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千年魔族は少年の姿で旅をする  作者: ポボンゴ
第三章 グラン・ラビリス編
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第三十七話 五つ目の呼吸



「……呼吸が、五つあります」


リズナの声が、暗い通路へ落ちた。


四人は息を止めたまま動かない。


それでも、何者かの呼吸だけが続いている。


吸って。


吐く。


音は四人の輪の中央から聞こえていた。


ゼラスが剣を抜く。


「位置は分かるか?」


「中央です。でも……風には何も触れていません」


リズナは意識を研ぎ澄ませた。


呼吸に合わせて、確かに空気が動いている。


だが、そこに肺も、口も、体もない。


何もない空間が、自ら息を吸って吐いているようだった。


リュミエラが右手を上げる。


「三人とも、ゆっくり離れて」


四人は互いから距離を取った。


中央へ何も残さないよう、通路の壁際まで下がる。


五つ目の呼吸は動かなかった。


誰もいない場所から、一定の間隔で聞こえ続けている。


リュミエラが紫色の術式を展開した。


細い魔力の線が空間を囲み、中央へ向けて少しずつ縮まっていく。


何かが存在するなら、逃げ道を失うはずだった。


術式の輪が狭まる。


三歩。


二歩。


一歩。


最後には、人一人が立てるほどの空間だけが残った。


だが、何も現れない。


「反応がないわ」


リュミエラが目を細める。


「術式も、何かに触れた感覚がない」


「音だけってこと?」


シェルミアが問いかける。


「いいえ。風は実際に動いています」


リズナが首を振った。


「ただ音を鳴らしているだけなら、こんな流れ方にはならない。何かが空気を吸い込んで、吐き出しています」


ゼラスは無人の中央を見据えた。


「なら、燃やせば分かる」


「待って」


リュミエラが止めるより早く、ゼラスは左手を向けた。


小さな火球が飛び、何もない空間で弾ける。


炎が球状に広がった。


その一部だけが、不自然に内側へ窪む。


人の胸に当たった炎が、輪郭に沿って避けたような形だった。


「いる」


ゼラスが踏み込む。


剣を横薙ぎに振るう。


刃は空を切った。


だが、何もないはずの場所から、白い飛沫が僅かに散った。


直後、五つ目の呼吸が大きく乱れる。


『くそっ!』


ゼラスの声が、目の前から聞こえた。


第六十三階層で白い指を焼いた時の声だった。


「姿を消してるわけじゃない」


シェルミアが床へ落ちた白い飛沫を観察する。


飛沫は石床へ染み込むように消えていく。


「体そのものが、まだ完全な形になってないんだと思う」


「完全な形?」


リズナが尋ねる。


「鏡の中では、私たちの姿を作れた。でも、鏡の外へ出た時には腕しか作れてなかったよね」


シェルミアは何もない空間へ視線を戻した。


「今は、空気を動かすところまで覚えた。体の形を作る練習をしてるんじゃないかな」


『練習をしてるんじゃないかな』


シェルミアと同じ声が返ってくる。


だが、今度は中央ではなかった。


リズナの背後。


ゼラスが即座に動く。


リズナの腕を掴んで引き寄せ、彼女の背後へ剣を振り抜いた。


再び白い飛沫が散る。


『リズナ!』


今度はゼラスの声だった。


先ほど隔壁が下りた時の、切迫した呼び声。


リズナはゼラスに引かれた勢いのまま、その胸元へぶつかった。


「大丈夫か?」


「あ、うん」


ゼラスはすぐに手を離した。


リズナも一歩下がり、シルフィードを構え直す。


少し離れた場所で、リュミエラが二人へ目を向ける。


だが、何も言わずに周囲へ術式を広げた。


「移動した瞬間を捉えられなかったわ」


「私もです」


リズナは風を通路全体へ巡らせる。


五つ目の呼吸は消えていた。


代わりに、四人の呼吸だけが戻っている。


「逃げたのかな」


「そうは思えない」


シェルミアが答える。


「私たちの反応を見て、呼吸を止めただけだよ」


