第二十三話 千層の迷宮
シェルミアは出発の準備へ移る前に、もう一度、作業台へ広げられた二つの迷宮図を見比べた。
現在公開されている七十二階層までの地図。
そして、リュミエラが千年ほど前に残した、百階層までの記録。
指先で表示を切り替えながら、シェルミアが尋ねる。
「一つ、二人に確認したいんだけど」
視線がリュミエラとゼラスへ向けられた。
「百階層で、その先へ続く道は見つけた?」
「いいえ」
リュミエラは静かに首を横へ振った。
「私が確認できた範囲では、百階層が行き止まりだったわ」
「俺の時も同じだ」
ゼラスも古い記録へ目を向ける。
「隠し部屋以外に、先へ進めそうな場所は見つからなかった」
「やっぱり、そうなんだ」
シェルミアの声には、落胆ではなく確信が混じっていた。
「どういうことですか?」
リズナが尋ねる。
シェルミアは二つの記録を重ね、その下へ迷宮内部の魔力分布を表示した。
「百階層で本当に終わってるなら、深部から返ってくるこの反応を説明できないんだよ」
「深部から?」
「うん。どこを通って届いてるのかは分からない。でも、百階層よりずっと下に、広大な空間と魔力の流れが存在してる」
シェルミアは百階層の記録を拡大した。
「それに、ここで迷宮の構造が終わるのは不自然すぎる。階層を維持している魔力の流れも、百階層では途切れてない」
「見える道はないのに、迷宮そのものは下へ続いている……?」
「そういうこと」
シェルミアは楽しそうに口元を緩めた。
「百階層から先へ進む道は、普段は見えないように隠されてるんだと思う」
リュミエラが百階層の記録を見つめる。
「あの隠し部屋と同じように?」
「可能性は高いね。階段なのか、転移術式なのか、それとも特定の条件を満たすと構造そのものが変わるのかは分からないけど」
シェルミアは、さらに深部から返る魔力反応を表示した。
幾重もの線が百階層の下へ伸び、作業台の端を越えていく。
「今まで集めた記録と、二人の百階層までの情報を合わせて考えると――」
一度言葉を切り、瞳を輝かせる。
「グラン・ラビリスは、千階層近くまで続いてる可能性がある」
「千……?」
リズナは思わず聞き返した。
七十二階層まででも、現在の探索者たちが長い年月をかけて進んできた場所だ。
それが、全体の僅かな一部にすぎないという。
「百階層の十倍近くあるってことですか?」
「推定だけどね。少なくとも、百階層が最奥じゃない可能性はかなり高い」
シェルミアは、隠し切れない笑みを浮かべていた。
「つまり、私たちはまだ迷宮全体の一割にも届いてないかもしれないんだよ」
「嬉しそうに言うことか?」
ゼラスが呆れたように言った。
「百階層まででも、かなり長かったぞ」
「だから面白いんでしょ」
シェルミアは迷いなく答える。
「何百年も探索されてるのに、まだ九割以上が残ってるかもしれない。こんな迷宮、他にないよ」
リズナは、表示の端を越えて下へ伸び続ける線を見つめた。
百階層にある隠し部屋さえ、グラン・ラビリス全体から見れば、まだ浅い場所なのかもしれない。
そこで見つかった術式が、さらに深い階層にも存在しているとしたら。
白い声や外側の門につながる手掛かりは、想像していた以上に巨大な迷宮の奥へ眠っていることになる。
「まずは七十二階層の扉ね」
リュミエラが表示を閉じる。
「千階層近くあるとしても、一度に全てを調べることはできないわ」
「分かってるよ」
シェルミアは答えながらも、少し名残惜しそうに消えた表示を見つめていた。
「でも、百階層の先があるかもしれないって分かっただけでも大きな前進だね」
「まだ出発もしてないぞ」
「だから、明日の朝までに準備を終わらせるんじゃない」
シェルミアは探索鞄を持ち上げる。
「七十二階層の扉を開けて、百階層の隠し部屋を調べる。その先のことは、それから考えればいいよ」
そう言い残すと、彼女は足早に研究室を出ていった。
翌朝。
四人を乗せた飛行船は、皇都を離れて北へ進んでいた。
窓の外には、荒涼とした平原と険しい山並みが続いている。
シェルミアは机の上に地図と記録板を広げ、現在の経路を一つずつ確認していた。
その向かいでは、ゼラスが椅子へ深く腰掛け、静かに窓の外を眺めている。
