第五十五話 追うべきもの
壁を隔てた向こう側から、ミテイの足音が遠ざかっていく。
四人の前にも、別の通路が開いていた。
二本の道は互いに反対へ曲がり、霧の中へ消えている。
「追わなくていいの?」
リズナが壁の向こうへ風を伸ばす。
ミテイの反応はまだ捉えられる。
だが、迷宮が作った灰色の道を進んでいるためか、その位置は絶えず揺れていた。
「追っても、また別の道へ逃げられるだけだよ」
シェルミアは記録板へ二つの経路を書き込んだ。
「それに、私たちがここへ来た目的は、ミテイを捕まえることじゃない」
「外側の門と、あの白い声ね」
リュミエラが静かに続ける。
「なぜゼラスが炎の鍵と呼ばれ、リズナちゃんが風の器として狙われたのか。その理由を調べるために、百階層を目指している」
ゼラスは壁の向こうから視線を外した。
「あいつを追うことに時間を使えば、また目的から外れる」
「分かってるけど……」
リズナは少しだけ言葉を濁した。
白いものだった頃のミテイは、何度も四人を襲った。
姿や声を盗み、迷宮の記録を利用して先回りした。
それでも、名前と自分の体を得た今の姿を見ていると、単純に敵として切り捨てにくくなっている。
ゼラスが、自分より少し高い位置にあるリズナの顔を見る。
「迷ったままでも進める」
「え?」
「敵かどうか、今決める必要はない」
「……そうね」
「次に襲ってきたら斬るがな」
「そこは迷わないのね」
「襲われてから迷う方が危険だろ」
シェルミアが記録板を閉じる。
「ミテイのことは、経路が重なった時に確かめよう。今は百階層へ向かう」
リュミエラが四人の前に現れた通路へ術式を伸ばした。
「こちらは下へ続いているわ。魔力の流れも、迷宮の中心へ向かっているようね」
「階層を下りる道?」
リズナが尋ねる。
「おそらくは」
シェルミアが入口の上に浮かぶ文字を確認する。
「第七十五階層への経路で間違いないよ」
「今度は七十三階層みたいに長くないといいんだけど」
リズナが呟く。
「七十四階層は、思ったより短かったね」
「短かったというより、ミテイが道を作ったせいで途中を飛ばした可能性もあるよ」
「それ、帰り道は大丈夫なんですか?」
「今から心配しても仕方ないね」
「シェルミアさん、時々ゼラスと同じこと言いますよね」
「合理的な結論は似るものだよ」
「俺を巻き込むな」
四人は、灰色の道へ足を踏み入れた。
第七十五階層は、細い石柱が林立する場所だった。
天井まで届く柱が無数に並び、真っ直ぐ進める道はない。
柱の隙間には、黒い蔦のような魔物が潜んでいた。
四人の魔力を感じると、石へ擬態していた表面を剥がし、一斉に襲いかかってくる。
「右から三本!」
リズナの声に合わせ、ゼラスが剣を振るう。
正面から伸びてきた二本をまとめて斬り落とし、残る一本を炎で焼いた。
切断された蔦は石床の上で跳ね回る。
シェルミアの短剣が根元へ突き刺さり、その動きを止めた。
「柱そのものに寄生してるね」
「全部調べるつもりですか?」
リズナが尋ねた直後、柱の上部から十数本の黒い蔦が垂れ下がった。
「上から来る!」
リズナがシルフィードを振り上げる。
刃から放たれた風が、薄い弧を描いて柱の間を走った。
最前列の蔦が切断される。
風刃はそのまま軌道を曲げ、続く二本、三本をまとめて斬り裂いた。
切れた蔦が石床へ落ち、激しくのたうつ。
「まだ根元が生きてるよ!」
シェルミアが柱の裏側を示す。
リズナは足元へ風を集め、一気に距離を詰めた。
左右から黒い蔦が襲いかかる。
シルフィードを横へ薙ぐ。
