第二十四話 迷宮の洗礼
巨大な入口をくぐって間もなく、シェルミアが足を止めた。
「本格的に進む前に、一つ決めておこうか」
外から差し込む光は、まだ四人の足元まで届いている。
シェルミアは三人を順に見回した。
「迷宮の中では、私はみんなを名前で呼ぶよ。長い肩書きや敬称は、急いでる時には邪魔だからね。リュミエラ様もそれでいい?」
「ええ、構わないわ」
「ゼラスは今までどおりでいいね」
「ああ」
最後に視線を向けられたリズナは、少し迷ってから口を開いた。
「私は、その……皆さんへの呼び方は今までどおりでもいいですか?」
「リュミエラさんとシェルミアさんって呼ぶってこと?」
「はい。まだ呼び捨てにするのは、少し落ち着かなくて……」
シェルミアは僅かに首を傾げたものの、すぐに頷いた。
「呼びやすい方でいいよ。ただ、戦ってる時に敬称まで付けられなくても気にしないからね」
「分かりました」
「それじゃあ、改めて出発しようか」
シェルミアが先頭に立ち、四人は迷宮の奥へ歩き始めた。
石造りの通路は、四人が横に並んでも余裕があるほど広い。
天井も高く、壁に埋め込まれた淡い光が、緩やかな下り坂を照らしている。
一見すると、人工的に整備された安全な道にも見えた。
だが、石壁には武器や爪によって刻まれた古い傷が幾つも残り、床の端には魔物の骨が転がっている。
入口から遠ざかるにつれて、外の喧騒も聞こえなくなっていった。
「第一階層から、ずいぶん広いんですね」
リズナが周囲を見回しながら言った。
「ここはまだ入口に近いからね。この先は広間や横道が増えて、もっと複雑になるよ」
シェルミアは歩きながら、入口の管理所で受け取った記録板を取り出した。
迷宮へ入る探索者たちから集められた、最新の情報が記されている。
「それと、浅層で岩甲狼の目撃が増えてる。第一階層まで群れが上がってきたって報告もあるから、気をつけて」
「本来は、第一階層にはいない魔物なんですか?」
「普段はもう少し下にいるね。浅層で全く見ないわけじゃないけど、ここ数日は明らかに数が多い」
「原因は分かっているの?」
リュミエラが尋ねる。
「管理所では、下の階層で縄張り争いが起きた可能性が高いって考えてるみたい。でも、まだ詳しい調査は終わってないよ」
シェルミアは記録板を閉じる。
「岩甲狼は群れで動く。背中と肩の甲殻は硬いけど、腹や関節は普通に斬れる。正面から突進を受け止めなければ、そこまで厄介な相手じゃない」
「普通の探索者にとっては?」
ゼラスが尋ねた。
「装備と人数が揃っていれば倒せるよ。ただ、狭い通路で群れに挟まれたら危ないね」
通路はやがて、太い石柱が幾つも並ぶ広間へ続いていた。
柱の間には深い暗がりが広がり、壁の光も奥までは届いていない。
シェルミアは広間へ入る手前で再び足を止めた。
「リズナ、風で中を探れる?」
「はい」
リズナは首元の風晶石へ意識を向けた。
足元から薄い風を流し、広間全体へ広げていく。
風は柱の間を抜け、壁際をなぞり、天井付近まで昇っていった。
積もった埃。
古い血の痕。
柱の陰に散らばる骨。
右奥の壁には、記録にない横穴が開いている。
その奥から、温かく湿った空気が流れ出していた。
「右奥に穴があります」
リズナは目を閉じたまま告げる。
「中に何かいます。七体です。一体だけ、かなり大きいですね」
「報告にあった岩甲狼の群れかもしれないね」
シェルミアは記録板に表示された地図を確認する。
「でも、前に来た時にはあんな穴はなかった」
「最近できたのか?」
ゼラスが暗がりへ目を向ける。
「そうだと思う。壁が動いて開いたのか、魔物がどこかから掘り進んできたのかは分からないけど」
シェルミアは床に残された足跡を調べた。
太い爪痕が幾重にも重なり、柱の陰には噛み砕かれた骨が積まれている。
「ここを通る探索者を襲ってたみたいだね。管理所へ報告するだけでもいいけど、放置すればまた被害が出る」
「倒していくのか?」
「うん。七体なら、私たちで十分対処できる」
シェルミアは三人を見回した。
「戦う前に役割を確認しておこう。ゼラスは前衛だね」
「ああ」
「リズナも剣で戦えるって聞いてるけど、普段はどんな武器を使うの?」
