第三十四話 聞いていたもの
第五十一階層へ続く通路には、白い手形が点々と残されていた。
人の手に似ている。
だが、指は異様に長く、掌も細い。
床についた跡は一定の間隔で続き、暗い通路の奥へ消えている。
リズナは手形へ触れないよう、細い風を這わせた。
「魔力は感じない。でも、さっき壁から出てきた腕と同じものだと思う」
「形は一致してるね」
シェルミアが記録板へ手形を写し取る。
「ただ、歩いた跡には見えない。左右の手形しか残ってないから、腕だけで這ったのかもしれないよ」
リズナの視線が、長い指跡の先を追う。
「それ、想像したくなかったです」
「私も言いながら後悔してる」
リュミエラは収納から黒い容器を取り出した。
第三十階層で回収した白い欠片が、幾重もの術式によって封じられている。
容器を手形へ近づける。
こつん。
内部から、小さな音が返った。
「同じものと考えてよさそうね」
リュミエラはすぐに容器を収納へ戻した。
「追いかける?」
ゼラスが通路の奥を見る。
「正確には、同じ方向へ進む、だね」
シェルミアは立ち上がった。
「手形が既知の経路から外れたら、私たちは追わない。今の目的は七十二階層へ到達することだよ」
「ああ」
「それと、音が消えたからって警戒を緩めないで。壁の中から出た以上、今度はどこにいるか分からない」
リズナはシルフィードの柄へ手を添えた。
「見えないところにいた時より、嫌かもしれない」
「同感だ」
ゼラスが答える。
「さっきまで、自分も叩き返そうとしてたじゃない」
「あれは壁の向こうにいたからだ」
「出てきたら急に慎重になるのね」
「姿が見えた分、危険を判断しやすくなっただけだ」
「腕しか見てないけどね」
「十分だろ」
白い手形は、二人の会話を聞いているかのように、通路の奥へ続いていた。
第五十一階層から先では、迷宮の様子が明らかに変わっていた。
第五十二階層の罠は、四人が到着する前に作動していた。
天井から落ちた無数の石槍が通路を埋めていたが、その下に魔物の死骸はない。
床にも足跡はなく、白い指跡だけが壁を横切っている。
「通路側からじゃなく、壁の中から術式へ触れたみたいだね」
シェルミアが罠の起動部を調べる。
「仕組みを理解してるのか?」
「偶然ではないと思う。でも、解除したんじゃなくて、無理やり作動させただけだよ」
第五十四階層では、普段なら縄張りを巡って争う魔物たちが、一つの広間へ集まっていた。
牙を持つ獣も、硬い殻を持つ虫も、互いを警戒しながら壁際で身を縮めている。
四人が近づいても襲ってこない。
何かが通り過ぎた通路を、ただ恐れるように見つめていた。
第五十六階層では、白い手形が床から壁へ移り、そのまま天井を進んでいた。
人のように歩いているのではない。
迷宮の上下すら意識せず、最短の経路を選んでいる。
第五十八階層へ入ると、手形は何もない壁の前で途切れた。
リズナが風を調べても、壁の向こうに空間はない。
ところが、二つ先の通路まで進むと、白い跡は再び床へ現れた。
「壁の中を通ったんじゃないね」
シェルミアが二つの地点を地図へ記す。
「間にある空間そのものを飛び越えてる」
「第四十階層で見た術式網を使っているのかしら」
リュミエラが周囲の魔力を探る。
「可能性は高いわね。けれど、移動するたびに接続点を探していたはずよ。今は以前より速くなっている」
「使い方を覚えてる?」
リズナが尋ねる。
シェルミアは少し考えてから答えた。
「そう見えるね」
誰も立ち止まらなかった。
休息を取りながらも進行速度を保ち、四人は第五十九階層を抜けた。
第五十階層を離れてから四日後。
四人は第六十階層へ続く階段の前に立っていた。
それまで続いていた白い手形は、階段の途中で消えている。
「この先は階層主の部屋だよ」
シェルミアが記録板を確認する。
「今の主は黒殻大蜥蜴。全身を厚い甲殻で覆っていて、六本の脚で壁や天井も移動する」
ゼラスが階段の下へ視線を向けた。
「八百年前は別の魔物だった」
「階層主が入れ替わることは珍しくないよ。黒殻大蜥蜴が確認されたのは、三百年ほど前からだね」
「弱点は?」
「首の付け根と、前から三番目の脚の内側。体を丸める直前だけ、腹部の甲殻にも隙間ができる」
「分かった」
シェルミアが先頭で階段を下りる。
その先には、縦に長い巨大な空間が広がっていた。
左右の壁から太い石柱が突き出し、天井近くまで複雑な足場を作っている。
第六十一階層へ続く門は、最も奥の壁にあった。
その手前に、黒殻大蜥蜴が立っている。
長い胴体を黒い甲殻が覆い、六本の脚が石床を掴んでいた。
体長は十メートルを超えている。
だが、四人が部屋へ入っても動かない。
