第四十一話 迷宮に残る顔
白い人影の頭部で、幾つもの顔が浮かんでは消えていく。
男。
女。
老人。
まだ幼さの残る少年。
誰もが苦痛に歪み、何かを訴えるように口を動かしていた。
「こいつらは……」
ゼラスの表情が変わる。
「知ってるの?」
リズナが尋ねる。
「ああ。八百年前、この迷宮で見た顔が混じってる」
「一緒に潜った人たち?」
「違う。途中ですれ違っただけの奴もいる。死体で見つけた奴もな」
白い人影の顔が、一人の男で止まった。
片目の上から頬へ、斜めに傷が走っている。
その口が開く。
『ゼラス』
掠れた男の声が、第七十三階層の石段へ響いた。
ゼラスが剣を構える。
白い男は、ゆっくりと笑った。
『まだ、下りるのか』
「声まで覚えてるの……?」
リズナが風を巡らせる。
白い人影には、確かな呼吸があった。
喉が震え、肺へ空気を取り込んでいる。
だが、その体内を流れているのは、やはり白い魔力だけだった。
ゼラスは男の顔を見つめたまま答えない。
「知っている声なの?」
リュミエラが尋ねる。
「ああ」
短い返事だった。
「だが、本人じゃない」
『本人じゃない』
白い男が繰り返す。
その顔が崩れ、今度は髪の長い女へ変わった。
『帰りたい』
女の声。
『扉を開けて』
幼い少年の声。
『置いていかないで』
老人の声。
幾つもの言葉が、異なる口から途切れ途切れに漏れ出す。
シェルミアは白い人影ではなく、周囲の壁へ目を向けていた。
黒い石の表面に、細かな白い筋が走っている。
「リュミエラ、灯りを強くして」
「ええ」
浮かんでいた魔法灯が輝きを増した。
石段の左右を囲む壁が、奥まで照らし出される。
リズナが息を呑んだ。
壁に無数の窪みが刻まれている。
人の顔に似た形だった。
目。
鼻。
開いた口。
どれも浅く、遠目には石の凹凸にしか見えない。
だが、一度気づけば、壁一面が人の顔で埋め尽くされているようにしか見えなかった。
「こんなもの、昔からあったか?」
ゼラスが目を細める。
「いいえ」
リュミエラが壁へ解析術式を伸ばす。
「少なくとも、私が通った時には見えていなかったわ」
紫色の光が黒い石を撫でる。
壁に刻まれた顔の一つが、僅かに動いた。
閉じていた瞼が開く。
白い瞳が四人へ向けられた。
「触らないで」
リュミエラが術式を引き戻す。
直後、壁に刻まれた無数の口が一斉に開いた。
『帰りたい』
『助けて』
『こっちだ』
『まだ下りるのか』
『置いていかないで』
幾百もの声が重なり、石段全体を震わせる。
リズナは思わず尖った耳を押さえた。
音の大きさだけではない。
声の一つ一つが、すぐ近くで囁かれているように聞こえる。
「黙らせられる?」
シェルミアが声を張る。
「壁全体へ術式が広がっているわ。力ずくで壊せば、階層そのものへ影響が出るかもしれない」
「なら、先にあれを止める!」
シェルミアが白い人影を指した。
人影の背中から、何十本もの細い線が壁へ伸びている。
顔の刻まれた場所から白い魔力を吸い上げ、体へ流し込んでいた。
「壁の記録を使って、顔と声を作ってるんだよ!」
「記録?」
リズナが聞き返す。
「この迷宮を通った人間の姿や声が、壁に残されてるんだと思う! 死んだ人だけかは分からないけど、あれはそこから必要なものを引き出してる!」
白い人影が大きく膨れ上がった。
一つだった体から腕が増える。
二本。
四本。
八本。
それぞれの手に、異なる形の白い武器が作られていく。
剣。
槍。
斧。
弓。
かつて迷宮へ挑んだ者たちが使っていた武器を、形だけ写し取ったものだった。
「来るよ!」
シェルミアの声と同時に、八本の腕が動いた。
白い矢が放たれる。
リュミエラが障壁を展開し、矢を受け止めた。
その横を白い槍が回り込み、リズナの胸元へ突き出される。
「リズナ、右!」
ゼラスの声に、リズナは風をまとって身を翻した。
白い穂先が外套を掠める。
リズナはシルフィードを振り抜き、槍を持つ腕を切断した。
落ちた腕は石段へ触れると液体へ変わり、壁へ向かって這い始める。
「戻させるな!」
