第二十七話 霊炎
「レイスウィザードだ」
その名に応えるように、黒い刃の周囲で無数の気配が渦を巻いた。
迷宮の中で命を落とした魔物たち。
既に形を失い、石壁や地面へ染みついていた霊的な残滓が、次々とレイスウィザードへ集まっていく。
シェルミアは剣から目を離せずにいた。
「周囲の残滓を吸収してる……?」
「観察は後にして」
リュミエラが魔法障壁を張り直す。
「来るわよ」
火竜が咆哮を上げた。
鱗の隙間から噴き出した炎が一段と激しくなり、巨大な体を包み込む。
竜が前脚を振り下ろした。
ゼラスは横へ踏み込み、爪をかわす。
床が砕けると同時に、黒い刃を竜の脚へ走らせた。
レイスウィザードの刃に圧縮された霊力がまとわりつく。
先ほどまで普通の剣を弾いていた鱗に、深い傷が刻まれた。
火竜が苦痛の声を上げる。
傷口から噴き出した血が炎へ変わった。
ゼラスは身を引いたが、炎は生き物のように刃を追い、腕へ絡みつこうとする。
「ゼラス!」
リズナがシルフィードを振るった。
横から叩きつけられた風が炎の軌道を曲げ、ゼラスの背後へ流していく。
「ああ、助かった」
ゼラスは短く答え、火竜へ視線を戻した。
「炎そのものに意思があるみたいですね」
「竜の魔力で制御されてる」
シェルミアは火竜の動きを追いながら答える。
「傷を増やすほど、周りの炎も強くなるよ。普通に削り続けたら、こっちが先に焼かれる」
「なら、一気に仕留めるしかないな」
「簡単に言うね」
シェルミアはそう返しながら、火竜の左側へ視線を走らせた。
裂けた翼。
深く抉られた脇腹。
竜が迷宮を上ってくる前に負った傷は、今も完全には塞がっていない。
「左へ追い込もう。翼の付け根にある傷を狙うよ」
「どうやってですか?」
「リズナは右翼の風を崩して。飛べなくても、あれで体勢を支えてる」
「分かりました」
「リュミエラは後脚を止められる?」
「長くは無理だけれど、機会は作れるわ」
「ゼラスは傷口を狙って」
「ああ」
シェルミアは短剣を構え直した。
「一度で決められなくても、深く斬れば動きは鈍る。焦らず合わせて」
火竜が大きく息を吸った。
口内に赤い光が集まり、熱気が周囲の空気を歪ませる。
「炎が来ます!」
リズナは火竜の正面へ風を集中させた。
次の瞬間、広間を焼き尽くす勢いで火炎が放たれる。
正面から受け止めるのではなく、風の流れを僅かに傾ける。
炎は四人の頭上を通り過ぎ、背後の岩壁へ激突した。
溶けた岩が赤く滴り落ちる。
火竜が息を吐き切る直前、ゼラスが床を蹴った。
無数の魔法弾が竜の顔面へ飛ぶ。
鱗を貫くほどの威力はない。
だが、立て続けに目元へ着弾し、火竜は顔を背けた。
「今!」
リズナがシルフィードを振り上げる。
火竜の右翼を支えていた空気の流れへ、逆向きの風を叩き込んだ。
広げられていた翼が大きく揺らぐ。
巨体の均衡が崩れ、火竜の体が左へ傾いた。
リュミエラの足元に紫色の魔法陣が浮かぶ。
そこから伸びた幾本もの魔力の帯が、火竜の後脚へ巻きついた。
巨体が踏みとどまろうとする。
だが、片側の翼を乱され、後脚を縛られた状態では支え切れない。
火竜の左半身が地面へ沈んだ。
裂けた翼の付け根が露出する。
「ゼラス!」
シェルミアの声が広間へ響く。
ゼラスは既に傷口の目前まで迫っていた。
レイスウィザードへ、自らの炎を流し込む。
刀身を包んだ火が、集められた霊力と混ざり合った。
燃え盛るだけの炎ではない。
触れた魔力へ食い込み、その内側まで焼く霊炎が、黒い刃を覆っていく。
ゼラスは翼の付け根へレイスウィザードを振り下ろした。
霊炎をまとった刃が、分厚い鱗と筋肉を断ち切る。
火竜の絶叫が広間を震わせた。
魔力の帯が引きちぎられる。
巨大な尾が振り回され、ゼラスへ迫った。
「危ない!」
リズナが風を放つ。
ゼラスの体を横から押し、尾の直撃を避けさせる。
それでも完全には逃れられず、尾の先端がゼラスの脇腹を捉えた。
小さな体が宙へ弾き飛ばされる。
「ゼラス!」
リズナは駆け出しながら風を広げた。
壁へ叩きつけられる寸前でゼラスの体を受け止め、勢いを殺して床へ下ろす。
「大丈夫?」
「ああ、直撃はしてない」
ゼラスはすぐに立ち上がった。
衣服の脇腹が裂けているが、動きに大きな乱れはない。
「助かった」
「後でちゃんと確認するからね」
「分かった」
素直に答えるゼラスを見て、リズナは一瞬だけ意外そうな顔をした。
だが、今は言葉を続ける余裕がない。