「風魔剣シルフィードです。狭い場所では、双短剣エアリアルも使います」
「二刀流もできるんだ」
「はい」
シェルミアは広間の幅を確認した。
「ここならシルフィードの方が動きやすそうだね。ゼラスと一緒に前をお願い。ただし、二人で同じ相手を追わないこと」
「分かりました」
「リュミエラは後方の警戒を頼める?」
「ええ、別の通路から近づくものがいないか見ておくわ」
「私は全体を見ながら、二人を抜けてきた個体を止めるよ」
役割を確認すると、ゼラスは収納から片刃の剣を取り出した。
リズナも腰の鞘から風魔剣シルフィードを抜く。
淡い風が刀身を包み、足元の埃を静かに押し退けた。
シェルミアの視線が一瞬だけその刃へ向いたが、今は質問を挟まなかった。
「リズナ、相手の動きを追える?」
「やってみます」
シルフィードを構えたまま、横穴へ風を送り込む。
七つの呼吸。
硬い爪が石を引っかく音。
荒い息遣いに混じって、一体が頭を上げる気配を捉えた。
「気づかれました」
穴の中から、低い唸り声が重なった。
次の瞬間、暗がりから灰色の獣が飛び出す。
狼に似た姿をしているが、その体は一回り以上大きい。
肩から背中にかけて岩のような甲殻に覆われ、口から突き出した牙は短剣ほどもあった。
一体。
二体。
続けて六体が広間へ現れ、その後ろから、さらに巨大な一体が姿を見せる。
「来るよ!」
シェルミアの声と同時に、群れが床を蹴った。
ゼラスが低く踏み込む。
先頭の一体が飛びかかるより早く、片刃の剣が顎の下を通り抜けた。
硬い甲殻を避け、守りの薄い喉だけを正確に断つ。
獣は勢いを失わないまま床を滑り、ゼラスの脇を通り過ぎた。
その左では、別の一体がリズナへ迫っている。
リズナは正面から受けず、風をまとって斜め前へ踏み込んだ。
牙が肩先を通り過ぎる。
同時に、シルフィードの刃が前脚の甲殻の継ぎ目へ滑り込んだ。
足を斬られた獣が大きく体勢を崩す。
リズナは踏み込みの勢いを殺さずに身を翻し、風をまとわせた刃で喉を斬り上げた。
巨体が血を散らしながら床へ倒れる。
続く一体が背後から飛びかかった。
リズナは振り返らない。
周囲へ広げていた風が、その動きを捉えている。
身を沈めて爪をかわし、低い姿勢からシルフィードを横へ振り抜いた。
刃から放たれた風が、獣の腹を切り裂く。
「話には聞いていたけれど、本当に前衛でも戦えるのね。
これまで風魔法を使っているところしか見ていなかったから、少し驚いたわ」
後方を警戒していたリュミエラが、感心したように言った。
「風魔法を使う機会が多かっただけです!」
リズナは倒れ切らなかった獣へ一歩踏み込み、その首へ刃を突き立てる。
「剣で戦う方が得意なくらいなんですから!」
「それは頼もしいわね」
別の岩甲狼が二人の間を抜け、シェルミアへ向かった。
シェルミアは慌てず、踏み込んできた前脚を短剣で受け流す。
刃先を甲殻の隙間へ滑り込ませ、その動きを鈍らせた。
「リズナ、左へ!」
「はい!」
指示に従い、リズナは風を床へ叩きつけた。
岩甲狼の足元で空気が弾け、巨体が僅かに浮き上がる。
シェルミアはその下を潜り抜け、後脚の腱を切った。
着地を崩した獣へリズナが迫り、シルフィードで喉を断つ。
「いい連携だね」
「シェルミアさんの指示が早いんです!」
残る岩甲狼の一体が、後方のリュミエラへ向かう。
リュミエラはその場から動かなかった。
獣が大きく口を開き、目前まで迫る。
その足元に紫色の光が走った。
細い魔力の帯が四肢へ絡みつき、巨体を空中で止める。
リュミエラが指先を僅かに動かすと、岩甲狼の体は横へ投げ出された。
石柱へ叩きつけられた獣が床へ落ちる。
ゼラスは即座に距離を詰め、甲殻の隙間へ剣を突き入れた。
最後に残ったのは、横穴の前へ立つ群れの主だった。
他の個体よりも二回り近く大きい。
背中を覆う甲殻は黒く、幾つもの傷が刻まれている。
仲間が倒されても逃げようとはせず、低く身を沈めて唸っていた。
「来るよ。かなり速い」
シェルミアが注意を促す。
群れの主が床を蹴った。
巨体からは想像できない加速だった。
標的はゼラスではない。
横へ大きく回り込み、リズナへ向かってくる。
「見えてます!」
リズナはシルフィードを構え直した。
