第三十九話 七十二階層の門
第六十八階層の広間を離れてから、しばらく進んだところで、シェルミアが腰へ手を伸ばした。
その指が、空になった鞘へ触れる。
「短剣、置いてきたんですか?」
リズナが尋ねる。
「接続点に刺したままだよ。抜いたら、魔力の供給が戻る可能性があったからね」
「回収しなくていいのか?」
ゼラスが振り返る。
「惜しくはあるけど、取りに戻る方が危険だよ。今度は、あの広間そのものが罠になってるかもしれない」
シェルミアはそう答え、地図へ視線を戻した。
「それに、あれで接続点を一つ潰した状態が続くなら、置いてきた意味はある」
「そうね」
リュミエラが頷く。
「白いものが短剣へ触れていなければ、だけれど」
シェルミアの足が僅かに止まった。
「……嫌なことを言うね」
「可能性の話よ」
「それを言うの、ゼラスだけじゃなかったんですね」
リズナが呟く。
「俺を見るな」
ゼラスは前を向いたまま答えた。
第六十九階層は、深い霧に覆われていた。
床から膝ほどの高さまで、灰色の霧が溜まっている。
視界を完全に塞ぐほどではない。
だが、石床の窪みや罠の起動部を隠すには十分だった。
「この霧には毒はないよ」
シェルミアが先頭を進む。
「ただ、床が見えにくい。前に来た時は、踏み抜き式の罠が多かった」
リズナが風を低く流し、霧を薄く押し退ける。
その先に、僅かに色の違う石板が現れた。
「右側に二つあります」
「そこは避けて」
四人は石板を迂回する。
しばらく進むと、通路が二つに分かれていた。
シェルミアは地図と壁の傷を見比べ、左の通路を示す。
「正規の経路は左だよ」
その時、右の通路から微かな魔力が放たれた。
短く一度。
間を置いて、形を変えた二度目の波。
前の階層で決めた、本人であることを確かめるための魔力の合図だった。
しかも、その流れはシェルミアのものとよく似ている。
「……今の」
リズナが右の通路を見る。
続いて、霧の奥から声がした。
『こっちだよ』
シェルミアの声だった。
本物のシェルミアが、険しい顔で右の通路を見つめる。
「魔力まで真似したね」
「短剣か」
ゼラスが言う。
「たぶんね。私の魔力が残った刃へ触れて、流れ方を覚えたんだと思う」
『私の魔力が残った刃へ触れて』
声が霧の奥で繰り返される。
『流れ方を覚えたんだと思う』
「自分で答え合わせまでするの、やめてくれない?」
シェルミアが低く言う。
霧の向こうから返事はなかった。
代わりに、右の通路の奥で白い光が一度だけ瞬いた。
「右へ誘いたい理由があるみたいね」
リュミエラが魔力を広げる。
「床下に大きな術式があります。通路へ入れば起動するでしょう」
「正規の経路は左で間違いないよ」
シェルミアは迷わず左へ進んだ。
「私の声でも、魔力でも、本人が目の前にいなければ信用しないで」
「目の前にいても、魔力の中身は確認します」
リズナが答える。
「それでいいよ」
ゼラスが右の通路へ一度だけ視線を向ける。
「姿を作るだけじゃ飽きたらしいな」
『飽きたらしいな』
霧の中から、ゼラスの声が返った。
「ゼラス、余計なことまで教えないでよ」
「俺のせいじゃないだろ」
白いものは、正面から襲ってこなかった。
その代わり、四人の進路へ先回りし、迷宮の仕掛けを動かした。
第六十九階層の終わりでは、白い短剣が霧の中から飛んだ。
狙われたのは四人ではない。
壁に埋め込まれた罠の起動部だった。
短剣が突き刺さった瞬間、天井の石板が外れ、無数の岩塊が通路へ降り注ぐ。
「上です!」
リズナが風を巻き上げる。
落下する岩の軌道が僅かにずれた。
リュミエラが紫色の障壁を広げ、残る岩を受け止める。
ゼラスは前方へ走り、炎をまとわせた剣で罠の起動部を斬り壊した。
最後の岩が石床へ落ちる。
霧の奥に立っていた白い影が、シェルミアと同じ動きで腕を下ろした。
その手に握られていた短剣は、先ほど広間へ残したものと同じ形をしている。
『今のうちだよ』
白いシェルミアが言った。
第六十八階層で、倒れた偽物を囲んだ時の言葉だった。
本物のシェルミアが残った短剣を抜く。
「私の真似をするなら、もう少し狙いを隠した方がいいよ」
白い影は首を傾げた。
次の瞬間には霧へ溶け、姿を消していた。
「シェルミアさんの戦い方まで覚え始めたんですね」
「戦い方というより、迷宮の使い方だね」
シェルミアは壊れた起動部を調べた。
「私たちを直接倒せないから、罠と地形で削ろうとしてる」