剣の斬撃へ重なった風が間合いを伸ばし、近づく前に蔦を両断した。
「そこね!」
露出した根元へ、細く絞った風を放つ。
圧縮された風刃が黒い塊の中央へ食い込み、硬い表皮ごと深く切り裂いた。
蔦の動きが一瞬止まる。
ゼラスの炎が傷口へ入り込み、内側から本体を焼いた。
リュミエラの術式が逃げ道を塞ぎ、最後にシェルミアの短剣が核を貫く。
柱を覆っていた蔦が、一斉に力を失った。
「これが本体だね」
シェルミアが短剣を抜く。
「最初から本体だけ狙えなかったのか?」
ゼラスが尋ねる。
「見つけるために戦ってたんだよ」
「遠回りだな」
「探索っていうのは、そういうものだよ」
シェルミアは根元の形を手早く記録し、すぐに立ち上がった。
以前なら、もう少し長く調べていただろう。
それでも今は、迷宮の奥へ進むことを優先している。
リズナが僅かに笑う。
「ちゃんと急いでるんですね」
「私だって目的は忘れてないよ」
「少し安心しました」
「少しなんだ」
リュミエラの術式が周囲の柱へ薄く広がる。
魔力に反応して動く蔦だけが、紫色の光に縁取られた。
「左の列を進みましょう。あちらには少ないわ」
「最初からそれをしてくださいよ」
「リズナちゃんが感知できていたから、必要ないと思っていたの」
「できるけど、数が多いんです!」
ゼラスが先頭へ出る。
「話している間にも集まってるぞ」
紫色の光に縁取られた蔦が、柱の陰から次々と姿を現す。
リズナはシルフィードを握り直した。
「分かってるわよ!」
二度、剣を振るう。
交差する風刃が柱の間を駆け抜け、進路を塞いでいた蔦をまとめて切り払った。
四人はその隙間を抜け、柱の森を進んでいく。
背後で生き残った蔦が追い縋ろうとする。
振り返ったリズナが剣先を向けた。
細い風の刃が根元だけを正確に断ち切る。
追ってきた蔦は、四人へ届く前に石床へ崩れ落ちた。
柱の森を抜けると、第七十六階層へ続く下り坂が現れた。
第七十六階層は、浅い水で満たされていた。
足首ほどの深さしかない。
だが、ゼラスが水面へ足を乗せた瞬間、僅かに眉を寄せた。
「どうしたの?」
リズナが尋ねる。
「水か」
「見れば分かるわよ」
「俺は水魔法が使えない」
「ただ歩くだけでしょ?」
「ああ。だから問題ない」
「じゃあ、何で止まったのよ」
「確認しただけだ」
リュミエラが口元へ手を添える。
「ゼラスにも、苦手なものを見ると一度止まる癖があるのね」
「苦手ではない。使えないだけだ」
「同じようなものでしょ」
「違う」
水面の下には、細い銀色の魚が群れていた。
近づく者の魔力を吸い、体内で光へ変える魔物だった。
リズナが水面の上へ風を走らせる。
薄い風の刃が魚の群れの進路を切り分け、四人の通る場所だけを空けていく。
近づこうとした一匹が水面から跳ねた。
リズナが指先を払う。
細い風刃が魚の軌道を外し、離れた水面へ叩き落とした。
リュミエラが魔力の薄い足場を作り、シェルミアが安全な経路を選ぶ。
ゼラスだけは普通に水の中を歩いている。
「足場、使わないの?」
リズナが尋ねる。
「歩けるからな」
「靴、濡れるわよ」
「乾かせる」
ゼラスの足元から、ごく小さな炎が広がる。
触れた水だけが蒸気へ変わった。
「水魔法は使えないのに、そういう解決なのね」
「使えるもので対処すればいい」
「ほんと力任せ」
「飛ぶよりは燃費がいい」
リズナが吹き出す。
「まだ気にしてたの?」
「事実を言っただけだ」
水の階層を越え、第七十七階層へ。
そこでは壁から現れた石の兵士たちを退けた。
正面から迫る槍をゼラスが受け流す。
