第五十六話 鍵と器
白く濁った目が、石門の中央から二人を見つめていた。
『二つは、百階層へ到達する』
声が途切れても、炎と風の紋様は光り続けている。
リズナはシルフィードを構えたまま、門へ風を伸ばした。
石の向こうにある魔力は、近くにあるようで遠い。
門のすぐ裏側を流れているかと思えば、次の瞬間には迷宮の遥か下から届いているように感じられる。
「やっぱり、距離がおかしい」
「門そのものが、下の階層とつながっているのかもしれないね」
シェルミアは記録板へ紋様を書き写しながら答えた。
「触らないで。まず、何を要求しているのか調べよう」
ゼラスは炎の紋様を見つめる。
「炎を入れれば開くんじゃないのか?」
「そのまま従うつもり?」
リズナが視線を落とす。
「誰かが押しつけた役割だって、自分で言ったばかりでしょ」
「仕組みを確認するには動かす必要がある」
「それはそうだけど」
「それに、何かあれば止めればいい」
「簡単に言うわね」
「止められない量は入れない」
リュミエラが炎の紋様へ術式を重ねる。
紫色の線が、赤い光の縁を慎重になぞった。
「ゼラスの言うとおり、少量だけ試すのは悪くないわ。ただし、私が遮断できるよう準備してからね」
「風の方は?」
リズナが尋ねる。
「こちらは少し複雑ね」
リュミエラは風の紋様へ指先を向けた。
渦を巻く線の内側へ、幾つもの細い輪が重なっている。
「魔力を蓄える形ではないわ。流れ込んだものを、門の内部へ巡らせるための構造よ」
「巡らせる……」
シェルミアが文字の下へ刻まれた細い溝を見つける。
「炎で一度だけ道を開いて、風で開いた状態を保つ。書いてあるとおりの仕組みみたいだね」
リズナが風の紋様を睨む。
「それで、私が器?」
「古い文字の意味を、そのまま現在の言葉へ置き換えたからね」
シェルミアが答える。
「入れ物というより、魔力を循環させる経路に近いと思うよ」
「それでも嫌な呼び方なんだけど」
「なら壊すか?」
ゼラスが尋ねる。
「すぐ壊そうとしないでよ」
「嫌なんだろ」
「調べてから決めるの!」
「俺と同じことを言ってるぞ」
リズナは言い返そうとして、口を閉じた。
少し離れた場所で、シェルミアが笑いを堪えている。
「聞こえてますよ」
「何も言ってないよ」
「顔が言ってます」
リュミエラは二つの紋様を囲むように、遮断術式を組み上げた。
門が二人の魔力を強く吸い始めた場合、外側から接続を切るためのものだ。
シェルミアは門の左右へ伸びる溝を調べ、三か所の分岐点へ短剣を置いた。
「この三本が、門の奥へ魔力を送る線だと思う」
「異常があれば切ればいいのね」
リュミエラが確認する。
「うん。ただ、全部を同時に切ると門の中に魔力が残るかもしれない。右、左、中央の順で止めよう」
ゼラスが炎の紋様へ右手を近づける。
「始めるぞ」
「待って」
リズナが呼び止めた。
ゼラスが、自分より少し高い位置にある彼女の顔を見る。
「何だ?」
「私の方がおかしくなったら、すぐ止めてよ」
「ああ」
即答だった。
「門が何を言っても、リズナが入れた分以上は使わせない」
「……分かった」
リズナも風の紋様へ左手を近づける。
「そっちも無茶しないでよ」
「少ししか入れない」
「ゼラスの少しは信用しにくいのよ」
「では、もっと少なくする」
「最初からそうして」
二人が同時に魔力を流した。
ゼラスの掌から、小さな炎が紋様へ移る。
赤い線が一度だけ強く輝き、門の中央へ向かって走った。
リズナの指先からは、細い風が渦の内側へ入り込む。
風は輪に沿って巡り、赤い線の周囲を包み込んだ。
『炎の鍵を確認』
声が響く。
『出力、不足』
「少ないって言ったからな」
ゼラスが炎を僅かに強めた。
