第五十一話 選ばれた形
石の扉には、二つの手形が刻まれていた。
一つは大人のもの。
もう一つは、少年ほどの小さなもの。
リュミエラが右手を重ねると、指の長さまでほとんど一致した。
ゼラスの手も、小さな手形へ収まる。
現在の少年姿なら、不自然なほどぴったりだった。
「今のゼラスが来ることを、最初から知ってたってこと?」
リズナが尋ねる。
「それは考えにくいな」
ゼラスは手形へ触れず、僅かな隙間を残して手を止めていた。
「八百年前の俺は、この姿ではなかった。そもそも、この扉を見た記憶もない」
「私も同じよ」
リュミエラが手を離す。
「千年前にここを通っていたとしても、この場所へ来た覚えはないわ」
シェルミアは扉の下部へ刻まれた文字を、もう一度記録板へ書き写した。
「二人の記録がそろった時、扉は次の形を選ぶ……」
「次の形というのは、扉の形じゃないのか?」
ゼラスが言う。
「そうかもしれない。でも――」
シェルミアは小さな手形へ指を添えた。
手形の縁が、僅かに動いた。
「今、動いた?」
リズナが身を屈める。
黒い石の表面が、水面のように緩やかに揺れていた。
少年の手を模していた窪みが、少しずつ大きくなっていく。
指が伸びる。
掌が広がる。
やがて、青年の右手ほどの大きさになった。
ゼラスが目を細める。
「八百年前の俺の手か」
だが、変化はそこで終わらなかった。
大きくなった手形が、再び縮み始める。
青年の手から、現在の少年の手へ。
幾度か形を揺らした後、最初と同じ大きさへ戻った。
「最初から、この形だったわけじゃない」
シェルミアの声が僅かに弾む。
「扉が、ここに残っているゼラスの記録と、目の前にいるゼラスを比べたんだ」
「それで、今の姿を選んだ?」
リズナが尋ねる。
「たぶんね」
反対側の手形も揺れ始めた。
指の形。
掌の幅。
手首の角度。
僅かな変化を繰り返しながら、最後には現在のリュミエラの右手と同じ形へ戻る。
「未来を知っていたわけではないのね」
リュミエラが手形を見つめる。
「私たちがここへ来てから、形を作った」
「では、これは鍵穴というより確認装置か」
ゼラスが言う。
「二人の記録が残っていることと、本人たちがここにいることを確かめるためのものだね」
シェルミアは扉の左右へ刻まれた細い溝を調べた。
「流れは別々だけど、奥で一つにつながってる。二人が同時に触れないと動かないと思う」
「罠の可能性は?」
リズナが尋ねる。
「あるよ」
「即答なんですね」
「ここまで来て、ないとは言えないからね」
ゼラスが小さな手形へ右手を重ねる。
「調べるなら早くしろ」
「相変わらず自分から触るんだね」
「俺の手形だからな」
「そういう問題じゃないと思うけど」
シェルミアは呆れながらも、記録板を構えた。
リュミエラが大人の手形へ右手を重ねる。
「では、始めましょうか」
「ああ」
二人の手の下で、黒い石が光った。
炎でも、紫色の魔力でもない。
淡い灰色の光が手形の縁から広がり、扉全体へ細い線を描いていく。
ゼラスの側から伸びた線は、途中で幾つもの枝へ分かれた。
少年の姿。
青年の姿。
剣を構える姿。
炎を放つ姿。
八百年前から現在まで、迷宮に刻まれた複数の記録をなぞっているようだった。
リュミエラの側でも同じことが起きている。
千年前の彼女。
現在の彼女。
異なる術式を使う幾つもの記録。
それぞれの線が扉の中央へ集まり、複雑に重なっていく。
リズナが風を巡らせた。
「二人から魔力を吸い取ってる感じはありません」
「読み取っているだけね」
リュミエラが答える。
「けれど、随分と深いところまで探られているわ」
「離した方がいい?」
「まだ大丈夫よ」
ゼラスの手形が、再び形を変える。
少年から青年へ。
青年から少年へ。
二つの形が重なり、輪郭が二重になる。
「ゼラス?」
リズナが彼を見る。
「問題ない」
「本当に?」
「ああ」
ゼラスは手を動かさなかった。
