第四十六話 残されたリズナ
『向こうのゼラスは、死んだよ』
白いリズナは、現実のリズナだけを見ていた。
同じ赤い短髪。
同じ尖った耳。
同じ赤い瞳。
だが、右肩から先は崩れ、白い雫となって石床へ落ち続けている。
リズナは何も言えなかった。
隣には、本物のゼラスがいる。
無傷で剣を携え、いつもと変わらない表情をしている。
それでも、同じ顔をした少女が語った喪失を、ただの偽物の話として聞き流すことはできなかった。
「何があった?」
ゼラスが尋ねる。
白いリズナは、ようやく彼へ視線を向けた。
『風の間隔が、途中で変わったの』
「変わった?」
シェルミアが聞き返す。
『最初は一定だった。でも、向こうのゼラスが跳んだ瞬間、別の噴出口が開いた』
白いリズナは、残された左手を握り締めた。
『横から風を受けて、向こう岸へ届かなかった。私が引き戻そうとしたけど……風が足りなかった』
崩れた右肩へ目を落とす。
『腕を伸ばしたところを、壁から出た刃に斬られた。それでも、届かなかった』
「落ちてから、魔力の反応は?」
シェルミアが尋ねる。
『途中まではあったよ。でも、すぐに消えた。下へ風を送っても、何も返ってこなかった』
「飛べばよかったのに」
ゼラスが何でもないことのように呟いた。
『……ん?』
白いリズナが顔を上げる。
「え?」
現実のリズナも、ゼラスへ視線を落とした。
一拍遅れて、二人の声が重なる。
「飛べるの?」
『飛べるの?』
「ああ」
ゼラスは当然のように頷いた。
「魔力で体を浮かせればいい」
「そんなこと、一度も言ってなかったじゃない!」
『聞いてないんだけど!』
二人のリズナが、ほとんど同時に声を上げた。
ゼラスは僅かに眉を寄せる。
「聞かれなかったからな」
「普通、飛べるなら言うでしょ!」
『先に言ってよ!』
「向こうの俺に言っても、もう遅いだろ」
『そういう問題じゃない!』
「そういう問題じゃないわよ!」
再び、二人の声が重なった。
シェルミアは白いリズナとゼラスを交互に見る。
「待って。向こうのゼラスは、飛べるだけの魔力も持っていたんだよね?」
「俺の魔力まで記録していたならな」
「でも、飛ぶという選択肢を知らなかった」
リュミエラが静かに続ける。
「この迷宮へ入ってから、ゼラスが一度も飛翔術を使っていないからでしょうね」
「飛翔術というほど器用なものじゃない」
ゼラスが言う。
「魔力を下へ放出して、力ずくで浮いているだけだ」
リズナが呆れた顔を向ける。
「それ、燃費は?」
「悪い」
「どれくらい?」
「風を使った飛翔術の五倍ほどだ」
「五倍……」
リズナが言葉を失う。
ゼラスの持つ膨大な魔力量なら、そんな効率の悪い術でも飛び続けられるのだろう。
だが、歩ける場所でわざわざ使う理由がないことも分かる。
「だから、この迷宮では使わなかった」
ゼラスが白いリズナを見る。
「記録されていない技術は、あいつには使えなかったらしいな」
白いリズナはしばらくゼラスを見つめていた。
やがて、力なく肩を落とす。
『飛べばよかったのに……』
「俺もそう言っただろ」
『あんたが言うと腹が立つ』
「私も今、同じ気持ち」
現実のリズナが頷く。
「なぜだ?」
「分からなくていいわよ」
『分からなくていいよ』
三度目に重なった声を聞き、シェルミアが小さく息を漏らした。
張り詰めていた空気が、ほんの僅かに緩む。
だが、白いリズナの表情はすぐに沈んだ。
『飛べることを知っていたら、向こうのゼラスは死ななかったのかな』
誰もすぐには答えられなかった。
ゼラスだけが、白い少女を正面から見返す。
「分からん」
慰めるような言葉ではなかった。
それでも、声は静かだった。
「二つ目の噴出口を避けても、その先に別の仕掛けがあったかもしれない。飛んだことで、もっと悪い状況になった可能性もある」
『でも――』
「起きなかったことの結果は決められない」
白いリズナは左手を握ったまま、俯いた。
「お前が届かなかったことも、お前のせいじゃない」
その指先が僅かに震える。
『……うん』
「壁から生まれた体なら、また再生できるんじゃないの?」
リズナが尋ねる。
『記録との接続が切れたら無理みたい。向こうのゼラスは、落ちた時に全部切れた』
白いリズナの声は落ち着いていた。
だが、左手の震えは止まっていない。
『向こうのシェルミアさんは、助ける方法がないって判断した。リュミエラさんも同じだった』
「それで、二人は先へ進んだの?」
『うん』
白いリズナは小さく頷いた。