赤い線が門の中央まで届く。
石の内部で、重いものが一つ外れる音がした。
『開路を開始』
門の中央へ、細い亀裂が入る。
だが、左右へ開くことはなかった。
亀裂の奥で赤い光が揺れ、すぐに消えかける。
『風の器を確認』
リズナの紋様が強く光った。
『循環、不足』
「もっと流せということ?」
「待ちなさい」
リュミエラが止める。
「門が求めるまま増やす必要はないわ。リズナちゃん、今の風を外へ広げず、紋様の内側だけで回せる?」
「できます」
リズナは風晶石へ魔力を流した。
風の量を増やすのではなく、既に送り込んだ流れの軌道を整える。
紋様の中で散りかけていた風が、一つの輪へまとまった。
輪は炎の周囲を巡りながら、門の奥へ吸い込まれていく。
『循環を確認』
「量じゃなかった」
シェルミアが記録板へ書き込む。
「一定の流れを保てるか確かめてるんだ」
「だから、風の器なのね」
リュミエラが紋様の奥を見つめる。
「膨大な魔力を入れる者ではなく、開いた道の形を崩さず維持できる者を求めている」
リズナは門へ風を流しながら、眉を寄せた。
「だったら、私じゃなくても風を細かく扱える人ならいいんじゃないですか?」
「おそらくはね」
「ゼラスも?」
「高い火力だけではなく、瞬間的に道を開く密度と制御が必要なのでしょう」
ゼラスが赤い紋様を見る。
「つまり、最初から俺たち個人を知っていたわけではない」
「あの外側の門が二人の魔力を調べ、条件に合うと判断した可能性が高いわね」
リュミエラが答える。
「炎の鍵と風の器は、名前ではなく役割だった」
リズナが僅かに息を吐く。
「私たちだから狙われたんじゃなくて、使える魔力を持っていたから選ばれた……」
「少なくとも、この門から分かるのはそこまでだよ」
シェルミアが言う。
「誰がその役割を用意したのか、何のために百階層へ二人を送ろうとしているのかは、まだ分からない」
「なら、確かめに行く」
ゼラスが炎を保ったまま答えた。
門の亀裂が、ゆっくりと広がり始める。
石門は左右へ開かなかった。
中央の亀裂から赤と緑の光が漏れ、黒い石の表面そのものが薄くなっていく。
やがて門の向こうに現れたのは、通路ではなかった。
巨大な縦穴。
上下の果てが見えない暗闇の中に、赤い光の輪が幾つも浮かんでいる。
輪と輪の間を、淡い緑色の風がつないでいた。
「階段がない」
リズナが風を維持したまま奥を探る。
「でも、下から空気が上がってきています」
「光の輪が足場になるのかな」
シェルミアが小石を一つ投げる。
石は最初の赤い輪へ触れた。
その瞬間、輪の内側へ薄い炎の膜が広がり、小石を受け止める。
風が膜を包み、揺れを抑えた。
数秒後、炎の足場は消え、小石が暗闇へ落ちていく。
「ゼラスが足場を作り、リズナが保たせる構造だね」
「二人が魔力を止めたら?」
リズナが尋ねる。
「落ちるでしょうね」
リュミエラが平然と答えた。
「嫌な仕組みね」
「戻るか?」
ゼラスが尋ねる。
「行くわよ」
リズナは即答した。
「ここまで調べて、今さら戻れるわけないでしょ」
「なら、俺が先に行く」
「今回は飛ばないの?」
「魔力を門へ入れている。無駄遣いはしない」
「相変わらず燃費には厳しいわね」
「落ちれば飛ぶ」
「それなら安心……なのかな」
ゼラスは最初の輪へ跳んだ。
足が触れる直前、炎の膜が広がる。
リズナの風がその外側を巡り、足場を固定した。
ゼラスは一度だけ体重を掛け、周囲を確認する。
「問題ない。来い」
シェルミアが続き、リュミエラが三人目に乗る。
最後にリズナが門の前へ残った。
彼女が手を離せば、風の循環が途切れる。
「リズナちゃん」
リュミエラが紋様と縦穴を見比べる。