リズナの風刃が、背後から接近していた二体の首元を同時に切り裂いた。
石の頭部が床へ落ちる。
残る兵士はリュミエラの術式で動きを封じられ、シェルミアが胸部の核を砕いた。
続く第七十八階層は、ひび割れた黒い回廊だった。
魔物の姿は少ない。
代わりに、壁の奥から低い音が一定の間隔で響いている。
リズナが足を止めた。
「待って」
「何か感じた?」
シェルミアが尋ねる。
リズナは風晶石へ手を添え、回廊全体へ細い風を流す。
壁。
床。
天井。
その奥を巡る魔力。
今までの階層とは違う流れが、さらに下から上がってきていた。
「知ってる魔力があります」
「誰の?」
「誰の、というより……」
リズナはゼラスを見る。
「外側の門で感じた流れに似てる」
四人の表情が変わる。
リュミエラが壁へ手を触れた。
紫色の術式が、黒い石の奥へ染み込んでいく。
「確かに似ているわ」
「白いものの魔力か?」
ゼラスが尋ねる。
「いいえ。ミテイが使っていたものとも違う」
リュミエラは目を閉じたまま答える。
「もっと大きな流れよ。あの白い声が、外側の門を通して二人へ触れた時と同じ性質がある」
「百階層から来ているの?」
リズナが尋ねる。
「方向だけなら、さらに下ね」
シェルミアは回廊の先へ記録板を向けた。
「追える?」
「この階層ではね」
リズナが風の向きを確かめる。
「奥へ続いています」
四人は歩調を速めた。
回廊の最深部には、閉じた石門があった。
表面には二つの紋様が刻まれている。
一つは、燃え上がる炎。
もう一つは、渦を巻く風。
ゼラスとリズナが同時に足を止めた。
第七十二階層の門。
迷宮の隠し部屋。
そして、白いものが追い続けていた二つの魔力。
これまで何度も見てきた組み合わせだった。
石門の中央へ、古い文字が浮かび上がる。
シェルミアが読み取った。
「炎は道を開く鍵」
次の文字。
「風は、開かれた道を保つ器」
リズナの指先が僅かに強張った。
「やっぱり、私たちのこと……?」
「まだ断定はできない」
ゼラスが二つの紋様を見つめる。
「だが、偶然ではないな」
リュミエラが門の術式を調べる。
「この先から、外側の門と同じ流れが来ているわ」
「なら、開ける?」
シェルミアが尋ねる。
「今までの扉とは違う。二人の魔力を要求しているようね」
リズナが炎の紋様を見る。
「ゼラスが鍵で、私が器……」
「言葉どおりに従う必要はない」
ゼラスが言う。
リズナが彼へ視線を落とす。
「どういう意味?」
「誰かが俺たちへ押しつけた役割だ。開けるにしても、言われたとおりに使われるつもりはない」
「そうね」
リズナはシルフィードを握り直した。
「理由を調べに来たんだもの。言うことを聞きに来たわけじゃない」
「ええ」
リュミエラが微笑む。
「ようやく、本来追うべきものへ戻ってきたわね」
シェルミアは門の文字を記録板へ写し終え、二人を見る。
「開ける前に、仕組みを調べよう。今度は相手の思いどおりには動かない」
その時、門の向こうから声が響いた。
白いものが借りていた声ではない。
ミテイのものでもない。
遠く、深い場所から直接届くような声だった。
『炎の鍵を確認』
炎の紋様が赤く光る。
続いて、風の紋様へ淡い緑色の光が走った。
『風の器を確認』
リズナが風を広げる。
「門の向こうに、何かいます」
「どれくらい先だ?」
「分からない。近くにも、ずっと下にも感じます」
最後に、石門の中央へ一つの目が浮かび上がった。
白く濁った瞳が開き、ゼラスとリズナを見つめる。
『二つは、百階層へ到達する』
二人を選んだ声は、百階層で待っていた。