『止まっても意味がないって。私も、動けるならついていくつもりだった』
「だが、お前は置いていかれた」
ゼラスが言う。
白いリズナは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
シェルミアの表情が僅かに曇る。
「私の記録なら、負傷者を一人で残す判断はしないと思う」
『最初は、そうだったよ』
白いリズナが彼女を見る。
『でも、少しずつ変わった』
「何が?」
『私たちは本体じゃない。迷宮が作った記録で、代わりに先へ進むためのものだって分かってた』
白いリズナの足元へ、崩れた体の一部が流れ落ちていく。
『だから、先へ進むことが一番大事になった。壊れた記録は、残していけばいいって』
リュミエラが目を細める。
「あなたは、そう思わなかったのね」
『最初は思ってた』
白いリズナは、自分の胸元へ左手を当てた。
そこには、風晶石を模した白い石が下がっている。
光は失われ、内部の魔力もほとんど残っていない。
『でも、向こうのゼラスが落ちた時、先へ進むことなんて考えられなかった』
リズナが息を止めた。
白い少女は、自分の姿と声を写して生まれた存在だ。
そこに浮かんだ感情まで、自分と同じものなのかは分からない。
それでも、彼女が失ったものを悲しんでいることだけは、偽物には見えなかった。
「最後に、何か言った?」
リズナが尋ねる。
『聞こえなかった』
白いリズナは首を振った。
『私の名前を呼んだ気はする。でも、風の音が大きくて……』
リズナは無意識に、隣にいるゼラスの袖を掴んでいた。
ゼラスがその手へ目を落とす。
それから視線を上げ、自分より少し背の高いリズナの横顔を見た。
向こう側で落ちたのは、自分の姿をした記録に過ぎない。
だが、目の前で自分の声が喪失を語れば、不安になるのも無理はない。
ゼラスは何も尋ねず、掴んだ手が離れないよう僅かに腕を寄せた。
「俺は落ちない」
リズナがゼラスへ視線を落とす。
「……分かってるわよ」
「落ちても飛べる」
「今はそれ言わなくていいから」
『本当に、そういうところだよ』
白いリズナが小さく笑った。
ゼラスは白い少女へ視線を向ける。
「何がだ?」
『分からないなら、それでいいよ』
「お前まで妙なことを言うな」
ゼラスは白いリズナから視線を外し、自分の袖を掴むリズナの手へ目を落とした。
「不安なら、しばらく掴んでいろ」
リズナが僅かに目を見開く。
「……言われなくても、そうする」
白いリズナは二人を見つめたまま、笑みを残して目を伏せた。
『あっちも、そうだと思ってた』
リズナはゼラスの袖を、少しだけ強く握った。
ゼラスは何も言わなかった。
リュミエラが白いリズナの前へ膝をついた。
「体を保たせられるか調べてもいいかしら」
『たぶん無理だよ』
「それでも、何もしないよりはいいわ」
紫色の魔力が、崩れた右肩を包み込む。
白い雫の流出が僅かに遅くなった。
だが、失われた腕が戻ることはない。
術式を重ねるほど、白い体の輪郭そのものが薄れていく。
「供給元との接続が完全に切れているわ」
リュミエラの声が静かに落ちる。
「今ある魔力だけで、この体を維持しているのね」
『だから言ったでしょ』
「ええ。でも、少しだけ時間は作れるわ」
『ありがとう、リュミエラさん』
白いリズナが微笑む。
記録であっても、呼び方までリズナと同じだった。
シェルミアは、反対側の通路へ視線を向ける。
「先へ行った二人は、どこへ向かったの?」
『この先に、大きな部屋があるって言ってた』
「何の部屋?」
『分からない。でも、壁に文字があった』
白いリズナは、記憶を辿るように目を閉じた。
『記録を重ね、欠けたものを満たす場所』
四人の間に緊張が走る。
「記録を重ね、欠けたものを満たす……」
シェルミアが、記録板へ言葉を書き込む。
「壊れた体を直す場所だと思ったの?」
『向こうのシェルミアさんは、最初はそう考えてた。でも、それだけじゃないって』
「他には?」
『幾つもの記録を重ねれば、本体より完全な存在になれるかもしれないって』
白いリズナが、現実の四人を順に見る。
『向こうの二人は、あなたたちを待つつもりだよ』
ゼラスが剣へ手を掛けた。
「俺たちの記録を奪うためか」
『たぶん』
「二人だけで、私たち四人を相手にするつもり?」
リズナが尋ねる。
白い少女は首を横へ振った。
『二人じゃないよ』
「どういう意味?」
『あの部屋には、昔ここを通った人たちの記録が集まってる』
白いリズナの輪郭が揺れる。
リュミエラの術式を重ねても、崩壊は止まらない。
