第二十六話 火竜
黒赤色の鱗が残されていた場所から、竜の痕跡はさらに下へ続いていた。
焦げた岩壁。
噛み砕かれた魔物の骨。
硬い爪で石床を削った跡。
隠そうとする様子もなく、巨大な何かが通り過ぎた痕跡が、迷宮の奥へ伸びている。
「追うのか?」
ゼラスが尋ねる。
「私たちが進む道と同じだからね」
シェルミアは地図を確認しながら答えた。
「ただし、無理に追いつくつもりはないよ。相手の状態も、どこで止まったのかも分からない。先に見つけたからって、すぐに仕掛けないこと」
「ああ」
「リズナもね」
「分かっています」
先ほどゼラスだけに念を押した時よりも、少しだけ強く返事をする。
シェルミアは満足そうに頷くと、黒い水が流れる渓谷の奥へ歩き始めた。
第十階層を越えてからも、四人の進行は止まらなかった。
第十一階層では、壁の隙間から群れで現れた鎧百足を退けた。
硬い外殻を持つ鎧百足には正面から刃が通りにくかったが、リズナが風で体を裏返し、露出した腹をゼラスが斬った。
第十三階層では、湿地へ擬態していた粘泥の魔物が足元へまとわりついた。
リュミエラが魔力の流れを止め、シェルミアが核の位置を見抜くことで突破した。
岩壁が複雑に交差する第十五階層では、リズナが双短剣エアリアルを使った。
両側から飛びかかる石猿を二本の刃で捌き、風をまとった蹴りで一体を壁へ叩きつける。
その戦いぶりを見たゼラスが、何かを言いかけて口を閉じた。
「何?」
「いや、短剣も使えると言ってたのを思い出しただけだ」
「今度は驚かなかったの?」
「二度も同じことで驚くか」
「可愛げがないわね」
そう言いながらも、リズナの声はどこか楽しそうだった。
少し離れた場所でそのやり取りを聞いていたリュミエラが、静かに目を細める。
だが、今度は何も言わなかった。
階層が深くなるにつれ、竜の痕跡は新しくなっていった。
焼け焦げた壁には、まだ熱が残っている。
倒された魔物の血も乾き切っていない。
一方で、第十階層まで見られた大規模な魔物の移動は、徐々に収まり始めていた。
「竜が移動した直後だけ、周囲の魔物が逃げ出したみたいだね」
第十八階層で休息を取りながら、シェルミアが記録板へ情報を書き込む。
「この辺りでは、もう普段どおりの縄張りに戻り始めてる」
「それなら、竜はどうして浅い階層まで上がってきたんでしょうか?」
リズナが尋ねる。
「分からない」
シェルミアは素直に首を横へ振った。
「餌を追ってきたのか、何かから逃げてきたのか。それとも、迷宮の構造が変わって、本来とは別の階層へ迷い込んだのかもしれない」
「竜が迷うのか?」
ゼラスが壁へ背を預けたまま尋ねる。
「グラン・ラビリスならね」
シェルミアは当然のように答える。
「昨日まで存在した道が閉じて、全く別の階層へつながることもある。竜だからって迷宮の構造を全部知ってるわけじゃないよ」
「何でもありだな」
「だから面白いんでしょ」
「それはもう聞いた」
四人は短い休息を終え、再び歩き始めた。
第十九階層へ到達した時には、迷宮へ入ってから九日が過ぎていた。
そこから第二十階層へ続く階段には、竜の鱗が幾つも落ちていた。
一枚一枚が、第十階層で見つけたものより大きい。
階段の壁には巨体を擦った跡が残り、下から熱を帯びた空気が吹き上がってくる。
「この先にいるね」
シェルミアが声を落とした。
リズナも風を階段の下へ送る。
だが、熱気が強すぎて、風の流れが大きく乱れていた。
「かなり広い場所です。一体だけいます。ただ……」
「ただ?」
「大きすぎて、全体を捉えきれません」
シェルミアは記録板を閉じた。
「第二十階層には、大広間がある。下へ進むには、そこを通らないといけないよ」
「迂回路は?」
リュミエラが尋ねる。
「私が知る限りはないね」
「倒すしかないか」
ゼラスが立ち上がる。
「まだ決めつけないで」
シェルミアは階段の奥を見つめた。
「こちらを敵だと認識していなければ、刺激せずに通れる可能性もある」
「竜の横を歩いて通るんですか?」
「できるなら、それが一番だよ」
リズナは想像し、僅かに表情を引きつらせた。
「できる気がしません」
「私もあまり期待してない」
シェルミアは短剣の位置を確かめる。
「でも、戦わずに済む可能性があるなら、最初から捨てるべきじゃないからね」
四人は足音を抑え、慎重に階段を下りた。
第二十階層は、黒い岩で囲まれた巨大な空洞だった。
天井は光が届かないほど高い。
地面の至る所から赤い光が漏れ、岩の亀裂を流れる溶岩が広間を照らしている。
広間の中央に、巨大な竜がいた。
