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千年魔族は少年の姿で旅をする  作者: ポボンゴ
第三章 グラン・ラビリス編
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第四十九話 記録されない道



白いものが選ばなかった左の道は、狭く暗かった。


階段を十段ほど下りたところで、背後の壁が音もなく閉じる。


魔法灯の光が黒い石へ吸い込まれ、四人の足元だけを弱く照らしていた。


リズナは前方へ風を送る。


だが、放った風は数歩先で消えた。


跳ね返る空気も、壁を伝う振動もない。


「やっぱり戻ってきません」


リズナはもう一度、今度は細く絞った風を伸ばした。


結果は同じだった。


風は暗闇へ入った直後、形を失う。


「遮られているの?」


シェルミアが尋ねる。


「壁にぶつかった感じじゃありません。途中で魔力だけが散らされています」


リュミエラが指先に小さな光を灯す。


光球を階段の先へ飛ばすと、五歩ほど進んだところで急激に小さくなった。


最後には火の粉ほどの輝きとなり、闇へ消える。


「外へ放した魔力を保てないようね」


「体の中は?」


ゼラスが尋ねる。


リュミエラは自分の魔力を巡らせ、しばらく目を閉じた。


「問題ないわ。体内の魔力まで奪われているわけではないみたい」


「外へ出した途端に使えなくなるのか」


ゼラスは掌へ小さな炎を作る。


炎は手元では燃えていた。


だが、前方へ放った瞬間に輪郭を崩し、赤い光だけを残して消えた。


リズナがゼラスへ視線を落とす。


「飛べないね」


「飛ぶ必要はないだろ」


「さっきあれだけ得意そうに言ってたのに」


「得意とは言ってない」


「でも、ここで落ちたら?」


「落ちない」


「それは向こうのゼラスも思ってたんじゃない?」


ゼラスは少し黙った。


「……慎重に進むぞ」


シェルミアが小さく笑う。


「反省はしてるみたいだね」


「してない」


四人は足元を確かめながら、階段を下り始めた。




壁には顔がなかった。


声を記録する細い溝も、魔力を運ぶ白い線もない。


どこまで進んでも、磨かれたように滑らかな黒い石が続いている。


シェルミアは壁へ触れ、記録板へ形状を書き込んだ。


「この道だけ、造りが全然違うね」


「迷宮の記録から外れているのかしら」


リュミエラが壁を見上げる。


「少なくとも、私たちの魔力を読み取っている様子はないわ」


「それで白いものも、こっちを選ばなかったんですね」


リズナが言う。


「選ばなかったというより、見つけられなかったのかもしれないよ」


シェルミアは背後を振り返った。


閉じた壁には、入口だった痕跡すら残っていない。


「白いものは、壁の記録を使って道を選んでいた。この通路に記録がないなら、存在そのものを認識できなかった可能性がある」


「迷宮の中に、迷宮が見ていない場所があるのか」


ゼラスが呟く。


「見ていないのか、見られないのかは分からないけどね」


シェルミアの声には、また隠し切れない興奮が混じっていた。


「千年前と八百年前の記録を重ねても、ここの道順は出てこなかった。まだ誰も通っていない可能性もあるよ」


「その顔で言われると、危険だという意味に聞こえません」


リズナが言う。


「危険だと思ってるよ」


「絶対、楽しさの方が勝ってますよね?」


「少しだけね」


「少しではないでしょうね」


リュミエラが穏やかに笑った。




階段は途中で途切れていた。


その先には、底の見えない縦穴が広がっている。


向こう側の壁まで、およそ十五メートル。


細い石板が幾つも浮かび、足場のように並んでいた。


だが、規則的に並んでいるわけではない。


高さも距離も異なり、中には大きく傾いたものもある。


リズナが縦穴へ風を送ろうとする。


放たれた魔力は、最初の石板へ届く前に消えた。


「何も探れない……」


「一つずつ確かめよう」


シェルミアが足元から小石を拾い、最も近い石板へ投げた。


石が触れた瞬間、足場が縦に回転する。


小石は暗闇へ落ちていった。


しばらく待っても、底へ当たる音はしない。


「乗ったら落とされるね」


シェルミアは次の小石を別の足場へ投げる。


今度は動かなかった。


さらにもう一つ。


石板の左右から、細い刃が飛び出す。


「魔力が使えない場所に、物理的な仕掛けか」


ゼラスが縦穴を見下ろす。


「随分と徹底してるな」


