第二十八話 凍りついた道
火竜が倒れた後も、第二十階層の熱気はすぐには収まらなかった。
岩の亀裂を流れる溶岩が赤い光を放ち、広間のあちこちで火竜の血が小さな炎となって燃えている。
リュミエラとシェルミアが竜の傷を調べる間、リズナはゼラスの脇腹へ目を向けた。
尾に弾かれた際に裂けた衣服の下には、赤く腫れた痕が残っている。
「本当に大丈夫なの?」
「ああ、骨まではいってない」
「見せて」
「この程度なら――」
「見せて」
言い直す余地を与えない声音だった。
ゼラスは僅かに眉を上げたものの、素直に裂けた衣服を持ち上げる。
皮膚には大きな痣が広がっていたが、出血はなく、呼吸にも乱れはない。
リズナはそっと風を当て、腫れの状態を確かめた。
「直撃してたら危なかったじゃない」
「直撃しないように動いたからな」
「私が風で受け止めなかったら、壁に叩きつけられてたでしょ」
「だから、助かったと言っただろ」
ゼラスの返答に、リズナは小さく息を吐いた。
少なくとも、無理に平静を装っているわけではなさそうだ。
そこで彼女は、火竜との戦いを思い返した。
レイスウィザードを抜き、巨大な竜の魔力を内側から焼き尽くした。
あれほどの力を見せながら、ゼラスの動きにはまだ余裕が残っていた。
「……さっきも、本気出してなかったね」
ゼラスが僅かに目を細める。
「必要なかったからな」
「あれで?」
「一人で戦ってたわけじゃない」
ゼラスは倒れた火竜へ視線を向けた。
「リュミエラが炎を抑えて、シェルミアが弱点を見つけた。お前も何度も動きを崩してくれた。俺が全部やる必要はなかっただろ」
リズナは思わず黙った。
自分の力を過信しているわけでも、仲間の援護を当然だと思っているわけでもない。
必要な力を見極め、使うべき場面で使う。
ゼラスにとっては、それだけのことなのだろう。
「それは、そうだけど……」
「全力を出して迷宮を壊す方が面倒だ」
「そっちが本音でしょ」
「ああ」
迷いなく認めたゼラスに、リズナは呆れながらも笑った。
少し離れた場所では、二人の会話を聞いていたリュミエラが静かに口元を緩めていた。
だが、今度は何も言わなかった。
「二人とも、こっちへ来て」
シェルミアの声に呼ばれ、リズナとゼラスは火竜の背後にある門へ向かった。
門の表面には、四本の巨大な傷が刻まれている。
火竜の爪痕よりも深く、硬い石材を上から下まで抉り取っていた。
「この傷を付けたものは、門を開けて通ったわけじゃないみたい」
シェルミアは門の隙間へ記録板を近づける。
「無理やり押し開けたか、閉じる前に通り抜けたかだね」
「いつ付けられた傷か分かる?」
リュミエラが尋ねる。
「数日以内だと思う。石の断面がほとんど風化してない」
シェルミアが門の脇へある小さな術式へ触れると、重い音を立てて左右の扉が開き始めた。
隙間から、白い冷気が床を這うように流れ出す。
先ほどまで炎に満たされていた広間の温度が、一気に下がった。
「第二十一階層って、こんなに寒い場所なんですか?」
リズナが尋ねる。
「違うよ」
シェルミアは開いた門の向こうを見つめた。
「少し涼しい階層ではあるけど、息が白くなるほどじゃない」
門の先に続く石造りの通路は、薄い氷に覆われていた。
壁も床も凍りつき、天井からは鋭い氷柱が垂れ下がっている。
氷の表面には、巨大な足跡が残されていた。
四本の太い指。
先端には、門を抉ったものと同じ長い爪の痕が続いている。
「火竜を傷つけたものが通ったんだな」
ゼラスが言う。
「そうみたいだね」
シェルミアは足跡の大きさを記録する。
「冷気をまとってるのか、それとも通った後に周囲を凍らせてるのか……どちらにしても、記録にある魔物とは一致しないよ」
「追いますか?」
「私たちの経路と同じなら、進むしかないね」
シェルミアは立ち上がり、三人を見回した。
「でも、見つけてもすぐには戦わないこと。火竜以上の相手かもしれない」
「分かりました」
「ああ」
「ええ、慎重に進みましょう」
四人は冷気の漂う第二十一階層へ足を踏み入れた。
凍りついていたのは、入口付近だけではなかった。
通路を進むほど氷は厚くなり、途中には氷漬けになった魔物の姿も見つかった。
壁へ張りつく蜥蜴。