火竜は翼の付け根から大量の血を流しながら、再び立ち上がろうとしていた。
傷口から噴き出す炎が周囲へ広がり、地面を赤く染めていく。
「まだ動くの……?」
「竜だからね」
シェルミアは火竜の胸元を見つめた。
鱗の奥で、赤い光が脈打っている。
一度。
二度。
鼓動に合わせて光が強くなっていく。
シェルミアの表情が変わった。
「全員、離れて!」
「何が起きるの?」
「体内の魔力を一気に放出するつもりだよ! この広間ごと焼き払われる!」
火竜の体を覆っていた炎が、胸元へ吸い込まれていく。
周囲の温度が急激に上がった。
逃げ切れる距離ではない。
「リズナちゃん、竜の周囲から空気を奪える?」
リュミエラが尋ねる。
「完全には無理です。でも、炎が広がる方向なら抑えられます」
「それで十分よ。私が外側を囲うわ」
リュミエラが両手を広げた。
火竜を包むように、幾重もの魔法障壁が展開される。
内側から膨れ上がる魔力に押され、障壁の表面へ次々と亀裂が走った。
リズナはシルフィードを地面へ突き立てる。
火竜の周囲へ風の渦を作り、噴き出そうとする炎を内側へ押し戻した。
「長くは持ちません!」
「ゼラス!」
リュミエラの呼び声に、ゼラスがレイスウィザードを握り直す。
「胸の光が集まってる場所!」
シェルミアが指し示す。
「そこが魔力の中心だよ!」
火竜が前脚を振り上げた。
シェルミアが横から短剣を投げる。
刃は目元へ突き刺さりはしなかったが、竜の注意が一瞬だけ逸れた。
その隙にゼラスが懐へ入る。
火竜の胸を覆う鱗は、脚や翼よりも厚い。
ゼラスは正面から刃を振るわなかった。
先ほど自らが付けた翼の傷へレイスウィザードを突き入れる。
火竜の体内へ、圧縮された霊力と闇の魔力を流し込んだ。
霊炎が傷口から内側へ走る。
竜の体を巡る炎へ混ざり込み、その流れを逆に辿っていく。
胸元へ集められていた赤い光が大きく揺らいだ。
「グオオオオオオッ!」
火竜が暴れる。
ゼラスはレイスウィザードを手放さない。
両足を踏み込み、さらに深く刃を押し込んだ。
「燃えるなら、内側から燃えろ」
霊炎が一気に膨れ上がった。
火竜の胸元で、赤い光と淡い炎が衝突する。
暴発しかけていた魔力が霊炎に呑み込まれ、竜の体内で収束していく。
一瞬の静寂。
次いで、火竜の胸の奥から低い破裂音が響いた。
巨体から力が抜ける。
振り上げられていた前脚が床へ落ち、金色の瞳から光が消えていった。
ゼラスがレイスウィザードを引き抜く。
火竜はゆっくりと横倒しになり、広間全体を揺らしながら地面へ沈んだ。
竜を包んでいた炎が消える。
残ったのは、熱せられた岩の赤い光と、四人の荒い呼吸だけだった。
リズナは風を巡らせ、火竜の気配を確かめる。
「……もう、動きません」
リュミエラも魔法障壁を解いた。
シェルミアは倒れた火竜へ慎重に近づき、瞳と呼吸を確認する。
「討伐完了だね」
その言葉を聞き、リズナはようやくシルフィードを下ろした。
ゼラスもレイスウィザードに残った霊炎を消し、刃を眺める。
黒い刀身に損傷は見られない。
シェルミアの視線が、再び魔剣へ吸い寄せられた。
「今の剣、あとで詳しく見せてもらっていい?」
「見るだけならな」
「触るのは?」
「駄目だ」
「まだ何もしてないのに」
「今の顔を見れば分かる」
シェルミアは不満そうに口を閉じた。
その横で、リュミエラが小さく笑っている。
「気持ちは分かるけれど、今は竜の調査が先ね」
「分かってるよ」
シェルミアは気持ちを切り替え、火竜の裂けた翼へ向かった。
ゼラスが付けた傷ではない。
浅層へ現れる以前から残されていた、古い傷を調べていく。
「やっぱり、この竜は何かに襲われてる」
「竜同士ではないの?」
リズナが尋ねる。
「少なくとも、爪の形は違うね」
シェルミアは傷の幅を測り、記録板へ写し取った。
「刃物にも見えるけど、こんな大きさの刃を振るう生き物なんて――」
言葉が止まる。
火竜の背後にある、第二十一階層への門。
その表面に、四本の深い傷が刻まれていた。
火竜の爪痕よりも太く、遥かに長い。
傷は門の上部から床まで続き、硬い石材を深々と抉っている。
シェルミアは火竜の前脚と門の傷を見比べ、ゆっくりと首を横へ振った。
「この竜の爪じゃない」
門の向こうから、冷たい空気が流れ出した。
先ほどまで炎に満たされていた広間とは思えないほど、温度の低い風だった。
リズナはその流れを感じ取り、シルフィードを握り直す。
火竜を追い詰めた何かは、第二十一階層のさらに奥にいた。