ゼラスが火球を放った。
白い腕が炎に包まれ、幾人もの声で悲鳴を上げる。
『熱い!』
『助けて!』
『ゼラス!』
ゼラスは声に反応せず、人影へ踏み込んだ。
右手の剣が、白い斧を受け流す。
続けて振るわれた二本の剣を、一歩下がってかわした。
そのまま低く踏み込み、人影の胴を斬り抜く。
白い体へ深い亀裂が走る。
だが、壁から伸びた線を通して魔力が流れ込み、傷口がすぐに塞がり始めた。
「供給が多すぎる!」
シェルミアは壁へ伸びる線を追う。
「全部を切るのは無理だよ! 壁一面につながってる!」
「なら、本体から引き剥がすわ」
リュミエラが両手を広げた。
紫色の術式が白い人影の周囲へ展開される。
壁へ伸びる線をまとめて囲み、一本の束として締め上げた。
白い人影が激しく揺れる。
その顔に、次々と異なる表情が浮かんだ。
怒り。
恐怖。
悲しみ。
そして、歓喜。
『開いた』
幾つもの声が重なる。
『門が開いた』
白い人影の腕が一斉にリュミエラへ向いた。
「させない!」
リズナが二人の間へ風の壁を作る。
白い武器が風へ突き刺さり、軌道を逸らされた。
その隙に、ゼラスが人影の懐へ入る。
「シェルミア、中心はどこだ」
「胸の奥! さっきの欠片が核になってる!」
白い体の内部。
幾つもの顔と武器に隠された場所で、小さな光が明滅している。
ゼラスは剣を逆手に持ち替えた。
白い人影が、片目に傷を持つ男の顔へ変わる。
『ゼラス』
刃が止まることはなかった。
「お前の声を使うな」
剣が白い胸へ突き刺さる。
ゼラスは空いた左手を柄へ重ね、さらに深く押し込んだ。
刃の先端が白い核へ触れる。
「リズナ!」
「ああもう、注文が多い!」
リズナはシルフィードを胸元へ向けた。
圧縮された風が、ゼラスの剣に沿って白い体内へ流れ込む。
傷口が強引に押し開かれた。
「見えたよ!」
シェルミアが核を指す。
リュミエラが壁との接続を締め上げる。
「今なら、再生できないわ!」
ゼラスが左手を白い核へ向けた。
掌の前に、淡い白色の球体が生まれる。
至近距離。
狙いを外す余地はない。
「バスターブリッツ!」
魔力弾が白い人影の胸へ撃ち込まれた。
圧縮された無属性魔力が、核へ直接衝突する。
鈍い音。
白い光が内側から膨れ上がった。
次の瞬間、人影の体が無数の破片となって弾け飛ぶ。
リュミエラの術式が破片を囲み、壁へ戻る前に閉じ込めた。
リズナの風が内部を巡り、白い欠片を中央へ集める。
ゼラスの炎が重なった。
幾つもの顔が浮かび、声を上げる。
『助けて』
『帰りたい』
『まだ下りるのか』
やがて、声は一つずつ消えていった。
白い破片も光を失い、灰のように崩れる。
最後に残った小さな核が、乾いた音を立てて割れた。
石段に静寂が戻る。
壁に刻まれていた顔も、全て瞼を閉じていた。
「終わった……?」
リズナが風を巡らせる。
五つ目の呼吸はない。
白い魔力の流れも感じられなかった。
「この体はね」
シェルミアが壁へ近づく。
「でも、白いものが使っていた記録は残ってる」
「記録そのものが敵というわけではなさそうね」
リュミエラは壁へ直接触れないよう、解析術式だけを伸ばした。
「この顔には、白いものとは別の魔力が宿っているわ。迷宮が元から持っていた仕組みでしょう」
「何のための仕組みだ?」
ゼラスが尋ねる。
「分からない。通過した者を記録するためか、死者を残すためか……」
リュミエラの術式が壁の奥へ沈む。
その瞬間、黒い石の表面に新たな輪郭が浮かび上がった。
老人でも、女でもない。
少年でもなかった。
若い男の顔。
長い黒髪。
鋭い目元。
現在のゼラスよりも成長した姿だった。
「ゼラス……?」
リズナが隣に立つ少年と、壁に刻まれた青年を見比べる。
ゼラスは何も答えなかった。
それは、八百年前にこの迷宮を下った時の彼自身の顔だった。
壁の中にいる青年の瞼が、ゆっくりと開く。
赤黒い瞳が、少年の姿をしたゼラスを捉えた。
そして、八百年前のゼラスの声で告げた。
『百階層へ行くな』
壁に残された過去のゼラスが、現在の自分へ警告していた。