二重になった手形の内側で、彼の魔力が僅かに揺れる。
炎。
闇。
雷。
風。
そして、どの属性にも属さない大量の魔力。
扉は一つずつ確かめるように光を変えた後、全てを灰色へ戻した。
『一致』
壁の奥から、低い声が響いた。
人の声ではない。
幾つもの記録を重ねて作ったような、平坦な響きだった。
リズナがシルフィードへ手を掛ける。
「今、喋りましたよね?」
「喋ったね」
シェルミアはむしろ記録板へ文字を書き込む手を速めた。
「もう一方も来るよ」
リュミエラの手形から、紫色の光が広がる。
彼女が過去に使った術式が、扉の表面へ次々と浮かび上がった。
今とは異なる形。
既に改良され、使わなくなった構造。
その全てが一度現れた後、現在の術式へ組み直されていく。
『一致』
二度目の声。
扉の中央へ、縦の亀裂が入った。
「開くよ」
シェルミアが一歩下がる。
ゼラスとリュミエラが同時に手を離した。
重い音と共に、黒い扉が左右へ動き始める。
その向こうから、冷たい空気が流れ込んできた。
リズナの赤い髪が僅かに揺れる。
「下へ続いています」
開いた隙間へ風を送り、奥を探る。
「真っ直ぐな階段です。かなり長いですけど、途中に魔物の気配はありません」
「白いものは?」
「感じません」
リュミエラも術式を伸ばす。
「この先には、壁の記録もほとんどないようね」
「また記録されない道?」
シェルミアが扉の内側を覗き込む。
「さっきの通路とは違うよ。魔力は普通に使えるみたいだね」
「なら、何がある?」
ゼラスが尋ねる。
「進めば分かる」
「結局、それか」
「迷宮だからね」
シェルミアは嬉しそうに答えた。
扉の先には、幅の広い階段が続いていた。
両側の壁には、文字も顔も刻まれていない。
床の中央だけに、淡い光を放つ一本の線が伸びている。
その線は階段を下り、暗い奥へ続いていた。
四人が扉を越える。
最後にシェルミアが通った瞬間、背後で石が動き始めた。
「閉まるよ」
ゼラスが振り返る。
開いていた扉が、ゆっくりと中央へ戻っていく。
「戻れなくなる?」
リズナが尋ねる。
「内側にも手形がある」
シェルミアが扉の裏側を示した。
今度は四つ。
少年の手。
大人の手。
シェルミアの手。
そして、リズナの手。
「帰りは四人全員の確認が必要らしいね」
「勝手に増えてるな」
ゼラスが小さな手形を見る。
「私たちも、扉を通った時に記録されたんでしょうか」
リズナが自分の手形へ右手を近づける。
触れる前に、シェルミアが止めた。
「今はやめておこう。戻る時に動く仕組みかもしれないからね」
四人が扉から離れる。
完全に閉じる直前、外側の回廊が細い隙間から見えた。
誰もいない。
白いものの反応もない。
黒い扉が重なり、最後の光が消える。
閉鎖音が階段へ響いた。
シェルミアの腰に下げた小袋が、僅かに揺れた。
「どうかしました?」
リズナが振り返る。
「何が?」
「今、何か動いたような……」
シェルミアは腰の小袋へ手を添えた。
中には、記録されない通路で倒した魔物の甲殻が入っている。
「甲殻がずれただけだと思うよ」
「見た方がよくないですか?」
「そうだね」
シェルミアが袋の紐を解こうとする。
その時、扉の裏側に刻まれた四つの手形が同時に光った。
四人が振り返る。
少年の手。
大人の手。
シェルミアの手。
リズナの手。
灰色の光が、それぞれの縁を一周する。
『通過記録を確認』
先ほどと同じ平坦な声が響く。
「四人を記録したのね」
リュミエラが言う。
扉の中央へ、古い文字が浮かび上がった。
シェルミアが読み取る。
「通過者……」
言葉が途切れる。
「どうした?」
ゼラスが尋ねる。
シェルミアは、浮かび上がった数字を見つめていた。
リズナも文字へ目を向ける。
そこに刻まれている数は、四ではなかった。
『通過者、五名』
四人しかいない階段に、五人目の記録が残されていた。