正面から押し返そうとはしない。
風を足元へ集め、突進の直前に真横へ跳んだ。
だが、岩甲狼は床を削りながら強引に方向を変える。
大きく開かれた顎が、逃れたリズナを追った。
そこへゼラスが割り込む。
剣の腹で牙を逸らし、巨体の下へ潜り込んだ。
「首の下!」
シェルミアの声が飛ぶ。
「甲殻が途切れてる!」
リズナは風を一気に収束させた。
ゼラスが押し上げた獣の顎へ、横からシルフィードを振り抜く。
風をまとった刃が、首の下にある僅かな隙間を深く切り裂いた。
群れの主は数歩よろめき、床へ倒れ込む。
ゼラスが即座に近づき、剣を急所へ突き立てた。
広間に静寂が戻る。
リズナは風を広げ、周囲の気配を確かめた。
「ほかにはいません」
シルフィードを軽く振ると、刀身に残っていた血が風に払われる。
そのまま鞘へ収めようとしたところで、ゼラスがこちらを見ていることに気づいた。
「何?」
「いや、思っていたより動けるんだな」
リズナは僅かに眉を寄せた。
「それ、褒めてるの?」
「ああ、ちゃんと褒めてる」
ゼラスは手にしていた剣を収納へ戻す。
「風を広く使いながら、近距離でも動きが鈍ってない。俺が見ていないところでも、きちんと戦ってきたらしいな」
「冒険者だったんだから、当然でしょ」
そう答えながらも、リズナの口元は僅かに緩んでいた。
「剣の方が得意だって言ったでしょ?」
「ああ、今のでよく分かった」
ゼラスは倒れた岩甲狼へ視線を落とし、それからリズナへ戻す。
「これなら、隣を任せても問題なさそうだ」
リズナは一瞬だけ目を瞬いた。
やがて、どこか得意そうにシルフィードを鞘へ収める。
「……そう。だったら次は、もっと驚かせてあげる」
「ああ、期待してる」
自信に満ちた笑みを浮かべるリズナを、ゼラスは僅かに長く見つめていた。
風を操っていた時とは違う。
剣を握って戦う彼女の姿が、なぜか妙に目に残った。
「ゼラス?」
呼ばれて、ゼラスは僅かに遅れて視線を逸らす。
「何でもない」
「そう?」
リズナは不思議そうにしながらも、それ以上は追及しなかった。
そのやり取りを、リュミエラが静かに見つめていた。
ゼラスが視線を逸らすまでの、ほんの僅かな間。
本人さえ気づいていない変化を見逃さず、リュミエラは小さく目を細める。
「……相変わらずね」
「何がだ?」
ゼラスが振り返る。
リュミエラは穏やかな笑みを浮かべたまま、首を横へ振った。
「何でもないわ」
シェルミアは三人の顔を順に見てから、倒れた岩甲狼へ視線を落とした。
「怪我はない?」
「私は大丈夫です」
「問題ないわ」
「ああ」
シェルミアは頷くと、群れの主の前へしゃがみ込んだ。
背中の甲殻や牙、足裏を順に確認していく。
「管理所へ報告されてた群れで間違いなさそうだね」
「やっぱり、下の階層から追い出されたんでしょうか?」
「その可能性は高いと思う」
シェルミアは群れの主の甲殻へ残された傷を指でなぞった。
剣や牙によるものとは違う。
何かに深く抉られたような、長い傷が三本並んでいる。
「ただ、この傷は岩甲狼同士で付けられるものじゃない」
ゼラスが隣へしゃがみ込む。
「爪か?」
「たぶんね。それも、この狼よりずっと大きい」
シェルミアは立ち上がり、岩甲狼たちが出てきた横穴へ向かった。
リズナも風を送りながら、その後に続く。
穴の奥は途中で細くなり、その先で迷宮の壁が大きく崩れていた。
崩れた石壁の向こうには、地図に存在しない暗い通路が続いている。
その入口に、巨大な爪痕が三本刻まれていた。
一本だけでも、リズナの腕ほどの幅がある。
削れた石の粉が床へ積もっていることから、付けられてからそれほど時間は経っていない。
「岩甲狼が浅層へ上がってきてることは、管理所も把握してた」
シェルミアは爪痕へ触れず、その形を記録板へ写し取った。
「でも、新しい通路や、こんな痕が見つかったなんて報告はなかったよ」
暗闇の先から、低い振動が伝わってきた。
一度。
間を置いて、もう一度。
足音のようにも、巨大な何かが壁へ触れた音のようにも聞こえる。
シェルミアは笑っていなかった。
記録板を閉じ、暗い通路の先をじっと見つめる。
岩甲狼を追い上げた何かが、さらに深い階層から近づいていた。