『ゼラスも、リュミエラさんも、一度ここを通ってる』
「八百年前と千年前の記録か」
シェルミアの表情が険しくなる。
『向こうの二人は、それを使うつもり』
白いリズナの赤い瞳が、少年の姿をしたゼラスへ向けられる。
『今のゼラスと、八百年前のゼラスを重ねる』
続いて、リュミエラを見る。
『今のリュミエラさんと、千年前のリュミエラさんも』
「記録を統合するつもりなのね」
リュミエラが立ち上がる。
「現在の私たちより、多くの経験を持つ体を作るために」
『うん』
「そんなこと、本当にできるの?」
リズナが尋ねる。
『分からない。でも、向こうのシェルミアさんはできると思ってる』
本物のシェルミアが苦い顔をする。
「私なら、試す価値はあると考えるかもしれないね」
「そこで他人事みたいに言わないでください」
「だからこそ、急いだ方がいいってことだよ」
シェルミアは反対側の通路へ歩み寄った。
「この先で二つの道は完全に合流してる。追いつける可能性はある」
白いリズナが左手を上げる。
『待って』
シェルミアが足を止めた。
『正面の道は罠だよ』
「罠?」
『向こうのシェルミアさんが、あなたたちを遅らせるために動かした』
白いリズナは、広間の左側を示した。
そこには、何もない黒い壁がある。
『左の壁に、隠れた通路がある。私たちはそこから来た』
リズナが風を送る。
一見すると隙間のない壁。
だが、石の向こうに細い空間が存在している。
「見つけました。先へ続いています」
「開け方は?」
シェルミアが尋ねる。
『壁の下から三番目の石。押してから、上の溝へ魔力を流して』
シェルミアが指示どおりに操作する。
黒い壁が僅かに震え、中央から左右へ開いていく。
向こうには、細い通路が続いていた。
「これなら、追いつけるかもしれない」
シェルミアが白いリズナへ振り返る。
「あなたも一緒に来られる?」
『無理だよ』
白い少女の足元は、既に形を失い始めている。
リュミエラの術式にも亀裂が走っていた。
『私の体は、この広間に残った記録で保たれてる。ここを離れたら、すぐに消える』
「なら、ここへ戻ってくるまで待っていて」
リズナが言う。
『それも無理』
「でも――」
『大丈夫』
同じ顔が、同じ声で答える。
『私が消えても、あんたは残るから』
「そんな言い方……」
リズナの言葉が詰まる。
白い少女は、本物のゼラスへ顔を向けた。
『このリズナを落とさないでね』
ゼラスは、袖を掴んだままのリズナへ一度だけ目を向けた。
「ああ。落とさない」
『そっか』
白いリズナは、安心したように笑った。
その顔から、少しずつ色が抜けていく。
赤かった髪が白へ戻る。
瞳も、肌も、衣服も。
壁から生まれた直後の、色を持たない記録へ近づいていた。
リズナはゼラスの袖から手を離し、白い自分の前へしゃがみ込む。
「向こうのゼラスの分まで、先へ進むから」
『うん』
「あなたのことも、忘れない」
『それは、ちょっと恥ずかしいな』
「私と同じ顔で言わないでよ」
『同じ顔だから言えるんでしょ』
白いリズナの口元が、最後に微笑んだ。
その輪郭が崩れる。
白い光の粒となり、リュミエラの術式の中へ舞い上がった。
声も、呼吸も消えていく。
最後に残ったのは、白く再現された風晶石だった。
石床へ落ちる前に、リュミエラが魔力で受け止める。
「これは私が預かるわ」
黒い布で包み、幾重もの術式を重ねて封じる。
リズナは、白い少女が座っていた場所をしばらく見つめていた。
ゼラスが隣へ立つ。
「行くぞ」
「……うん」
「追いつくんだろ」
リズナは立ち上がり、自分より低い位置にあるゼラスの顔を見る。
「もちろん」
四人は隠された通路へ入った。
先頭をシェルミア。
その後ろにリュミエラ。
リズナとゼラスが続く。
通路は狭く、急な下り坂になっていた。
遠くから、二人分の足音が聞こえる。
白いシェルミア。
白いリュミエラ。
まだ、それほど離れていない。
「追いつけます」
リズナが風を伸ばす。
「でも、その先に大きな空間があります」
「記録を重ねる場所か」
ゼラスが剣を抜く。
「急ごう」
シェルミアが速度を上げる。
通路の奥で、白いシェルミアの声が響いた。
『来たね』
続いて、白いリュミエラの声。
『待っていたわ』
二人分の足音が止まる。
代わりに、さらに多くの足音が動き始めた。
小さなもの。
大きなもの。
少年のもの。
青年のもの。
同じ場所から、幾つものゼラスとリュミエラが歩き出す。
『今度こそ、全員でやりましょう』




