第四十五話 別の道の四人
『先で待ってる』
壁の向こうから聞こえたリズナの声が、静かな広間へ残った。
四人分の足音は、既に聞こえない。
リズナは壁へ風を送り続けていた。
分厚い石の向こうには、確かに通路がある。
だが、空気の流れは途中で途切れ、こちら側へ通じる隙間も見つからなかった。
「壊せそうか?」
ゼラスが壁を見上げる。
「やめた方がいいよ」
シェルミアが即座に答えた。
「向こう側の通路が、どの高さにあるのかも分からない。壁を抜いた瞬間に崩れるかもしれないからね」
「この辺りの石壁には、階層を支える術式も通っているわ」
リュミエラも壁へ手をかざす。
「力ずくで壊せば、別の場所まで影響が出る可能性があるでしょうね」
「では、あの四人は放っておくんですか?」
リズナが尋ねる。
「追える道が見つかれば追うよ。でも、今ここで無理に追うのは危険だね」
シェルミアは地図へ、壁の向こう側にある空間を書き加えた。
「向こうも奥へ進んでる。どこかで道が合流する可能性はあるよ」
「本当に、先で待ってるかもしれないってこと?」
「待つ理由があればね」
ゼラスは壁から視線を外した。
「俺たちを代わりにすると言っていた。先に進んで道を塞ぐつもりかもしれないぞ」
「それなら、なおさら急ごう」
シェルミアは広間の奥へ続く通路を示した。
「ここから先は記録がない。向こうの四人が何を選ぶかも分からない。私たちは私たちの道を進むよ」
広間を抜けた先には、緩やかに下る長い回廊が続いていた。
通路の幅は広い。
左右の壁には等間隔で細い溝が刻まれ、天井には淡い青色の石が埋め込まれている。
魔法灯を消しても、足元が見える程度の光は保たれていた。
「ここは覚えてる?」
リズナがゼラスへ尋ねる。
「いや」
「リュミエラさんは?」
「私も知らないわ。通った経路とは違うようね」
二人が千年と八百年前に選んだ道は、縦穴の底で一度合流した。
だが、その先でも再び幾つもの経路へ分かれていたのだろう。
現在の四人が進んでいる場所を、二人とも通った記憶はなかった。
シェルミアは壁の溝や床の傾斜を一つずつ記録していく。
「完全に未知の通路か……」
その声には、隠し切れない喜びが滲んでいる。
リズナが横目で見る。
「楽しそうですね」
「楽しいよ」
シェルミアは迷わず答えた。
「怖くないんですか?」
「怖いし、危険だとも思ってる。でも、誰も記録していない場所を見つけたら、調べたくなるでしょ?」
「普通は帰りたくなると思います」
「それは人によるね」
「シェルミアさんだけの可能性が高いと思います」
シェルミアは否定せず、記録板へ新しい線を書き加えた。
しばらく進むと、右の壁から微かな音が届いた。
足音。
四人分。
壁を隔てた向こう側で、記録された四人も同じ方向へ進んでいる。
リズナが足を止める。
「近いです」
「壁の向こう?」
「はい。さっきよりも空間が近づいています」
ゼラスが壁へ耳を寄せる。
足音の間隔は、現実の四人とほとんど同じだった。
先頭を歩く者。
中央に並ぶ二人。
少し離れて後方を守る者。
隊列まで、彼らのものを再現している。
『右に何かいるよ』
壁の向こうから、シェルミアの声がした。
『二体です』
今度はリズナ。
続けて、剣が抜かれる音が響く。
石床を蹴る足音。
何か重いものが壁へ衝突し、こちら側の回廊まで震えた。
「戦ってる」
リズナがシルフィードへ手を掛ける。
「こちらへ来る気配はないよ」
シェルミアは壁と前方を交互に確認した。
「向こう側にいる魔物だと思う」
白いリズナが風を放つ音が聞こえる。
その直後、白いゼラスの剣が硬いものへ弾かれた。
『脚を止めて』
白いシェルミアの指示。
『ええ』
白いリュミエラの声。
魔力が膨らみ、壁の奥で何かが拘束された。
最後に、強い衝撃音が響く。
魔物のものらしい低い咆哮が、短く途切れた。
再び四人分の足音が動き始める。
「倒したみたいですね」
「俺たちがいなくても、普通に戦えるらしいな」
ゼラスが呟く。
「迷宮に記録された動きと魔力を使っているなら、戦闘能力も私たちに近いのでしょうね」
リュミエラの表情は険しかった。
「ただ、同じ経験を持っているわけではないわ。今の戦闘で得たものは、既に私たちと異なるはずよ」
「向こうは向こうで、新しく覚えていくってこと?」
リズナが尋ねる。
「その可能性は高いでしょうね」
シェルミアは壁へ視線を向ける。
「そうなると、もう単純な偽物とは呼びにくいね」
「姿と記憶を盗んだ偽物だろ」
ゼラスが言う。
「本人たちは、そう思っていないかもしれないよ」
その言葉に、誰もすぐには答えなかった。
回廊を進むにつれ、壁の向こうとの距離は近づいていった。
時には数メートルほどしか離れていないように感じる。
それでも、両方の通路をつなぐ入口は見つからない。
向こうからは時折、短い会話が聞こえてきた。
『この先で下ってるよ』
『崩れているわね』
『飛び越えられる』
『全員で渡ろう』
声は四人と同じだった。
だが、現実の四人が口にしたことのない言葉が増えている。
記録を繰り返しているのではない。
向こう側の状況を見て、考え、話していた。
「今の、私たちの会話じゃないよね」
