第三十五話 借り物の声
暗い通路の奥から、低い笑い声が響いた。
少年の声だった。
ゼラスと同じ声。
だが、笑い方まで同じではない。
音の高低も、息の混ざり方も不自然で、覚えたばかりの動作を無理に再現しているようだった。
リズナはシルフィードを構えたまま、通路へ風を送り込む。
「誰もいない」
「声はどこから聞こえた?」
シェルミアが尋ねる。
「奥から聞こえたはずなのに……反響が変です。壁の中からも返ってきています」
リュミエラが第六十一階層への入口へ手をかざした。
紫色の魔力が薄く広がり、床や壁を撫でていく。
「声を発した魔力の痕跡が見つからないわ」
「魔法で声を作ったんじゃない?」
「少なくとも、普通の音声魔法ではないでしょうね」
暗闇から、再び声が届く。
『今は四人いるんだから』
ゼラスの声。
先ほど第五十階層で口にした言葉だった。
『一人でやる必要はないだろ』
リズナが僅かに身を固くする。
「間違いなく聞かれてたのね」
「ああ」
ゼラスは声がした方向を見据えた。
「真似をするだけなら、大したことはない」
『大したことはない』
今度は、ゼラスの言葉がほとんど間を置かずに繰り返された。
リズナが横目で見る。
「そういうこと言うから、すぐ真似されるのよ」
「事実だろ」
『事実だろ』
「ほら」
ゼラスは僅かに眉を寄せた。
シェルミアは暗い通路を観察しながら、記録板へ声の内容を書き込んでいく。
「単に同じ音を返してるわけじゃないね。第五十階層で聞いた会話を、時間が経ってから再現してる」
「言葉の意味まで理解していると思う?」
リュミエラが尋ねる。
「まだ分からない。でも、私たちを不安にさせる使い方は理解してると思う」
シェルミアは記録板を閉じた。
「ここからは、姿を確認できない相手の声には従わない。誰かに呼ばれても、声だけを頼りに動かないで」
「分かりました」
「リズナは、全員の位置を風で追える?」
「近くにいる間なら。呼吸と動きで分かります」
「お願い。道が分かれても、四人が離れないようにしよう」
「ああ、それがいいわね」
リュミエラが同意する。
ゼラスは暗闇へ一歩踏み出した。
「先へ行くぞ」
『先へ行くぞ』
「お前は黙ってろ」
『お前は黙ってろ』
リズナは思わず吹き出しかけ、慌てて口元を押さえた。
「笑うところか?」
「だって……」
暗闇の奥から、同じ声が届く。
『だって……』
リズナの表情から笑みが消えた。
今の声は、彼女自身のものだった。
第六十一階層は、細い通路が複雑に入り組んだ階層だった。
床と壁には黒い筋が幾重にも走り、少し先へ進むだけで周囲の景色が同じに見える。
シェルミアは角を曲がるたび、壁へ目印を残した。
地図上では一本道のはずの場所にも、新しい分岐が生まれている。
「前に通った時は、ここに道はなかったよ」
シェルミアが右側の通路を覗き込む。
床に埃はなく、最近開いたような崩れもない。
ずっと以前から存在していた通路にしか見えなかった。
「迷宮の構造が変わったのかしら」
「それとも、見えなかった道が見えるようになったのかもしれないね」
リズナが両方の通路へ風を送る。
「左は奥まで続いています。右は途中で風が消えました」
「なら、左だよ」
シェルミアが進もうとした時、右の通路から声が聞こえた。
『こっちが正しいよ』
シェルミアの声だった。
口調も、抑揚もよく似ている。
リズナは本物のシェルミアを見る。
彼女は目の前にいる。
「ずいぶん早く使い方を覚えたね」
シェルミアの声音は冷静だったが、表情は険しい。
右の通路から、もう一度声が響く。
『こっちが正しいよ』
続けて、リュミエラの声。
『ええ、間違いないわ』
さらにリズナの声が重なる。
『ゼラス、こっちに来て』
最後に、ゼラスの声がした。
『ああ』
四人は誰も動かなかった。
「会話にし始めましたね」
リズナが小声で言う。
「聞いた言葉をつなぎ合わせてるだけだ」
ゼラスが答える。
『聞いた言葉をつなぎ合わせてるだけだ』
「だとしても、組み合わせる順番は選んでるよ」
シェルミアは右の通路へ小石を投げ込んだ。
石は数メートル先の床へ落ちる。
その瞬間、通路全体が白く光った。
左右の壁から無数の細い針が突き出し、投げ込まれた小石を粉々に砕く。
リズナが息を呑む。
「罠へ誘った……」
「これで、少なくとも意図はあると考えた方がいいね」
シェルミアは右の通路へ印をつけ、迷わず左へ進んだ。
白い声は、その後も四人を追い続けた。
第六十二階層では、遠くからリュミエラの声で助けを求めた。
第六十三階層では、後方からリズナの声でゼラスを呼んだ。
