第五十三話 誰でもない顔
『記録を開始する』
灰色の霧に浮かぶ五つの影が、同時に顔を上げた。
四つは、既に形を定めている。
少年の姿をしたゼラス。
長い髪を持つリュミエラ。
短剣と記録板を携えたシェルミア。
赤い短髪と尖った耳を持つリズナ。
残る一つだけが、定まらない。
少年ほどに縮んだかと思えば、リュミエラよりも大きくなる。
腕が二本から四本へ増え、獣のように四肢を床へつく。
次の瞬間には細い人影へ戻り、顔のない頭部を四人へ向けた。
「私たちの姿は、もう完成してる」
リズナが風を巡らせる。
霧の中に浮かぶ四体から、それぞれ本人とよく似た魔力が返ってきた。
だが、第五の影だけは違う。
火。
風。
紫色の術式。
迷宮の壁から取り込んだ魔力が、輪郭の内側で絶えず入れ替わっている。
「まだ、どの姿になるか選んでいるみたいです」
「記録される側になったのね」
リュミエラが第五の影を見つめる。
「これまでは他者の記録を利用するだけだった。けれど、この階層はあれ自身を一人の通過者として扱っている」
『一人』
誰のものでもない声が、霧の中から響いた。
第五の影の口が開いている。
『私も、一人』
「勝手に数へ入っただけだろ」
ゼラスが剣を抜く。
第五の影が少年の姿へ縮む。
顔に、ゼラスの目と口が浮かび上がった。
『勝手に数へ入っただけだろ』
「俺の顔を使うな」
ゼラスの剣へ炎が走る。
第五の影が、今度はリズナと同じ背丈へ変わった。
短い髪。
尖った耳。
だが、顔の右半分はゼラスのままだ。
『俺の顔を使うな』
「混ざってる!」
リズナが顔をしかめる。
「見れば分かる」
「私の顔も入ってるのよ!」
『私の顔も入ってるのよ!』
「だから喋らないで!」
第五の影が、僅かに首を傾げる。
その仕草までリズナと同じだった。
シェルミアは周囲の霧へ目を凝らす。
「今は相手をしてる場合じゃないよ。この階層の仕組みを止めないと、何度壊しても記録から作り直される」
「接続は見えるか?」
ゼラスが尋ねる。
「霧で床が見えない。リズナ、少しだけ散らせる?」
「やってみます」
リズナがシルフィードを横へ振るった。
風が円形に広がり、足元の霧を押し退けていく。
黒い石床が現れた。
床には五つの円が刻まれている。
四つは現実の四人の足元。
最後の一つだけが、第五の影の下で白く光っていた。
それぞれの円から細い線が伸び、霧の中に浮かぶ影へつながっている。
「やっぱり、五人分が別々に記録されてる」
シェルミアが記録板へ形を書き込む。
「第五の円を壊せば、あれだけ止められるかもしれない」
『壊す』
第五の影が床を見る。
白い足が円へ沈んだ。
直後、周囲の霧が激しく渦を巻いた。
「隠すつもりです!」
リズナが風を強める。
霧が押し戻される。
だが、第五の影の両腕が大きく広がり、白い風を放った。
二つの風がぶつかり、石床の上で渦を作る。
第五の影の顔が、完全にリズナへ変わった。
『ここは通さない!』
「それ、私が言った言葉でしょ!」
「今は言葉より風を押さえて」
シェルミアが叫ぶ。
「分かってます!」
リズナが風晶石へ魔力を流す。
本物の風が白い風を押し返した。
第五の影の輪郭が揺れる。
その隙に、ゼラスが駆け出した。
真っ直ぐ第五の円へ向かう。
影の右腕が剣へ変わった。
青年姿のゼラスが使っていた長い刃。
現在の少年姿では扱いにくい大きさだが、影は構わず振り下ろす。
ゼラスは半歩だけ横へ避けた。
白い刃が石床を叩く。
「形を選ぶなら、もう少し考えろ」
ゼラスが影の手首を斬り落とした。
腕が霧へ崩れる。
だが、床の円から白い魔力が流れ込み、すぐに新しい腕が生えた。
今度はリュミエラの細い腕。
指先に紫色の術式が浮かぶ。
『拘束するわ』
「私の術式を使うなら、接続を隠した方がいいわよ」
