第五十話 知らないもの
「あるよ」
シェルミアは、開かれた隠し通路を示した。
「ただ、あなたの記録にはなかっただけ」
白い糸の先端が、僅かに揺れる。
背後には、顔も溝も刻まれていない黒い道。
前方には、四人が立ち塞がっている。
左右の壁はリュミエラの術式に覆われ、記録同士の接続を断たれていた。
逃げ込める顔はない。
『記録に、ない』
「そうだね」
『なぜ、選べた』
「私たちも知らなかったからだよ」
シェルミアは短剣を構えたまま答える。
「どこへ出るのかも、安全なのかも分からなかった。それでも、あなたが選ばないと思ったから入った」
『知らないのに、進んだ』
「知らないから、確かめたんだよ」
白い糸が、シェルミアへ向きを変える。
その動きに、初めて迷いのような間が生まれた。
『知らないから』
白いものが、言葉を確かめるように繰り返す。
『確かめる』
「教えすぎだ」
ゼラスが炎を放った。
白い糸が大きく跳ねる。
火球は回廊の壁へぶつかり、白いものの一部を焼き切った。
残った糸が床を這い、顔の刻まれた壁へ逃げようとする。
「行かせない!」
リズナがシルフィードを振るう。
風が白い糸を巻き上げた。
細長い体が空中で絡まり、壁から引き離される。
『風』
白い糸の表面へ、リズナの顔が浮かび上がる。
『離して!』
彼女自身の声と共に、白い風が放たれた。
二つの風が衝突する。
リズナの赤い短髪が激しく揺れた。
「まだ私の魔力を使えるのね!」
「新しく記録しているわけではないわ」
リュミエラが術式を狭めながら答える。
「これまで取り込んだものを残しているのでしょうね」
白い風が本物の風を押し返そうとする。
だが、力の差は明らかだった。
リズナがシルフィードへ魔力を重ねる。
「借り物に負けるつもりはないわよ!」
風が一気に白い糸を包み込んだ。
細い体が空中で引き伸ばされる。
その中央へ、ゼラスが剣を振り下ろした。
炎をまとった刃が白いものを二つに断つ。
一方は床へ落ち、もう一方は天井へ跳ねた。
『右』
天井の顔が瞼を開く。
口から白い腕が伸び、糸を受け止めようとした。
「接続は切ったはずよ」
リュミエラが顔を上げる。
「残っていた魔力だけで動かしているのね」
紫色の線が天井を走る。
白い腕の根元へ絡みつき、顔ごと石の中へ封じ込めた。
支えを失った糸が落下する。
シェルミアの短剣が、その中心を石床へ縫い止めた。
白いものが激しく身をよじる。
『離せ』
「嫌だね」
『先へ、行く』
「どこへ?」
シェルミアが問いかける。
『百階層』
「何が待ってるの?」
『知らない』
「誰が呼んでる?」
『知らない』
「何のために行くの?」
白い糸の動きが止まった。
『知らない』
三度目の答えだった。
シェルミアは目を細める。
「何も知らないのに、どうしてそこまで百階層へ行こうとするの?」
『呼ばれた』
「それは、あなたが選んだこと?」
沈黙。
白い糸の表面へ、幾つもの顔が浮かんでは消えていく。
ゼラス。
リュミエラ。
リズナ。
シェルミア。
壁に残っていた、名も知らない探索者たち。
最後に現れたのは、記録のシェルミアだった。
『選ぶ理由を、与えられた』
本物のシェルミアが短剣を握る手へ力を込める。
「誰に?」
『百階層』
「場所が理由を与えるとは思えないね」
『百階層に、いる』
「何が?」
白いものは答えない。
代わりに、糸の一部が大きく膨らんだ。
「離れて!」
リズナが叫ぶ。
白い塊が弾ける。
無数の細い糸が、四方へ飛び散った。
ゼラスが炎を広げる。
「フレイムフォール!」
回廊を塞ぐように炎の壁が立ち上がる。
白い糸が次々と焼け、甲高い声を上げた。
『熱い』
『逃げる』
『右』
『左』
『知らない』
幾つもの声が炎の中で重なる。
僅かに焼け残った糸が、床を這って隠し通路へ向かった。
「そちらへ行かせないわ」
リュミエラの術式が、開いた入口を覆う。
白い糸が紫色の膜へ触れる。
弾かれることはなかった。
代わりに、触れた部分から白い輪郭が崩れ始める。
魔力を保てない黒い道の影響が、入口まで届いている。
『魔力が、消える』
白いものは、初めて後退した。
「入れば、お前も形を保てないらしいな」
ゼラスが剣を向ける。
『知らない道』
白い糸は、黒い通路とゼラスを交互に見るように先端を動かした。
『入れば、消える』
「そうかもしれないね」
シェルミアが答える。
『それでも、進んだ』
「私たちはね」
『なぜ』
「確かめるためだよ」
白い糸が動きを止める。
『確かめる』
再び、その言葉を繰り返した。
次の瞬間、白いものが隠し通路へ飛び込んだ。
「なっ――」
リズナが風を伸ばす。
だが、黒い道へ入った風はすぐに散った。
白い糸も、入口を越えた途端に輪郭を失っていく。
