第五十二話 五人目の通過者
『通過者、五名』
平坦な声が、長い階段へ響いた。
四人は動きを止める。
ゼラスが、閉じた石扉へ振り返った。
「五人?」
リズナはすぐに周囲へ風を巡らせる。
階段を下る空気。
四人分の呼吸。
衣服の擦れる音。
それ以外に、動くものはない。
「誰もいません。私たち以外の呼吸も、足音も感じません」
「扉が過去の記録を数えた可能性は?」
シェルミアが尋ねる。
リュミエラは石扉へ手をかざした。
「いいえ。今の言葉は、この扉を越えたものを数えた結果よ」
「なら、本当に五つ通ったのか」
ゼラスが階段の奥へ視線を向ける。
先ほどまで誰もいなかった空間に、何かが先回りしている気配はない。
リズナも風を広げたまま首を横へ振る。
「前にもいません」
「姿のない記録でも混ざったのかな」
シェルミアが腰の記録板へ手を伸ばす。
その時、小さな音がした。
かさり、と。
シェルミアの腰に下げられた小袋が、僅かに揺れる。
リズナの尖った耳が動いた。
「シェルミアさん。その袋です」
「甲殻の欠片?」
シェルミアは小袋を外し、石段へ置いた。
記録されない通路で倒した、魔力をほとんど持たない魔物の甲殻。
紐を解こうとした瞬間、背後の扉が再び光った。
四つの手形の横。
何も刻まれていなかった黒い石へ、細長い灰色の線が浮かび上がる。
人の手形ではない。
指も掌もなく、一本の亀裂のような形だった。
『第五通過記録を確認』
「袋から離れて!」
シェルミアが後方へ跳ぶ。
リュミエラが紫色の障壁で小袋を囲んだ。
ゼラスは剣を抜き、リズナもシルフィードを構える。
小袋の中から、硬いものが擦れる音がした。
一度。
二度。
やがて、袋の布に白い点が浮かび上がる。
点は細い線となり、縫い目に沿って動き始めた。
「やっぱり、あれが入ってる!」
リズナが風で袋を押さえ込む。
リュミエラが術式を狭めた。
「黒い通路で消滅したように見せて、魔物の甲殻へ潜り込んだのね」
「魔力は感じなかったよ」
シェルミアが目を細める。
「甲殻そのものに化けてたんだ。あの通路では魔力を保てないから、魔力をほとんど持たないものへ姿を変えた」
「知らない道へ適応したということか」
ゼラスの剣へ炎が宿る。
「焼くぞ」
小袋が内側から弾けた。
黒い甲殻の欠片が幾つも飛び散る。
その間から、髪の毛ほどの白い糸が飛び出した。
ゼラスが剣を振るう。
炎が白い糸を捉える直前、その表面が黒く変わった。
周囲の石と同じ色。
魔力の反応も消える。
「見えなくなった!」
リズナが風を広げる。
魔力ではなく、空気の僅かな乱れを探る。
黒い糸は石段の上を滑り、中央を走る淡い光の線へ向かっていた。
「そこ!」
リズナがシルフィードを振るう。
風の刃が石段を削る。
黒い糸は直前で跳ね、床の光へ触れた。
白い光が一度だけ強く瞬く。
糸の体が光の中へ沈んだ。
「床の術式へ入ったわ!」
リュミエラが手を伸ばす。
紫色の線が階段を走った。
だが、淡い光の流れは既に奥へ向かって動き始めている。
白いものは、その中を滑るように下っていった。
『知らない道を、知った』
階段の奥から、幾つもの声を重ねた言葉が届く。
『次は、知らない形を選ぶ』
「待て!」
ゼラスが階段を駆け下りる。
リズナたちも後を追った。
中央の光は、長い階段の下へ続いていた。
白いものの反応は微弱だ。
光の中へ混ざり、時折現れては消える。
リズナは走りながら風を伸ばした。
「まだ前にいます! でも、少しずつ離れてます!」
「この階段の術式を使って移動しているのね」
リュミエラが走りながら、壁へ魔力を伸ばす。
「こちらから流れを止められる?」
シェルミアが尋ねる。
「止めれば、階段そのものが崩れる可能性があるわ」
「なら、追うしかないね」
階段は何度も折れ曲がった。
下っても、下っても、終わりが見えない。
途中には広い踊り場があり、そこからさらに二本の階段へ分かれている場所もあった。
白い光は迷わず右へ進んでいる。
四人が同じ道を追い、さらに長い階段を下る。
しばらくして、リズナが息を整えながら呟いた。
「それにしても、この階層……長くない?」
「長いね」
シェルミアは走りながらも、記録板へ経路を書き込んでいる。
「距離だけなら、これまでの階層の幾つ分も歩いてる。縦穴に、分岐した回廊、記録の広間。それに、記録されない通路まであった」
「だが、階層を越えた印はない」
ゼラスが答える。
「まだ七十三階層ってこと?」
「ああ」