黒赤色の鱗に覆われた体は、飛行船よりも長い。
折り畳まれた翼だけでも、小さな建物ほどの大きさがある。
頭部からは後方へ湾曲した角が伸び、閉じられた口の隙間から赤い炎が漏れていた。
竜は眠っていない。
広間へ入った四人を、金色の瞳でじっと見つめていた。
その背後には、第二十一階層へ続く巨大な門がある。
「通してくれそうには見えないな」
ゼラスが呟いた。
「まだ何もしてないよ」
シェルミアはそう答えながらも、短剣の柄へ手を掛けていた。
リュミエラが竜の体を観察する。
「傷を負っているわ」
左の翼は大きく裂け、鱗の一部が剥がれている。
脇腹には剛爪熊に残されていたものと似た傷があったが、竜自身の傷はさらに深かった。
巨大な牙か、刃のようなものによって抉られている。
「浅層へ上がってきたのは、傷を負って逃げていたからかもしれませんね」
リズナが小声で言う。
「それでも、今の私たちにとって危険なことは変わらないよ」
シェルミアは竜の目から視線を逸らさなかった。
「刺激しないように、壁際を進む。急に動かないで」
四人は広間の端へ寄り、竜との距離を保ったまま歩き始めた。
竜の頭部が、その動きに合わせてゆっくりと向きを変える。
一歩。
二歩。
門までの半分ほど進んだところで、竜の喉が赤く光った。
「止まって!」
シェルミアが叫ぶ。
竜が大きく口を開く。
広間を埋め尽くすほどの炎が、一直線に放たれた。
リュミエラが即座に両手を前へ出す。
幾重もの魔法障壁が展開され、押し寄せる炎と衝突した。
激しい光が弾ける。
障壁の表面を炎が這い、周囲の岩が赤く焼けていく。
「リズナ!」
「はい!」
リズナはシルフィードを抜き、障壁の左右へ風を流した。
正面から受け止められた炎を二つに分け、四人の横へ逃がしていく。
それでも熱気は凄まじく、呼吸をするだけで喉が焼けるようだった。
炎が途切れる。
「交渉は失敗だね!」
シェルミアが短剣を抜く。
竜は前脚を踏み出し、広間を震わせる咆哮を上げた。
「散開して!」
四人が左右へ分かれる。
竜の尾が横薙ぎに振るわれ、直前まで立っていた岩場を粉砕した。
リズナは風をまとって跳び、砕けた岩をかわす。
その下をゼラスが駆け抜けた。
収納から幅広の剣を取り出し、竜の前脚へ斬りつける。
刃が鱗へ当たり、甲高い音が響いた。
火花が散る。
鱗の表面に細い傷が付いただけだった。
「硬いな」
「右前脚の内側!」
シェルミアが声を飛ばす。
「鱗が薄い!」
竜がゼラスへ爪を振り下ろす。
ゼラスは最小限の動きで外へ抜け、そのまま前脚の内側へ剣を走らせた。
今度は刃が通る。
だが、深く斬り込む前に竜が脚を引いた。
傷口から流れた血が、地面へ落ちる前に炎となって燃え上がる。
「血まで燃えるのか」
ゼラスが距離を取る。
竜は翼を広げた。
傷ついた左翼は十分に動かない。
それでも、右翼が起こした風圧だけで、床の石片が弾丸のように飛び散った。
リズナはシルフィードを振るい、正面から飛んできた石を風で逸らす。
シェルミアは柱の陰へ滑り込みながら叫んだ。
「飛べない代わりに、地上で戦うことに慣れてる! 正面に立たないで!」
竜の頭部がリズナへ向く。
口元に炎が集まり始めた。
「させない」
リズナは竜の顔へ向けて風を放った。
炎そのものを消すことはできない。
だが、収束しようとする熱と空気の流れを横から崩す。
竜が放った火炎は狙いを外れ、広間の天井へ突き刺さった。
溶けた岩が赤い雨となって降り注ぐ。
リュミエラが魔法障壁を広げ、四人の頭上を覆った。
「長引かせない方がいいわね」
「そうだね」
シェルミアは竜の左翼へ視線を向ける。
「負傷してるとはいえ、火力も体力も桁が違う。狙うなら、翼の付け根にある傷か、前脚の内側――」
竜が再び咆哮した。
全身の鱗の隙間から炎が噴き出す。
熱気が渦を巻き、竜の体を赤い炎の膜が覆った。
近づくだけで、普通の武器では刃が焼けてしまう。
ゼラスは手にした剣を見た。
刃先が赤く熱せられ、僅かに歪み始めている。
「普通の剣じゃ面倒だな」
幅広の剣を収納へ戻す。
その右手が、再び開かれた収納の奥へ入った。
リュミエラが、その動きを見て僅かに目を細める。
ゼラスが取り出したのは、古びた黒い鞘に収められた一本の魔剣だった。
鞘から刃が抜かれた瞬間、広間に残されていた無数の気配が揺れる。
これまで迷宮で命を落とした魔物たちの残滓が、黒い刃へ吸い寄せられていく。
シェルミアが、初めて目にする剣を凝視した。
「それが……」
ゼラスは炎をまとった竜を見上げ、魔剣を静かに構える。
「レイスウィザードだ」