ゼラスは周囲を見回した。


「面倒なことを覚えたな」


どこからも返事はなかった。


沈黙していること自体が、白いものが言葉の意味を理解し始めている証拠に思えた。




四人は隊列を組み直した。


先頭にシェルミア。


その後ろをリズナとゼラスが並び、リュミエラが後方を守る。


互いの姿を目で確認できる距離を維持し、リズナは風で三人の位置を追い続けた。


「声と呼吸だけでは、もう判別できません」


リズナが歩きながら告げる。


「次は、歩く時の空気の動きまで真似するかもしれない」


「合図を決める?」


シェルミアが尋ねる。


「聞かれている前で決めても、すぐに覚えられるだろ」


ゼラスの言葉に、シェルミアが頷く。


「そうだね。合言葉は使えない」


「魔力ならどうかしら」


リュミエラが提案する。


「声をかける時に、同時に僅かな魔力を放つの。量や形を毎回変えれば、すぐには真似できないでしょう」


「でも、印の反応は既に真似されてるんじゃないですか?」


リズナが風晶石へ触れる。


「印そのものと、本人が意識して作る魔力の動きは別よ。少なくとも、今の段階ではね」


「いつまで有効かは分からないけど、何もしないよりいいよ」


シェルミアは一度足を止めた。


右手から、短く二度だけ魔力を放つ。


「私から声をかける時は、こういう確認を入れる。ただし、毎回同じにはしないからね」


「分かりました」


「それと、誰かの姿が見えなくなっても、勝手に探しに行かない。残った三人で位置を確認してから動くよ」


「ああ」


ゼラスが答えた直後、通路の奥から同じ声が聞こえた。


『ああ』


魔力の合図はない。


四人は足を止めず、その声を無視した。




第六十五階層には、細長い体を持つ灰色の魔物が群れを作っていた。


壁の亀裂へ潜み、探索者の背後から首へ食らいつく魔物だった。


だが、白いものを警戒して広範囲へ風を流していたリズナには、隠れている位置が全て見えている。


「右の壁に三体。天井に二体います」


「前は?」


「奥に四体です」


「まとめて出すよ」


シェルミアが床の小石を蹴った。


音へ反応した魔物たちが、一斉に亀裂から飛び出す。


リズナがシルフィードを振り、正面の三体を斬り落とした。


ゼラスは右側から迫る二体を剣で払い、残る一体へ火球を撃ち込む。


リュミエラの魔力の帯が天井の二体を拘束し、シェルミアの短剣が急所を貫いた。


短い戦闘だった。


最後の魔物が床へ落ちる。


その直後、通路の奥で風が鳴った。


リズナが顔を上げる。


「今の……」


自分がシルフィードを振るった時と同じ風の音だった。


暗闇の奥から、白い筋が三本飛んでくる。


「伏せて!」


リズナの声に、四人は身を低くした。


白い筋が頭上を通過し、背後の壁へ衝突する。


石壁の表面へ、浅い三本の傷が刻まれた。


「風の刃……?」


リズナが呆然と傷を見る。


「いや、違う」


ゼラスが壁へ触れた。


「魔力で形だけ再現してる。風の流れがない」


「でも、攻撃にはなってるよ」


シェルミアの表情が険しくなる。


「私たちの戦い方まで覚え始めたんだ」


暗闇の奥から、リズナの声が届いた。


『右の壁に三体。天井に二体います』


先ほどの報告を、そのまま繰り返している。


続けて、ゼラスの声。


『まとめて出すぞ』


「それを言ったのは私だよ」


シェルミアが小さく呟く。


『それを言ったのは私だよ』


今度は正確に、シェルミアの声で返された。


ゼラスが剣を構えた。


「出てこい」


返事はない。


代わりに、通路の奥で淡い白色の球体が形作られた。


拳ほどの大きさ。


球形に圧縮された魔力。


リズナが息を呑む。


「ゼラスが使った魔力弾……?」


「違う」


ゼラスの声が低くなる。


「あれは形だけだ」


白い魔力弾が撃ち出される。


ゼラスが左手を向けた。


同じく淡い白色の球体が、掌の前へ生まれる。


「バスターブリッツ!」


二つの魔力弾が通路の中央で衝突した。


本物の無属性魔力が、白い模造品を正面から押し潰す。


白い球体が砕け、細かな光となって散った。