リズナは先の見えない階段へ風を送る。
「七十二階層まで来るより、この一階層の方が長く感じるんだけど」
「公に知られていない領域へ入った最初の階層だからね」
シェルミアの声には、疲労よりも興味が滲んでいる。
「一つの階層というより、幾つもの区画をまとめた構造なのかもしれないよ」
「これが下の階層でも続くんですか?」
「そうだったら面白いね」
「私は大変だと思います」
「両方だよ」
「楽しそうに言わないでください」
ゼラスが前方へ剣を向けた。
「話は後だ。止まったぞ」
階段の先で、白い反応が動きを止めていた。
四人が最後の曲がり角を抜ける。
そこには、広い踊り場があった。
正面には、黒い石で造られた門が立っている。
これまで見た扉よりも小さい。
表面に顔も手形もなく、中央へ一本の横線だけが刻まれていた。
白いものは、その線の上を這っている。
白と黒を交互に変えながら、門へ入り込もうとしていた。
「そこまでだ」
ゼラスが炎を放つ。
白い糸が門から離れる。
火球が石へぶつかり、赤い炎が広がった。
白いものは床へ落ちると、細い糸を幾つにも分けた。
「逃がさない!」
リズナが風を叩きつける。
散ろうとした糸が、一か所へ押し戻された。
リュミエラの術式が周囲を囲む。
シェルミアは門の前へ回り込み、短剣を構えた。
白い糸が四人を見回すように先端を動かす。
『進む』
「どこへ?」
シェルミアが尋ねる。
『次の階層』
シェルミアは門の横へ刻まれた古い文字を見る。
指で埃を払い、読み取った。
「第七十四階層……」
リズナが思わず息を吐く。
「やっと七十三階層が終わるのね」
「ああ」
ゼラスは白いものから目を離さない。
「だが、こいつを先に行かせる気はない」
白い糸の表面へ、ゼラスの顔が浮かぶ。
『先に行かせる気はない』
続いてリュミエラ。
『ここで封じるわ』
シェルミア。
『逃げ道はないよ』
最後にリズナの顔が現れる。
『今度こそ捕まえる』
「私たちの言葉を並べても、助けにはならないわよ」
リズナが風を狭める。
白い糸の動ける範囲が、少しずつ小さくなっていく。
『助け』
白いものが繰り返す。
『必要ない』
糸の先端が、門へ向いた。
『五人いる』
門の横線が光る。
『通過者を確認』
「触れてないのに……!」
シェルミアが門を見る。
横線から、五本の細い光が伸びていた。
四本はゼラスたちへ。
残る一本は、白いものへ。
『第一通過者』
ゼラスへ伸びた光。
『第二通過者』
リュミエラ。
『第三通過者』
シェルミア。
『第四通過者』
リズナ。
最後の光が、白い糸を包み込む。
『第五通過者』
白いものが、初めて四人の誰とも違う声を発した。
高くも低くもない。
男とも女とも分からない、不安定な声だった。
『私』
門が左右へ開き始める。
「止めろ!」
ゼラスが踏み込む。
白いものは開いた隙間へ向かって跳んだ。
リズナの風が後方から引く。
リュミエラの術式が先端を縛る。
シェルミアの短剣が、門の前へ突き刺さる。
白い糸の半分が切れ、石床へ落ちた。
だが、残る半分は門の向こうへ滑り込む。
ゼラスが炎を放つ。
火球が隙間を抜ける。
向こう側で爆発し、白い光が大きく揺れた。
それでも、反応は消えない。
「追うぞ!」
四人は閉じ始めた門へ駆け込んだ。
ゼラス。
リュミエラ。
シェルミア。
リズナ。
全員が向こう側へ入ると、門は重い音を立てて閉じた。
第七十四階層。
そこは、薄い灰色の霧に覆われていた。
足元の石床以外、何も見えない。
壁の位置すら分からない。
リズナが風を巡らせる。
霧が僅かに動き、五つの人影が浮かび上がった。
「五つ……?」
四人は武器を構える。
霧の中に立つ人影は、ゼラスたちのものではなかった。
どれも輪郭が曖昧で、顔も衣服も定まっていない。
一つ目の影が、少年ほどの高さになる。
二つ目は、大人の女。
三つ目は、短剣を持つ細身の姿。
四つ目は、尖った耳と短い髪を持つ少女。
それぞれが、四人の形へ近づいていく。
だが、最後の一つだけは誰にも似なかった。
小さくなり。
大きくなり。
四本の腕を生やし。
獣のように屈み。
再び人の姿へ戻る。
どの形にも決まらないまま、霧の中で揺れ続けている。
『通過者、五名』
第七十四階層の壁から、声が響いた。
霧の中の五つの影が、同時に顔を上げる。
四人分の顔が完成する。
そして、最後の影にも初めて目と口が生まれた。
誰のものでもない顔だった。
『記録を開始する』
白いものは、迷宮に自分自身の姿を刻み始めていた。