本物のリュミエラが指を動かす。
第五の影が組み上げた術式へ、紫色の線が差し込まれた。
白い拘束帯が完成する前に、内側からほどけていく。
影の腕にも亀裂が走った。
「今よ、ゼラス」
「ああ」
ゼラスが第五の円へ剣を突き立てる。
刃は石へ僅かに食い込んだ。
だが、円の表面が水のように揺れ、剣を横へ滑らせる。
「実体がないぞ」
「円そのものが霧と同じ状態になってる!」
シェルミアが床へ短剣を突き刺す。
円の外側は硬い。
白く光る線だけが、触れた刃をすり抜けていた。
「記録が完成するまで、形を固定しない仕組みみたいだね」
「完成まで待つしかないの?」
リズナが尋ねる。
「待ったら、あれに体ができる」
「では、記録の流れを乱しましょう」
リュミエラが五つの円を見渡す。
「第五の円だけを壊せないなら、流れ込む情報を選べなくすればいいわ」
「どうする?」
「私たちの記録を止めるのよ」
リュミエラが自分の足元にある円へ魔力を流す。
紫色の術式が白い線を覆った。
霧の中に浮かんでいた記録のリュミエラが動きを止める。
その輪郭が薄くなった。
「自分の記録との接続を切ったの?」
シェルミアが尋ねる。
「一時的にね。全員が同時に切れば、あれが参照できる形を減らせるはずよ」
「戻せる?」
「おそらく」
「おそらくなんですね」
リズナが僅かに顔を引きつらせる。
「この階層から出る前には戻すわ」
「分かりました」
リズナが自分の円へ風を流し込む。
白い線の内側を風が巡り、接続を押し返した。
霧の中の記録されたリズナから、赤い髪と瞳の色が抜けていく。
シェルミアも短剣を円の縁へ差し込み、魔力の流れを物理的に遮った。
最後に、ゼラスが自分の足元を見る。
「俺はどうすればいい?」
「魔力を逆に流して」
リュミエラが答える。
「細かい制御は必要ないわ。あなたなら、量で押し返せるでしょう?」
「随分と雑だな」
「飛ぶよりは効率がいいわよ」
ゼラスは何も言い返さず、足元へ魔力を流した。
大量の魔力が白い線を逆流する。
少年姿の記録が大きく揺れ、そのまま霧へ崩れた。
四つの影が消える。
残ったのは、形を定められない第五の影だけだった。
『形が、ない』
白いものが自分の両手を見る。
右手はゼラス。
左手はリュミエラ。
片脚はリズナ。
胴体だけがシェルミアに近い。
だが、どれも次第に輪郭を失っていく。
『選べない』
「そのまま消えてくれれば助かるんだけどね」
シェルミアが第五の円を観察する。
白い光が弱くなっていた。
「もう少しです!」
リズナが風を強める。
第五の影が膝をつく。
借りていた髪が消える。
尖った耳が丸く戻り、長かった腕が縮む。
顔に浮かんでいた四人の特徴も、溶けるように消えていった。
最後に残ったのは、目も口もない白い頭部だけだった。
『形が、ない』
「元からなかったんだろ」
ゼラスが剣を向ける。
『元から』
白い影の声が小さくなる。
『私は、誰でもない』
床の円に亀裂が入った。
白い影の輪郭が、霧へ変わり始める。
リズナが息を吐く。
「消えます」
「油断しないで」
シェルミアが第五の円から目を離さない。
亀裂は少しずつ広がっていた。
白い光も弱まり、影の両脚が完全に霧へ溶ける。
だが、その時。
第五の影が顔のない頭部を上げた。
『誰でもない』
声が変わった。
これまで取り込んだ誰の声でもない。
門を開けた時に一度だけ聞こえた、不安定な声。
『だから、選べる』
第五の円が砕けた。
白い光が爆発する。
四人が目を庇う。
霧が一斉に中心へ吸い込まれていった。
「何が起きてるの?」
リズナが風を広げる。
先ほどまで第五の影がいた場所。
そこへ、霧が集まり続けている。
ゼラスの形ではない。
リュミエラでもない。
シェルミアでも、リズナでもない。
背丈は、少年姿のゼラスより高く、リズナより僅かに低い。