細い体が幾つにも千切れ、光の粒となって暗闇へ消え始めた。
『知らない』
声が掠れる。
『だから――』
ゼラスが入口へ踏み込もうとする。
リュミエラが肩を掴んで止めた。
「待ちなさい。向こうでは魔法が使えないわ」
「逃がすよりはいい」
「もう逃げられる状態ではないよ」
シェルミアが黒い道を見つめる。
白い光は、一つずつ消えていく。
最後に残った細い糸も、床へ触れる前に形を失った。
『知りたい』
その声を最後に、白いものの反応は完全に消えた。
しばらくの間、誰も動かなかった。
リズナが何度も風を送り込む。
だが、黒い道からは何も戻ってこない。
「感じません」
「私の術式にも反応はないわ」
リュミエラも隠し通路を調べる。
「少なくとも、魔力としての形は保てていないでしょうね」
「消えたのか?」
ゼラスが尋ねる。
「断定はできないわ」
「魔力を失っただけで、何かが残っている可能性もあるね」
シェルミアが黒い通路へ視線を向けた。
「さっきの魔物も、体内にほとんど魔力を持っていなかった。この道では、魔力がなくても存在できるものがいる」
「白いものも、同じように変わるかもしれないってこと?」
リズナが尋ねる。
「可能性はあるよ」
「追うか?」
ゼラスが黒い道へ足を向ける。
シェルミアは少し考えた後、首を横へ振った。
「今すぐ追っても見つけられないと思う。向こうではリズナの風も、リュミエラの術式も使えないからね」
「だが、放っておけば――」
「百階層へ向かっていた反応は消えた」
リュミエラが言う。
「今は、先へ進む方を優先しましょう。白いものが本当に消えたのかは、この入口を記録してから改めて確かめればいいわ」
シェルミアは隠し通路の位置を記録板へ書き込む。
取っ手を戻すと、黒い壁が静かに閉じていった。
最後まで、白い光が戻ってくることはなかった。
「知らない道へ、自分から入ったんだね」
リズナが呟く。
「百階層へ行くことより、未知のものを確かめる方を選んだ」
シェルミアの表情は複雑だった。
「私の記録から、余計なものまで覚えたのかもしれない」
「好奇心か」
ゼラスが言う。
「好奇心を余計なものとは思わないけどね」
「今の場合は余計だろ」
「それは否定できないよ」
リュミエラが回廊の奥を見る。
壁に並んでいた顔は、全て目を閉じている。
白いものが消えたことで、声も途絶えていた。
「百階層へ続く道は、まだ残っているわ」
「追う相手はいなくなったけど、進む?」
リズナが尋ねる。
「ここまで来て戻る選択肢はないよ」
シェルミアは即答した。
「白いものが何に呼ばれていたのか。それに、ゼラスとリュミエラが百階層から戻る時、なぜ警告を残したのかも分かっていない」
「俺は残した覚えがないがな」
「だから調べるんだよ」
ゼラスは小さく息を吐いた。
「結局、お前も同じことを言うんだな」
「知らないから、確かめる」
シェルミアは笑みを浮かべた。
「迷宮を進む理由なんて、それで十分だよ」
四人は回廊の奥へ歩き出した。
壁の記録は動かない。
声も聞こえない。
白いものが通った痕跡だけが、床に細く残っている。
その痕跡は、しばらく先で途切れていた。
代わりに、大きな石の扉が現れる。
扉の中央には、二つの手形が刻まれていた。
片方は大人のもの。
もう片方は、少年ほどの小さなもの。
ゼラスとリュミエラが足を止める。
「覚えてる?」
シェルミアが尋ねる。
「いや」
ゼラスが答える。
「私も見た記憶はないわ」
リュミエラが二つの手形へ近づく。
大人の手形へ自分の右手を重ねる。
形は、ほとんど一致していた。
ゼラスも小さな手形へ手を近づける。
現在の少年姿なら合う。
だが、八百年前にこの迷宮を下りた時の彼は、青年の姿だった。
「今の俺の手形だな」
「でも、この場所へ来たことはないんだよね?」
リズナが尋ねる。
「ああ」
シェルミアが扉の表面を調べる。
手形の下には、古い文字が刻まれていた。
白い記録板と見比べ、慎重に読み上げる。
「二人の記録がそろった時、扉は次の形を選ぶ……」
「二人とは、私とゼラスのことかしら」
「たぶんね。ただし――」
シェルミアが小さな手形を指でなぞる。
「この扉が求めているのは、八百年前のゼラスじゃない」
リズナが少年の姿をしたゼラスを見る。
「今のゼラスが来ることを、最初から知ってたってこと?」
誰も答えられない。
その時、シェルミアの腰に下げた小袋が僅かに揺れた。
記録されない通路で採取した、黒い魔物の甲殻。
魔力をほとんど持たない、小さな欠片。
誰も、その動きに気づかなかった。
小袋の中。
黒い甲殻の表面へ、髪の毛より細い白い線が浮かび上がる。
白いものは、知らない道から戻ってきていた。