「厄介になったわね」
リュミエラが障壁を解く。
「でも、魔力の再現はまだ不完全よ。流れは似ていても、細部が単純すぎるわ」
「見分けられるうちに、先へ進もう」
シェルミアは記録板へ白い短剣の形を書き加えた。
第七十階層と第七十一階層は、ほとんど立ち止まらずに通過した。
第七十階層では、巨大な蛞蝓のような魔物が通路を塞いでいた。
強い酸を吐く魔物だったが、リズナが風で射線を逸らし、ゼラスが露出した核を炎で焼き抜いた。
第七十一階層では、床を埋め尽くす小型の甲虫を避けるため、シェルミアが壁面に残る古い足場を選んだ。
リュミエラが足場を補強し、四人は戦闘を避けて階層を抜ける。
白い影は姿を見せなかった。
声も聞こえない。
だが、進路を選ぶたびに、別の通路からシェルミアの魔力が放たれた。
こちらだと誘うように。
早く来いと急かすように。
四人は一度も応じなかった。
第七十二階層へ到達したのは、第六十八階層を離れてから三日後だった。
階段を下りた先には、広大な地下空間が広がっている。
天井は闇へ溶け、両端の壁も遠い。
真っすぐ伸びた石畳の先に、巨大な門が立っていた。
高さは十数メートル。
黒い石で造られた二枚扉には、幾重もの術式と古い文字が刻まれている。
門の前には魔物の姿も、罠の気配もない。
ただ、奥へ進む道だけを拒むように閉ざされていた。
シェルミアはその門を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「戻ってきた」
いつもの落ち着いた声だった。
それでも、その奥には抑え切れない熱が滲んでいる。
「ここが、シェルミアさんの到達した場所……」
「うん」
シェルミアは門へ歩み寄った。
「何度来ても、開かなかった。魔力を流しても、術式を調べても、扉は一度も反応しなかったよ」
ゼラスとリュミエラも門を見上げる。
二人の表情が、ほぼ同時に変わった。
「違うな」
ゼラスが呟く。
「ええ」
リュミエラが門の中央へ目を向ける。
「私が通った時には、あの術式はなかったわ」
シェルミアが勢いよく振り返った。
「どれ?」
「中央の円よ」
門の合わせ目に、直径二メートルほどの円形術式が刻まれている。
そこから白い線が左右へ伸び、扉全体を縛るように広がっていた。
「俺の時にもなかった」
ゼラスは円形術式へ近づく。
「昔は、門へ魔力を流せば開いた。それだけだ」
「私の時代も同じよ」
リュミエラが術式を調べる。
「今は、この白い術式が本来の開閉機構を塞いでいるみたいね」
「白いものが門を閉じたってこと?」
リズナが尋ねる。
「それは分からないわ。けれど、少なくとも同じ系統の力よ」
シェルミアは門の前へ膝をつき、記録板と術式を見比べた。
「私が初めて来た時には、もうこの円があった。つまり、少なくとも私が到達するより前に追加されてたことになるね」
「解除できるか?」
ゼラスが尋ねる。
「調べる時間があれば――」
シェルミアが答えかけた時、門の中央にある円が白く輝いた。
リズナの風晶石が震える。
ゼラスの指輪も赤黒い光を放った。
門に刻まれた白い線が、二人の前へ伸びてくる。
一本は、赤黒い炎の形。
もう一本は、渦を巻く白い風の形を描いた。
「第四十階層の扉と同じ……」
リズナが風晶石を押さえる。
その背後から、シェルミアの魔力が放たれた。
短く一度。
形を変えた二度目の波。
四人は一斉に振り返る。
誰もいない石畳の上に、白いシェルミアが立っていた。
顔も、服も、短剣も、本物とほとんど変わらない。
偽物は門へ向けて片手を伸ばす。
『ここを開ければいいんだよ』
門の白い術式が、偽物の魔力にも反応した。
円形術式の一部が回転する。
「まさか、シェルミアの魔力を鍵に使ったの?」
リュミエラの表情が険しくなる。
「違うよ」
本物のシェルミアは記録板を見つめたまま答える。
「私の魔力だけじゃ、門は動かなかった」
白い偽物が微笑む。
その顔が、ゆっくりと崩れた。
シェルミア。
リュミエラ。
リズナ。
ゼラス。
四人の顔が、白い頭部の上で次々と入れ替わっていく。
『一人では、開かなかった』
最後に現れたのは、顔のない白い人影だった。
『今は五人いるんだから』
円形術式が大きく回転する。
閉ざされていた第七十二階層の門が、低い音を立てて内側へ動き始めた。
白いものは、四人を追っていたのではない。
この門を開けるために、四人をここまで連れてきたのだ。