細い手足。
色のない短い髪。
白に近い肌。
顔立ちは整っているが、四人の誰にも似ていない。
瞼が開く。
灰色の瞳が、初めて自分の意思で四人を見た。
「記録が切れたのに、形を作った……?」
シェルミアが呟く。
リュミエラが新たな体へ術式を伸ばす。
「壁にも、床にもつながっていないわ」
「魔力は?」
リズナが風で探る。
体内に細い流れがある。
これまでの白い模造体とは違う。
不完全ながらも、頭から足まで一つにつながった魔力の循環。
「自分の中だけで巡っています」
「なら、切れば終わるな」
ゼラスが踏み込む。
白い者は動かなかった。
炎をまとった剣が首元へ迫る。
その直前、灰色の瞳がゼラスを捉えた。
床を蹴る。
白い体が、ぎこちなく横へ跳んだ。
剣先が肩を浅く斬る。
白い血のような液体が散った。
だが、傷は塞がらない。
壁から魔力も流れ込まない。
白い者は自分の肩へ手を当て、指についた液体を見つめた。
『痛い』
「今までだって斬られてただろ」
『違う』
初めて、自分の声だけで答えた。
『これは、私の痛み』
ゼラスが再び剣を構える。
白い者は一歩後退する。
その動きは遅い。
戦い方も、まだ定まっていない。
だが、霧の奥で何かが光った。
第五の円があった場所から、細い灰色の線が伸びている。
白い者の体ではない。
広間の奥へ続いていた。
シェルミアが気づく。
「待って! あれは接続じゃない!」
「では、何?」
「この階層が、第五の通過者へ作った道だよ!」
白い者が灰色の線へ足を乗せた。
霧の奥に、細い通路が浮かび上がる。
「逃がすか!」
リズナの風が背後から吹きつける。
白い者の体が前へ押される。
だが、倒れずにその勢いを利用し、通路へ飛び込んだ。
「私の風を使った?」
「違う。押された力を利用しただけだ」
ゼラスが追う。
灰色の通路へ入る直前、白い者が振り返った。
顔には、誰の表情も浮かんでいない。
それでも、灰色の瞳には明らかな意思があった。
『次は、私が選ぶ』
通路の奥へ姿が消える。
ゼラスが続いて踏み込もうとした瞬間、灰色の線が途切れた。
通路も霧へ溶けていく。
リズナが風を伸ばす。
「待って! まだ近くにいます!」
「場所は?」
「分かりません。壁の中じゃない。階層そのものを移動してるみたいです!」
霧が再び広間を覆う。
床にあった五つの円も、浮かんでいた四人の記録も消えていた。
残ったのは、白い者の肩から落ちた一滴だけ。
リュミエラが術式でそれを包み込む。
液体は逃げない。
別の形にも変わらない。
ただ、白い雫として石床の上に残っている。
「本当に、独立した体を得たのね」
シェルミアが灰色の通路が消えた場所を見つめる。
「もう、壁を通らなくても動ける」
ゼラスが剣についた白い液体を払った。
「だが、斬れば傷つく」
「今までより倒しやすくなった?」
リズナが尋ねる。
「そうとも限らないわ」
リュミエラが封じた雫を見つめる。
「供給を断てば消える存在ではなくなった。学んだことも、自分の中へ残せるでしょうね」
「それに、もう私たちの真似をする必要がない」
シェルミアが静かに続ける。
「次に会う時、どんな動きをするか分からないよ」
霧の奥から、石が動く音がした。
正面の壁が左右へ開く。
その先には、下へ続く一本の通路が現れていた。
入口の上に、古い文字が浮かび上がる。
シェルミアが読み取る。
「第五通過者の記録を完了……」
その下へ、さらに新しい文字が刻まれた。
「名称、未登録」
リズナが眉を寄せる。
「名前まで必要なの?」
誰も答えない。
遠く離れた霧の中。
誰の声でもない声が、小さく響いた。
『名前』
一度だけ、その言葉を確かめる。
『次は、名前を選ぶ』
誰でもなかった白いものは、初めて自分の名を求めた。




