第五十四話 未定の名
霧の奥へ消えた白い者を追い、四人は第七十四階層を進んだ。
足元には、灰色の線が一本だけ伸びている。
第五の通過者のために現れた道だ。
リュミエラが歩きながら指先を動かす。
紫色の魔力が四人の足元へ広がり、先ほど遮断した記録との接続を一つずつ戻していった。
「これで、この階層から出る時にも私たちを認識できるはずよ」
「また偽物が出てくる可能性は?」
リズナが尋ねる。
「あるでしょうね。けれど、接続を切ったまま進む方が危険よ。迷宮から侵入者と判断されるかもしれないもの」
「面倒な階層だな」
ゼラスが言う。
「記録されるのも駄目で、記録されないのも危険かもしれないなんて」
リズナが小さく息を吐く。
「七十三階層よりは短いといいんだけど」
「まだ始まったばかりだよ」
シェルミアは灰色の線を記録板へ書き写している。
「この階層は、通過した者へ形と名前を与える場所なのかもしれないね」
「形は分かるけど、名前まで迷宮に決められるの?」
「決めるというより、確認するんじゃないかな。私たちには既に名前があるから、何も起きなかった」
「だが、あいつにはない」
ゼラスが霧の先を見る。
白い者の魔力は、まだ遠くへ移動していない。
一定の場所に留まっている。
「止まってます」
リズナが風を細く伸ばす。
「この先に大きな壁があります。白いものは、その前にいるみたいです」
「自分で道を開けられなかったのかもしれないね」
シェルミアが歩調を速める。
「今なら追いつけるよ」
灰色の線の先に、巨大な石壁が現れた。
左右の端は霧に隠れ、どこまで続いているのか分からない。
壁の中央には、縦に並んだ五枚の石板が埋め込まれていた。
一枚目。
ゼラス。
二枚目。
リュミエラ。
三枚目。
シェルミア。
四枚目。
リズナ。
四人の名前が、古い文字で刻まれている。
最後の石板だけは空白だった。
その前に、白い者が立っていた。
色のない短い髪。
リズナより僅かに低い背丈。
灰色の瞳。
ゼラスに斬られた肩には、まだ細い傷が残っている。
壁にも床にもつながらず、自分の魔力だけで体を保っていた。
『開かない』
白い者は、空白の石板へ手を触れている。
シェルミアが足を止めた。
「名前がないからだね」
白い者が振り返る。
『名前』
「この石板は、通過者の名前を確認してる。私たちの名前はあるけど、あなたのところだけ空白だよ」
『空白』
白い者は、自分の前にある石板を見る。
指先で表面をなぞっても、文字は現れない。
『名前があれば、開く』
「たぶんな」
ゼラスは剣を抜いたまま答えた。
『ゼラス』
白い者が口にする。
空白の石板へ文字が浮かんだ。
ゼラス。
だが、隣に刻まれた一枚目の名前が強く光る。
『重複』
壁の奥から平坦な声が響いた。
空白の石板に現れた文字が消える。
リズナが僅かに口元を引きつらせた。
「やっぱり、他人の名前は使えないみたいね」
白い者は次の名前を口にした。
『リズナ』
再び文字が浮かぶ。
四枚目の石板が光った。
『重複』
「私の名前も駄目よ」
『リュミエラ』
『重複』
『シェルミア』
『重複』
四つの名前を全て試し終え、白い者は空白の石板を見つめた。
「手当たり次第に使わないでくれる?」
リズナが腰へ手を当てる。
『名前が、必要』
「だからって、私たちの名前を盗ったら駄目でしょ」
『盗る』
「自分のものじゃない名前を、勝手に使うってこと」
白い者は少し考える。
『声も、姿も、魔力も使った』
「それも勝手に使ってたのよ」
『なら、名前も使える』
「使えてないでしょ。今、全部拒否されたじゃない」
白い者が石板へ顔を向ける。
灰色の瞳が、僅かに細くなった。
『名前を、くれ』
「誰に言ってるの?」
『リズナ』
「どうして私なのよ」
『一番、答える』
リズナが言葉に詰まる。
隣でゼラスが小さく頷いた。
「間違ってないな」
「そこで納得しないでよ」
シェルミアが白い者へ問いかける。
「名前が何かは分かってる?」
『一人を、他と分けるもの』
「誰から聞いたの?」
白い者がゼラスを見る。
『記録の中』
「意味は理解しているらしいな」
ゼラスが言う。
「なら、自分で選べばいい」
『何を選ぶ』
「好きな言葉でも、気に入った音でも何でもいい。俺たちに聞くことじゃない」