「風の流れを、自分の周囲へ移せる?」
「やってみます」
リズナは門へ触れていた手をゆっくりと離した。
紋様の中を巡っていた風が、糸のように彼女の指先へついてくる。
流れを切らず、そのまま自分の体の周囲へ巻きつける。
赤い足場が一度揺れた。
「リズナ」
ゼラスが手を伸ばす。
リズナは風を保ったまま跳んだ。
最初の輪へ着地すると、ゼラスの手首を掴んで体勢を整える。
「大丈夫か?」
「うん。流れも切れてない」
「なら進むぞ」
四人は、縦穴に浮かぶ輪を順に下り始めた。
赤い輪は、下へ進むほど離れていった。
ゼラスが炎を送り込むたび、新たな足場が開く。
リズナの風がその形を保ち、四人が渡り終えるまで崩壊を遅らせる。
一つ。
二つ。
三つ。
上に残した足場は、風が離れた直後に炎の粒となって消えていった。
後戻りはできない。
「下に門があります」
リズナが告げる。
「かなり遠いですけど、今の流れなら届きます」
「階層の表示は見える?」
シェルミアが尋ねる。
「まだ分かりません」
さらに十を超える輪を下りる。
途中の壁には、幾つもの横穴が開いていた。
一つ目の横穴からは、重い獣の呼吸が聞こえる。
別の穴には、青白い光を放つ虫の群れ。
さらに下では、巨大な石像が通路を歩いていた。
だが、赤と緑の道はどの横穴にもつながらない。
それらの区画を越え、さらに下へ続いている。
シェルミアが記録板へ横穴の位置を書き込む。
「七十九階層から先を、まとめて通過してるのかもしれない」
「帰りに全部通ることにならないでしょうね」
リズナが言う。
「あり得るね」
「聞かなかったことにします」
下から吹き上がる風が強くなる。
リズナの風とぶつかり、足場の一部が大きく揺れた。
「風向きが変わります!」
「保てるか?」
ゼラスが尋ねる。
「保つ!」
リズナがシルフィードを抜いた。
剣先で流れを分け、正面から来る風を左右へ切り裂く。
二つに分かれた空気が足場の外側を抜けていく。
揺れていた炎の膜が安定した。
「風を斬ったの?」
シェルミアが目を見開く。
「流れの境目を切っただけです!」
「十分すごいと思うよ」
「今は記録してないで進んでください!」
「もう書いたよ」
「早いですね!」
最後の赤い輪が開く。
その先には、黒い石で造られた円形の足場があった。
四人が順に着地する。
リズナが風を止め、ゼラスも門へ送っていた炎を切った。
上へ続いていた赤と緑の道が、一斉に消える。
暗闇だけが残った。
円形の足場の奥に、新たな石門が立っていた。
シェルミアが横へ刻まれた文字を照らす。
「第八十四階層」
リズナが大きく息を吐いた。
「六階層も飛ばしたの?」
「少なくとも、普通の経路は通らなかったね」
「便利だが、条件が面倒だな」
ゼラスが言う。
「二人そろっていないと使えないもの」
リュミエラが門の構造を調べる。
「外側の門が二人を百階層へ送ろうとした理由が、少し見えてきたわね」
「私たちは、この接続路を動かすために選ばれた」
リズナが自分の手を見る。
「炎で道を作って、風で保つために」
「ええ。けれど、それが百階層で何を動かすためなのかは分からない」
シェルミアが円形の足場の中央へ近づく。
そこには、新しい文字が浮かび上がっていた。
「第一接続を完了」
次の行。
「炎の鍵、適合」
さらに下へ、風を示す文字が現れる。
「風の器、適合」
リズナが顔をしかめる。
「やっぱり、その呼び方は変わらないのね」
最後の一文が、淡い白色で刻まれた。
シェルミアの表情から笑みが消える。
「どうした?」
ゼラスが尋ねる。
シェルミアは、浮かび上がった文字を読み上げた。
「百階層の受け入れ準備を開始する」
遥か下で、巨大な何かが動き始めた。