門へ頭を向けたまま、微動だにしていなかった。
「眠ってるの?」
リズナが声を落とす。
「違う」
シェルミアの表情が険しくなる。
「黒殻大蜥蜴は、侵入者の足音に敏感な魔物だよ。この距離で反応しないのはおかしい」
リズナが風を送る。
黒殻大蜥蜴は呼吸していた。
心臓も動いている。
それでも、生き物らしい微細な動きがない。
「背中に何かあります」
黒い甲殻の上に、白い跡が幾つも残されていた。
長い五本指の手形。
首から尾へ向かって、巨体を掴むように並んでいる。
リュミエラが魔力を広げた。
「白いものが甲殻の内側へ入り込んでいるわ」
「操られてるの?」
「分からない。でも、本来の意識が表へ出ていないのは確かね」
その時、黒殻大蜥蜴が頭を動かした。
ゆっくりと額を門へ近づける。
こつん。
硬い頭部が石扉へ触れた。
一度離れ、再び打ちつける。
こつん。
そして、三度目。
こつん。
リズナの顔から血の気が引いた。
「同じ音……」
黒殻大蜥蜴の六本の脚が、一斉に石床を掴んだ。
首が不自然な角度で回る。
二つの眼球は、瞳まで白く染まっていた。
その視線はシェルミアとリュミエラを通り過ぎ、ゼラスとリズナだけを捉える。
「来るよ!」
黒殻大蜥蜴が床を蹴った。
巨体が石柱へ駆け上がり、壁から天井へ移る。
頭上を回り込むように進み、リズナへ向かって落下した。
「リズナ、右へ!」
シェルミアの声に、リズナは風をまとって跳ぶ。
直後、黒殻大蜥蜴が石床へ激突した。
六本の脚が広がり、長い尾が横薙ぎに振るわれる。
ゼラスがリズナの前へ入り、剣で尾の軌道を逸らした。
重い衝撃に、靴底が石床を滑る。
「力も記録より強い!」
シェルミアは柱の陰へ移動しながら、巨体の動きを追った。
「白いものが筋肉へ直接魔力を流してるのかもしれない!」
「なら、先に白いものを止めるわ」
リュミエラが両手を広げる。
紫色の術式が黒殻大蜥蜴の背中へ重なった。
甲殻に残る白い手形を、一つずつ囲んでいく。
白い跡が抗うように明滅した。
黒殻大蜥蜴が咆哮し、リュミエラへ頭を向ける。
だが、次の瞬間には再びゼラスを見た。
「やっぱり狙いは二人だよ!」
シェルミアが叫ぶ。
「リズナ、三番目の脚を!」
「はい!」
リズナが黒殻大蜥蜴の側面へ回り込む。
シルフィードを横へ振り抜き、風の刃を六本の脚へ走らせた。
黒い甲殻に弾かれながらも、風は脚の付け根へ入り込む。
前から三番目の脚が僅かに浮いた。
「そこだ」
ゼラスが踏み込む。
右手の剣へ炎をまとわせ、露出した脚の内側を斬り抜けた。
黒殻大蜥蜴の巨体が傾く。
壁へ逃れようとした残る脚へ、リュミエラの魔力の帯が絡みついた。
「長くは止められないわ!」
「十分です!」
リズナが風を巻き上げる。
巨体の下へ空気を叩き込み、黒殻大蜥蜴を強引に仰向けにした。
腹部を覆う甲殻が閉じようとする。
「今だけだよ!」
シェルミアが隙間を指した。
ゼラスは黒殻大蜥蜴の腹へ飛び乗った。
剣を逆手に持ち替え、閉じかけた甲殻の間へ深々と突き立てる。
刀身へ炎が流れ込んだ。
赤い光が、甲殻の内側を走る。
黒殻大蜥蜴が六本の脚を激しく振り回した。
ゼラスは剣から手を離し、巨体を蹴って飛び退く。
次の瞬間、内部へ送り込まれた炎が弾けた。
黒殻大蜥蜴の体が大きく跳ねる。
やがて六本の脚が石床へ落ち、そのまま動かなくなった。
「呼吸、止まりました」
リズナが風で確認する。
リュミエラは警戒を解かず、黒い甲殻を見つめていた。
「まだよ」
黒殻大蜥蜴の背中に残っていた白い手形が、甲殻から浮かび上がる。
形を失い、細長い光の筋となって門へ向かった。
リュミエラの術式が行く手を塞ぐ。
白い光は一度止まった。
だが、床へ沈み込むと、術式の下を通り抜けて門の中へ消えた。
「逃げた?」
リズナが門へシルフィードを向ける。
「いいえ」
リュミエラは白い光が消えた場所を見つめる。
「最初から、あちらへ移るつもりだったのかもしれないわ」
階層主が倒れたことで、第六十一階層への門が動き始める。
石扉が左右へ開き、暗い通路が現れた。
誰もすぐには進まなかった。
リズナが風を送り込む。
魔物の気配はない。
白い手形も見つからない。
「何か聞こえる?」
ゼラスが尋ねる。
「何も……」
リズナが答えかけた時、暗闇の奥から声が響いた。
幼い少年の声。
ゼラスと全く同じ声だった。
「今は四人いるんだから」
そこで声は途切れた。
しばらく待っても、続きは聞こえない。
リズナはゆっくりとゼラスを見る。
ゼラスは剣を握ったまま、暗い通路を見据えていた。
「やっぱり、聞いてたんだな」
その声に応えるように、暗闇の奥で何かが笑った。