そのままゼラスの魔力弾は暗闇の奥へ飛び込み、石壁へ激突する。


轟音。


衝撃で通路全体が揺れた。


白いものの姿はない。


ただ、壁に残された大きな陥没の中へ、細い五本指の手形が一つだけ浮かんでいた。


「威力は全然違うみたいだね」


シェルミアが手形を見つめる。


「今はな」


ゼラスは左手を下ろした。


「でも、見せ続ければ近づいてくるかもしれない」


リズナが呟く。


「技を使わずに進むわけにもいかないよ」


シェルミアは記録板へ白い魔力弾の形を書き込んだ。


「問題は、何をどこまで見せるかだね」


リュミエラが壁の手形へ解析術式を向ける。


「見ているだけではないわ」


「どういうことですか?」


「私たちが魔法を使った直後、この階層の術式網から白いものへ魔力が流れている」


紫色の線が壁を走り、手形の周囲へ集まった。


「迷宮そのものから、再現に必要な力を受け取っているみたいね」


「じゃあ、戦うほど強くなる?」


「その可能性があるわ」


誰もすぐには答えなかった。


この先にも魔物はいる。


階層主も、罠もある。


何もせずに七十二階層へ到達することはできない。


だが、戦うたびに白いものへ新しい動きを教えることになる。


シェルミアは地図へ目を落とした。


「第六十六階層から先は、魔物を避けられる経路を優先する。必要な戦闘だけに絞ろう」


「ああ」


「ただし、手を抜くのは駄目だよ。戦闘を長引かせれば、それだけ観察される時間も増える」


「結局、早く倒すしかないってことね」


リズナがシルフィードを鞘へ収める。


「そういうことだね」


四人は再び歩き始めた。


背後の壁に残された白い手形は、誰も見ていない間にゆっくりと形を変えていた。


指が縮む。


掌が細くなる。


やがて、その跡は人の手ではなく、小さな少年の左手と同じ形になった。




第六十六階層と第六十七階層は、可能な限り戦闘を避けて進んだ。


リズナが魔物の位置を探り、シェルミアが迂回路を選ぶ。


避けられない敵だけを、四人の連携で素早く仕留めた。


白いものは姿を見せない。


声も、呼吸も聞こえない。


だが、魔法を使うたび、遠くで白い光が一度だけ瞬いた。


第六十八階層へ続く階段の前で、シェルミアが立ち止まる。


「この下は、二つの区画に分かれてる」


記録板へ階層図を表示する。


「入口の通路が途中で細くなっていて、一人ずつしか通れない。その先に広い部屋があるよ」


「分断される仕掛けは?」


ゼラスが尋ねる。


「以前はなかった。でも、今は迷宮の仕掛けまで使われてる。警戒した方がいいね」


「私が先に行くわ」


リュミエラが言った。


「向こう側から通路を固定する術式を張る。次にシェルミア、リズナ、最後にゼラスでどうかしら」


「それでいこう」


一人ずつ細い通路へ入る。


先に抜けたリュミエラが、出口の周囲へ紫色の術式を展開した。


シェルミアが続く。


リズナは風を前後へ送りながら、狭い通路を進んだ。


前方には二人の呼吸。


後方にはゼラスの呼吸。


他の気配はない。


広間へ出る。


最後にゼラスが細い通路を抜けた。


「全員いるね」


シェルミアが人数を確認する。


リュミエラ。


シェルミア。


リズナ。


ゼラス。


四人。


リズナも風を巡らせる。


「呼吸も四つです」


「なら、進もう」


ゼラスが答えた。


その瞬間、背後の細い通路から足音が聞こえた。


ゆっくりと、誰かがこちらへ歩いてくる。


一歩。


また一歩。


四人が一斉に振り返る。


暗い通路の奥に、小さな人影が見えた。


黒い髪。


少年の体。


右手には片刃の剣。


左手を下げ、静かにこちらへ歩いてくる。


ゼラスと全く同じ姿だった。


人影が広間へ足を踏み入れる。


呼吸が一つ増えた。


「全員いるね」


五人目のゼラスが、シェルミアの言葉を繰り返す。


本物と同じ顔で、僅かに笑った。




「なら、進もう」

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