甲殻に覆われた虫。
獲物へ飛びかかろうとした姿勢のまま、地面から突き出した氷に貫かれている獣。
どれも食われた形跡はない。
襲われたのではなく、進路上にいたというだけで殺されたように見えた。
「狩りをしてるわけじゃないんですね」
「うん。周りのものを気にせず進んでる」
シェルミアは氷漬けになった魔物を調べ、記録板へ書き込む。
「この規模の冷気を放ち続けてるなら、相当な魔力を持ってるはずだよ」
冷気の主は先へ進んでいたが、その痕跡を追うだけでも簡単ではなかった。
氷の陰へ潜んでいた魔物が、不意に四人へ牙を剥く。
頭部を硬い氷殻で覆った蜥蜴の群れが、壁と見分けのつかない姿で待ち伏せていた。
リズナは風で僅かな呼吸を捉え、飛びかかる直前にシルフィードを抜いた。
風をまとった刃が氷殻の隙間へ入り込み、一体目の首を斬る。
残る魔物が左右から迫ると、ゼラスが片刃の剣で進路を塞いだ。
「右を頼む」
「うん!」
二人は背中を合わせることなく、それぞれの方向へ踏み込んだ。
リズナが風で二体の体勢を崩し、ゼラスがそのうち一体を斬り伏せる。
ゼラスの死角へ回り込んだ個体には、リズナの刃が先に届いた。
短い戦闘が終わると、シェルミアは倒れた魔物を見下ろした。
「これで分かったね」
「何がですか?」
「この階層の魔物は、全部逃げたわけじゃない。冷気を避けられる場所へ隠れてるんだよ」
シェルミアは氷に覆われていない壁の亀裂を示した。
「ここから先も、同じような待ち伏せが増えると思う」
「冷気の主だけ警戒すればいいわけじゃないのね」
リュミエラが言う。
「迷宮では、環境が変われば魔物の動きも変わるからね。強い何かが通った後ほど、普段とは違う危険が生まれるんだよ」
四人は足跡を追いながら、さらに下へ進んだ。
第二十一階層から続いた冷気は、二十三階層を越えても消えなかった。
本来の経路が氷で塞がれた場所では、シェルミアが過去の記録から迂回路を探した。
氷に覆われた洞窟では、リュミエラが凍結した術式を傷つけないよう慎重に解除した。
二十五階層では、天井から降り注ぐ氷柱をリズナの風が逸らし、その下を四人が駆け抜けた。
二十七階層では、冷気に追われて縄張りを変えた魔物の群れと遭遇した。
狭い通路だったため、リズナはシルフィードを収め、双短剣エアリアルで前へ出る。
左右の刃で爪と牙を受け流し、足元へ風を集めて敵の間を駆け抜ける。
その背後から、ゼラスの魔法弾が逃げ道を塞いだ。
数日をかけ、四人は二十九階層まで到達した。
途中で何度も冷気の主の痕跡を見つけたが、その姿を捉えることはできなかった。
足跡は一度も迷わず、深層へ向かっている。
「目的地があるみたいだね」
休息を取りながら、シェルミアが地図を見つめる。
「どこへ向かってるんでしょうか?」
「少なくとも、この辺りで止まるつもりはなさそう」
シェルミアは三十階層へ続く経路を指でなぞった。
「この先には、かなり大きな空洞がある。通り抜けるには、中央を横切るしかないよ」
「そこにいる可能性は?」
ゼラスが尋ねる。
「高いと思う。足跡の間隔が少しずつ狭くなってるから、移動速度が落ちてる」
「傷を負っているのかしら」
リュミエラが言う。
「それとも、目的地へ近づいて急ぐ必要がなくなったのか」
シェルミアは記録板を閉じた。
「どちらにしても、次の階層では姿を見られるかもしれないね」
翌日、四人は第三十階層へ続く門の前へ立った。
門は閉じていなかった。
左右の扉が内側から押し広げられ、分厚い石材が折れ曲がっている。
その向こうには、青白い氷に覆われた巨大な空洞が広がっていた。
リズナは風を送り込み、内部を探る。
冷気の中を進んだ風が、空洞の中央で何かにぶつかった。
高い壁のように巨大な体。
ゆっくりと動く呼吸。
そして、こちらへ向けられた二つの視線。
「います」
リズナはシルフィードの柄へ手を掛けた。
「こっちに気づいてます」
空洞の中央で、氷山の一部に見えていたものが動いた。
青白い氷の装甲が軋み、床へ積もった霜が崩れ落ちていく。
四本の長い爪が、氷の下から姿を現す。
その爪には、乾き切っていない火竜の血が残されていた。
火竜を追い詰めた巨獣が、ゆっくりと立ち上がった。