「飛べない人には厳しい道ですね」


リズナが言う。


「俺も今は飛べない」


「分かってる。ちょっと言ってみただけ」


シェルミアは反応のなかった足場だけを記録板へ書き込んでいく。


「安全そうなのは、左、中央、右奥の順だね。ただし、体重を掛けた時に動く可能性はある」


「最初は俺が行く」


ゼラスが言った。


リズナがすぐに彼を見る。


「大丈夫?」


「落ちても、壁に剣を刺せば止まれる」


「壁から刃が出るかもしれないよ」


「その時は避ける」


「落ちながら?」


「ああ」


リズナは何か言おうとしたが、ゼラスの顔を見て口を閉じた。


「……気をつけて」


「ああ」


ゼラスは助走をつけず、最初の足場へ跳んだ。


石板が僅かに沈む。


回転はしない。


だが、着地の衝撃に反応し、正面の壁から三本の槍が飛び出した。


ゼラスは身を低くし、一本目を頭上へ通す。


二本目を剣で逸らし、三本目を足場の端へ当てた。


石板が傾く。


その勢いを利用し、次の足場へ跳び移った。


「次は大丈夫だ」


「何を基準に言ってるの?」


リズナが尋ねる。


「俺が乗っても落ちなかった」


「槍は出たでしょ!」


「槍はもう戻った」


シェルミアが記録板へ追記する。


「罠を一度動かして、安全にしてくれたんだよ」


「それは分かりますけど……」


「順番に来い」


ゼラスは既に三つ目の足場へ移っていた。


リズナは小さく息を吐く。


「本当に落ちないでよ」


「落ちないと言っただろ」


四人はゼラスが動かした罠を避けながら、一人ずつ縦穴を渡った。


魔力による補助は使えない。


リズナは足場を蹴る直前だけ、体内へ風の魔力を巡らせる。


だが、外へ放出することはせず、純粋な脚力で距離を越えた。


最後の足場へ着地すると、赤い短髪が僅かに揺れる。


そのまま向こう岸へ跳び、ゼラスの隣へ降り立った。


「ちゃんと渡れたでしょ」


「ああ」


「もう少し褒めてもいいんじゃない?」


「落ちるとは思ってなかった」


リズナは一瞬だけ目を瞬く。


「……それならいいけど」


後から渡ってきたリュミエラが、二人を見て小さく笑った。


ゼラスは気づかないふりをして、先の通路へ視線を向けた。




縦穴を越えた先から、道はさらに狭くなった。


二人並んで歩くのがやっとの幅しかない。


天井も低く、ゼラスには余裕があるが、リュミエラとシェルミアは僅かに身を屈めている。


しばらく進んだところで、ゼラスが足を止めた。


「何かいる」


「分かるの?」


リズナが尋ねる。


「音がした」


魔力による感知ではない。


暗闇の奥から、石を擦るような音が聞こえてくる。


一度。


二度。


重いものが床を這っている。


シェルミアが魔法灯を前へ向ける。


弱い光の中に、黒い塊が浮かび上がった。


人の背丈ほどある、節の多い魔物。


硬い甲殻に覆われ、長い前脚を壁へ掛けながら進んでいる。


頭部に目はない。


代わりに、口元から細い触角が幾つも伸びていた。


「魔力を感じて動いてるわけではなさそうだね」


シェルミアが囁く。


魔物は四人へ顔を向けていない。


床と壁へ触角を這わせ、振動だけを探っている。


「物音に反応してるのか」


ゼラスが剣を抜く。


刃が鞘を擦る。


その音に、魔物の触角が一斉にゼラスへ向いた。


「そうみたいだな」


「確かめ方が雑です」


リズナもシルフィードを抜く。


魔力をまとわせることはできない。


それでも、剣としての切れ味は失われていなかった。


魔物が床を蹴る。


狭い通路を塞ぐように、硬い頭部を突き出してきた。


ゼラスが正面から剣を合わせる。


刃が甲殻を滑り、火花を散らした。


「硬いな」


「関節を狙って!」


シェルミアが後方から指示を出す。


リズナは壁を蹴り、魔物の前脚を飛び越えた。


赤い髪が暗闇の中で揺れる。


着地と同時に身を低くし、甲殻の隙間へシルフィードを差し込む。


刃が深く入った。


魔物の前脚が力を失う。


ゼラスは傾いた頭部を足場にして跳び、背中へ回った。


剣を両手で握り、リズナが作った傷へ振り下ろす。


甲殻が割れる。


魔物は通路の壁へ体を打ちつけた。


リュミエラが前へ出る。


魔法は放てない。


それでも、崩れた甲殻へ細身の刃を差し込み、内部の柔らかい部分を正確に貫いた。


魔物の動きが止まる。


巨体が石床へ沈み、狭い通路を塞いだ。


「魔法がなくても、随分と手慣れているんですね」


リズナがリュミエラを見る。


