェルミアは、次に現れた一文を読み上げた。
「炎の鍵を排除し、風の器のみを回収する」
百階層は、ゼラスを敵として認識した。