だが、リズナの風は常に三人の位置を捉えている。
四人は一度も足を止めなかった。
やがて、声の使い方が変わり始めた。
聞いた言葉を繰り返すだけではない。
異なる言葉をつなぎ、新しい文を作るようになった。
『今は四人いるんだから』
右の壁からゼラスの声。
『一人でやる必要はないだろ』
左の壁から同じ声。
少し間を置き、天井の奥から続きが聞こえた。
『だから、一人にすればいい』
四人の足が止まった。
その言葉を口にした者はいない。
「今のは、聞いた言葉だけじゃないよね」
シェルミアが天井を見上げる。
「ああ」
ゼラスは剣を抜いた。
「意味を理解してるらしい」
直後、通路の前後から重い音が響いた。
石壁が床からせり上がり、四人を挟み込むように通路を塞いでいく。
「走って!」
シェルミアの声に、四人は前方へ駆けた。
だが、側面の壁からも石の仕切りが飛び出した。
ゼラスとリズナの間へ、分厚い壁が降りてくる。
「リズナ!」
ゼラスが腕を伸ばす。
リズナも風をまとい、前へ跳んだ。
閉じる直前の隙間を抜け、ゼラスの隣へ滑り込む。
背後で石壁が激突した。
「三人は?」
リズナが風を広げる。
すぐ近くに、ゼラスの呼吸。
壁の向こうには、二人分の僅かな空気の動きがある。
「リュミエラさんとシェルミアさんは、向こう側です!」
「無事よ」
石壁越しにリュミエラの声が届く。
「こちらから壁を調べるわ」
『こちらから壁を調べるわ』
今度は、リズナたちの背後から同じ声がした。
二人が振り返る。
暗い通路には、誰もいない。
『ゼラス』
リュミエラの声。
『リズナちゃんをお願いね』
「……それも、前に言った言葉なのか?」
ゼラスが尋ねる。
「私は聞いてない」
リズナはシルフィードを構えた。
暗闇の中から、足音が聞こえる。
軽い足音だった。
ゼラスと同じくらいの、小さな体が歩いているような音。
一歩。
また一歩。
姿は見えない。
リズナが風を送り込んでも、何も捉えられなかった。
「空気が動いてない……」
足音だけが近づいてくる。
『リズナ』
今度はゼラスの声だった。
リズナは隣を見る。
本物のゼラスが、剣を構えて立っている。
『俺の方へ来い』
「誰が行くか」
リズナが吐き捨てる。
暗闇から、低い笑い声が返った。
その瞬間、足元の床から白い指が伸びた。
細長い五本の指が、リズナの足首へ絡みつく。
「っ!」
リズナはシルフィードを振り下ろした。
刃が白い指を切断する。
だが、床に残った指は液体のように形を崩し、すぐに足首へ這い上がってきた。
「くそっ!」
ゼラスが左手を突き出す。
掌から放たれた火球が、リズナの足首へ絡みつく白い指を至近距離から包み込んだ。
炎に焼かれた白いものが、甲高い音を発する。
それは悲鳴ではない。
リズナの声だった。
『熱い!』
自分と同じ声に、リズナの動きが一瞬だけ止まりかける。
「聞くな!」
ゼラスがリズナの腕を掴み、炎の範囲から強く引き離した。
白い指は燃えながら床へ沈み込む。
笑い声だけを残し、気配が消えた。
直後、二人を隔てていた石壁へ紫色の亀裂が走る。
リュミエラの魔力が内部から壁を押し開き、シェルミアとともに姿を現した。
「二人とも、無事?」
「はい」
リズナは足首を確かめる。
傷はない。
だが、掴まれた感触だけが肌に残っていた。
シェルミアが周囲を見回す。
「私たちを分けるために、迷宮の仕掛けを動かしたんだね」
「術式を理解する速度が上がっているわ」
リュミエラは白いものが消えた床を調べる。
「最初は接続点を探しながら進んでいた。それが今では、罠や隔壁まで利用している」
「私たちの声も」
リズナが呟く。
ゼラスは暗闇を見据えた。
「覚えさせ過ぎたな」
『覚えさせ過ぎたな』
四人のすぐ近くから、声が返る。
だが、今度は誰も振り返らなかった。
第六十四階層へ続く階段を下りると、壁の材質が変わった。
黒い石の表面に、鏡のような光沢がある。
四人の姿が、歪みながら壁面へ映り込んでいた。
シェルミア。
リュミエラ。
ゼラス。
リズナ。
四人は互いの位置を確認しながら、慎重に進む。
リズナが何気なく右側の壁へ目を向けた。
映っている人影を数える。
一人。
二人。
三人。
四人。
そして、もう一人。
白い人影が、ゼラスとリズナの間を歩いていた。
顔には何もない。
目も、鼻も、口も存在しない。
それでも、何かを話すように白い顔が僅かに動いた。
壁の中から、リズナの声が響く。
『今は五人いるんだから』
白い影は、最初から仲間だったかのように四人の列へ加わっていた。