白い者は黙り込んだ。
石板。
四人。
自分の両手。
順番に見つめる。
『好き』
「それも自分で決めるものよ」
リュミエラが穏やかに答えた。
「名前は、ただ呼び分けるだけの記号でもあるわ。でも、誰かに呼ばれて、それに自分が答え続ければ、少しずつ自分のものになる」
『呼ばれる』
「ええ」
『答える』
「そうよ」
白い者は再びリズナへ顔を向けた。
『呼んで』
「名前がないのに、どう呼ぶのよ」
『白いもの』
「それは私たちが勝手にそう呼んでただけでしょ」
『白いもの』
「名前というより見たままね」
リュミエラが僅かに笑う。
「白いの、でも変わらないよね」
シェルミアが言った。
「もっと本人らしい名前を考えた方がいいと思うよ」
『本人らしい』
白い者が自分の胸へ手を当てる。
『私は、何』
「それを私たちに聞かれても困るわよ」
リズナは灰色の瞳を見つめた。
以前の白いものには、問いかけに見える動きしかなかった。
今は違う。
答えを欲しがっていることが、表情から分かる。
「すぐに決めなくてもいいんじゃない?」
リズナが言う。
『決めなければ、開かない』
「そうだけど……適当に決めて、後で嫌になるよりはいいでしょ」
『今は、決まっていない』
「だったら、まだ未定ってことだね」
シェルミアが何気なく答えた。
白い者が、彼女へ顔を向ける。
『未定』
「ああ、名前が決まっていないって意味だよ」
『ミテイ』
「いや、それは名前じゃなくて――」
白い者が石板へ手を触れた。
『私の名前は、ミテイ』
空白だった石板へ、文字が浮かび上がる。
ミテイ。
五枚の石板が同時に灰色の光を放った。
『名称を確認』
シェルミアが目を見開く。
「通った……」
「それでいいの?」
リズナが白い者へ尋ねる。
『今は、決まっていない』
「だから未定なんでしょ?」
『だから、ミテイ』
「そうじゃなくて……」
リズナが言葉を探している間に、石壁の中央へ亀裂が走った。
重い音と共に、左右へ開き始める。
白い者――ミテイが、開いた道へ足を踏み入れた。
「待て」
ゼラスが呼び止める。
ミテイが振り返る。
『何』
「名前を決めたなら、もう俺たちのものを使うな」
灰色の瞳がゼラスを見つめる。
『声も?』
「ああ」
『姿も?』
「自分のものがあるだろ」
ミテイは、自分の細い両腕を見る。
肩に残った傷へ触れた後、小さく頷いた。
『分かった』
「素直に聞くのね」
リズナが驚いたように呟く。
『私は、ミテイ』
誰のものでもない声で、自分の名を口にする。
『ゼラスではない。リュミエラではない。シェルミアではない。リズナではない』
「そうね」
リズナは警戒を解かないまま答えた。
「少なくとも、今はそういうことにしておくわ」
『今は』
ミテイの口元が、僅かに持ち上がった。
それは四人の誰から借りたものでもない、ぎこちない笑みだった。
『次は、ミテイが選ぶ』
ミテイは開いた通路へ走り出す。
「結局、先へ行くのか!」
リズナが風を放つ。
だが、扉の奥から灰色の膜が現れ、風を遮った。
『第五通過者を確認』
石壁の声が響く。
『ミテイの経路を形成』
ミテイの足元から、新しい灰色の道が伸びていく。
四人の前には別の道が現れた。
一本の壁を挟み、二つの通路が並行して奥へ続いている。
「また別の道か」
ゼラスが剣を握り直す。
シェルミアは五枚目の石板を見つめた。
そこにはもう、空白はない。
第五通過者。
ミテイ。
「仮のつもりで言ったんだけどな……」
「迷宮が受け付けたなら仕方ないだろ」
ゼラスが言う。
「お前が名付けたようなものだな」
「私が?」
シェルミアが困ったように笑う。
「責任、取った方がいいのかな」
「何の責任ですか」
リズナが尋ねる。
壁の向こうから、ミテイの声が届く。
『シェルミア』
「何?」
『名前を、ありがとう』
足音が遠ざかっていく。
シェルミアはしばらく黙った後、記録板を開いた。
新しいページの上部へ、短く書き込む。
第五通過者――ミテイ。
その文字の下へ、壁の向こうから新たな声が響いた。
『第七十五階層への経路を選択』
四人の前にある道と、ミテイが進んだ道。
二本の通路が、互いに反対の方向へ曲がっていく。
同じ名を持たない五人は、再び別々の道を選ばされた。