シェルミアが呟く。
「うん」
リズナは壁の向こうの風を探ろうとする。
僅かな振動は届く。
だが、魔力や空気の流れまでは捉えられなかった。
「本当に、別の四人が歩いてるみたい」
「同じ姿で、別の経験を積んでいる」
リュミエラが静かに答えた。
「このまま進めば、考え方も私たちとは違っていくでしょうね」
「それでも、迷宮が作った記録だ」
ゼラスは前を向いたまま言う。
「俺たち本人になるわけじゃない」
壁の向こうから、ゼラスと同じ声が返った。
『俺たち本人になるわけじゃない』
今回は、聞いた言葉の繰り返しではなかった。
向こうのゼラスも、ほぼ同時に同じ結論へ至ったように聞こえた。
リズナは本物のゼラスを見る。
ゼラスも壁へ一度だけ目を向けたが、何も言わなかった。
回廊の先で、床が大きく崩れていた。
幅は十メートルほど。
底は暗く、風を送っても深さを捉えられない。
向こう岸には通路が続いている。
「飛び越えられます」
リズナが風を巡らせる。
「でも、一人ずつ渡った方がいいです。途中に横から吹く風があります」
「自然な風?」
シェルミアが尋ねる。
「いいえ。壁の溝から一定の間隔で吹いています。渡っている途中で、穴へ落とすための仕掛けだと思います」
「止められるかしら」
リュミエラが溝へ魔力を伸ばす。
「完全に止めるより、吹く間隔を固定する方が早そうね」
四人が渡る順番を決めている間も、壁の向こうから足音が響いていた。
向こう側にも、同じような崩落があるらしい。
『俺が先に行く』
白いゼラスの声。
『待って。風があるよ』
白いリズナが止める。
『分かってる』
『本当に?』
『飛べばいいだろ』
『そういう問題じゃないって』
現実のリズナが、思わず壁を見る。
「向こうでも同じようなこと話してる」
「何が同じなんだ?」
ゼラスが尋ねる。
「そういうところ」
「分からん」
シェルミアが口元を緩めた。
「ゼラスは二人いてもゼラスみたいだね」
「増えてない」
現実の四人は、リュミエラが風の発生間隔を固定した後、一人ずつ崩落を越えた。
シェルミア。
リュミエラ。
リズナ。
最後にゼラス。
全員が向こう岸へ渡った直後、壁の向こうから激しい風音が響いた。
何かが石床を滑る。
『ゼラス!』
白いリズナの声。
続いて、石が崩れる音がした。
重いものが、暗い穴の中へ落ちていく。
しばらく待っても、底へぶつかる音は返ってこなかった。
現実の四人は動きを止める。
「今の……」
リズナが壁へ駆け寄った。
「向こうのゼラスが落ちた?」
返事はない。
壁の向こうから聞こえるのは、崩れた石が転がる音だけだった。
やがて、白いシェルミアの声が響く。
『反応がない』
白いリュミエラが続ける。
『魔力も感じられないわ』
『そんな……』
白いリズナの声が掠れていた。
現実のリズナは、隣にいるゼラスを見る。
彼は無事だ。
剣を持ち、いつもと変わらない表情で壁を見ている。
それでも、胸の奥に重いものが落ちたような感覚が残った。
「助けに行けないんですか?」
「道が分からない」
シェルミアが壁を調べる。
「壊すのも危険だよ。向こう側まで崩れるかもしれない」
「でも――」
「リズナ」
ゼラスが呼ぶ。
リズナが振り返る。
「俺はここにいる」
「分かってるわよ」
「なら、今は進むしかない」
リズナは言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。
壁の向こうにいるのは偽物だ。
自分たちの記録から作られた、別の四人。
それでも、白いリズナの声に混じった苦しさは、作り物には聞こえなかった。
それから先、壁の向こうの足音は三人分になった。
隊列も変わっている。
白いシェルミアが先頭。
白いリュミエラが最後尾。
白いリズナは、その間を一人で歩いていた。
会話はほとんど聞こえない。
ただ、時折立ち止まる足音だけが伝わってくる。
回廊をさらに進むと、壁が途切れた。
二つに分かれていた通路が、一つの円形広間へ合流している。
現実の四人が入った反対側には、別の入口があった。
その前に、一人の少女が座り込んでいる。
白いリズナだった。
赤い短髪。
尖った耳。
白く再現されたシルフィード。
右腕は肩から崩れ、白い液体が僅かに床へ落ちている。
「向こうの三人は?」
シェルミアが尋ねる。
白いリズナが顔を上げた。
その赤い瞳には、現実のリズナと同じ色が宿っていた。
『先へ行ったよ』
「あなたは、どうして残ったの?」
『この体じゃ、ついていけないから』
白いリズナは崩れた肩へ目を向ける。
液体は戻らない。
壁から供給される白い魔力も感じられなかった。
「再生できないの?」
現実のリズナが尋ねる。
『ここには、私を作った記録がつながってないみたい』
白いリズナは自分と同じ顔を見つめ、僅かに笑った。
『だから、ここまで』
ゼラスが反対側の通路へ目を向ける。
「俺の偽物は、本当に落ちたのか?」
白いリズナの笑みが消える。
しばらく答えなかった。
やがて、本物のゼラスではなく、現実のリズナへ顔を向ける。
『向こうのゼラスは、死んだよ』
同じ顔をした少女が、リズナ自身の声で告げた。