「昔は、術式を組む余裕のない場所も多かったもの」


リュミエラは刃についた液体を払った。


「ゼラスと会うより前の話だけれど」


「初めて見たな」


ゼラスが言う。


「あら、見直した?」


「元からできないとは思ってない」


「そういうところは昔から変わらないわね」


シェルミアが魔物の体を調べる。


「この魔物、体内に魔力がほとんどない」


「この通路で生きるために、魔力へ頼らなくなったのかもしれません」


リズナが甲殻へ触れる。


「外の魔物とは、少し違う感じがします」


「記録されない場所で、記録されないまま生きてきた魔物か」


シェルミアの目が輝く。


「持って帰れませんよ」


リズナが先に釘を刺した。


「甲殻の一部だけなら――」


「道を塞いでる。急ぐぞ」


ゼラスが魔物の体を押し始める。


シェルミアは名残惜しそうに甲殻を見たが、短剣で小さな欠片だけを削り取った。




魔物の死骸を越えてから、通路は緩やかな上り坂へ変わった。


前方から、ごく僅かな空気の流れが届く。


リズナが足を止める。


「風があります」


「魔力を使ってないのに分かるの?」


シェルミアが尋ねる。


「頬に当たりました」


赤い髪の先が、ほんの僅かに揺れている。


「出口が近いです」


四人は歩調を速めた。


上り坂の先に、薄い石壁がある。


中央へ縦の亀裂が入り、向こう側から淡い白色の光が漏れていた。


シェルミアが壁へ耳を寄せる。


遠くから声が聞こえる。


『右』


『下』


『進む』


白いものが利用している、壁の記録だ。


「近いね」


シェルミアが囁く。


「向こう側が、あれの選んだ道みたい」


リュミエラが薄い壁を調べる。


「こちらからなら開けられそうよ。魔力を使う必要もないわ」


石壁の下に、小さな取っ手が隠されている。


引けば、壁の一部が内側へ動く構造だった。


「ここから出れば、白いものの前に出られる?」


リズナが尋ねる。


シェルミアは白い記録板を開き、道筋を見比べる。


「たぶんね。右の道が大きく迂回してる。ここは、その内側を抜けてきたみたい」


「先回りは成功か」


ゼラスが剣を握り直す。


「ただし、向こうへ出た瞬間から、また記録されるわ」


リュミエラが言う。


「白いものにも気づかれるでしょうね」


「なら、ここで待とう」


シェルミアが薄い壁の隙間から向こうを覗く。


細い回廊。


左右の壁には、無数の顔が並んでいる。


まだ、白いものの姿はない。


だが、奥から記録の声が近づいていた。


『右』


『下』


『進む』


一つ進むたび、別の顔が瞼を開く。


白い糸が、壁から壁へ渡りながら近づいてくる。


顔の口へ入り、次の顔の目から抜け出す。


幾つもの記録を通り道にしながら、白いものは迷うことなく進んでいた。


四人は魔法灯を消す。


薄い壁の内側で、息を潜めた。


白いものが近づく。


『右』


一つ目の顔。


『進む』


二つ目。


『百階層へ来い』


三つ目。


白い糸が、その口から這い出した。


回廊の中央で一度止まる。


まるで、何かを探すように先端を揺らした。


だが、隠し通路へは向かない。


四人の存在に気づいていない。


リズナがゼラスを見る。


ゼラスは小さく頷いた。


シェルミアが指を三本立てる。


一本。


二本。


三本。


リュミエラが取っ手を引いた。


石壁が一気に開く。


「今!」


リズナの風が回廊へ吹き荒れた。


記録のない通路を抜けた直後、魔力が本来の形を取り戻す。


白い糸が壁へ逃げ込もうとする。


シェルミアの短剣が、その先にある顔の口へ突き刺さった。


退路が塞がれる。


リュミエラの術式が左右の壁を覆い、記録同士の接続を切断した。


ゼラスの掌へ炎が集まる。


白い糸が激しく身をよじった。


『なぜ』


初めて、戸惑う声が響いた。


『どこから来た』


ゼラスは炎を向けたまま答える。


「お前が選ばなかった道だ」


白い糸が、開かれた隠し通路へ先端を向ける。


だが、その奥には顔も、声も、魔力の痕跡も存在しない。


『道が、ない』


本物のシェルミアが短剣を構えた。


「あるよ」


白いものが、彼女の声へ向き直る。


シェルミアは僅かに笑った。


「ただ、あなたの記録にはなかっただけ」




白いものは初めて、自分の知らない道を見た。

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