リズナは二人から少し離れた場所に座るリュミエラへ目を向けた。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「ええ、どうしたの?」
「レイスウィザードのことです」
ゼラスの視線が、僅かにこちらへ向けられる。
「どうして、わざわざグラン・ラビリスの百階層まで運んで、保管したんですか?」
リュミエラはすぐには答えなかった。
僅かな沈黙の後、窓の外へ視線を移す。
「当時、あれを魔皇城に置いておくべきではない事情があったの」
「事情、ですか?」
「ええ、誰にも所在を知られない場所へ移す必要があった」
声は穏やかなままだった。
それでも、その事情について詳しく話すつもりがないことは伝わってくる。
リズナは少し迷ってから、別のことを尋ねた。
「それで、百階層を選んだんですね」
「正確には、最初から百階層を目指していたわけではないわ」
「違うんですか?」
「ええ、誰にも見つからない場所を探して、グラン・ラビリスへ入ったの」
リュミエラは古い記憶を辿るように、目を細めた。
「より深く、誰も来ない場所を求めて進んでいるうちに、百階層まで辿り着いた。隠し部屋を見つけたのは、その後よ」
「リュミエラさんも、あの部屋のことを知らなかったんですね」
「ええ、見つけたのは偶然だったわ」
壁の一部に、周囲とは異なる魔力の流れがあった。
調べてみると、その奥に小さな部屋が隠されていたという。
「部屋の中には、外部から内部を隔離する古い術式が残されていたの。外からでは、中に何が置かれているのかほとんど感知できなかったわ」
「百階層まで潜らないと辿り着けなくて、外からも中が分からない……」
「隠し場所としては理想的だったの」
リュミエラが頷く。
「当時は、あの場所へ再び到達する者が現れるとは思っていなかったもの」
リズナはゼラスへ目を向けた。
「それから二百年ほどして、ゼラスが見つけたのね」
「ああ」
「私としては、もう少し長く隠れていると思っていたけれど」
「百階層まで潜って見つけたんだ。十分だろ」
ゼラスが淡々と返す。
リュミエラは僅かに笑った。
「そうね。それに、迷宮の隠し部屋で所有者の分からない魔剣を見つけたのなら、持ち帰るのは探索者として当然だもの」
「誰の物か分かるような物は、何も残ってなかったからな」
「分からないように隠したのは私よ。あなたを責めるつもりはないわ」
ゼラスはそれを聞くと、再び窓の外へ視線を戻した。
リズナも小さく笑う。
けれど、リュミエラが口にしなかった事情だけは、胸の奥に引っ掛かったままだった。
昼を過ぎた頃、飛行船は山岳地帯へ入った。
灰色の岩山が幾重にも連なり、その間を縫うように船が高度を下げていく。
やがて、山肌の一部に巨大な暗がりが見えた。
遠目には、山そのものが大きく口を開けているように見える。
飛行船が近づくにつれ、その規模が明らかになった。
入口の高さだけでも、魔皇城の建物が幾つも収まりそうだった。
周囲には探索者や物資を運ぶ者たちが行き交い、幾つもの建物が立ち並んでいる。
迷宮から戻った一団が、巨大な牙を持つ獣の素材を運び出していた。
別の一団は傷ついた仲間を支えながら、治療所らしき建物へ急いでいる。
「これが……グラン・ラビリス」
リズナは窓へ近づいたまま、巨大な入口を見上げた。
「そうだよ」
いつの間にか隣へ来ていたシェルミアが答える。
声には、隠し切れない誇らしさが混じっていた。
「ガリオール最大の迷宮。何百年も探索され続けて、それでも底が見えない場所」
飛行船が、入口近くの発着場へ着陸する。
四人は装備を整え、迷宮の前へ立った。
入口から流れ出す空気は冷たく、僅かに湿っている。
その奥には、緩やかに下っていく広大な石造りの通路が続いていた。
シェルミアが一歩前へ出る。
「ここからは私が先導するよ。何か見つけても、勝手に触らないこと。気になるものがあれば、まず私に教えて」
「分かりました」
リズナが頷く。
「任せるわ」
リュミエラも続いた。
シェルミアは最後にゼラスを見る。
「ゼラスも、いい?」
「ああ」
素直な返事を聞き、シェルミアは満足そうに頷いた。
「それじゃあ、行こうか」
四人は巨大な入口をくぐる。
外の光が、少しずつ背後へ遠ざかっていく。
奥から響いたのは、白い声ではなかった。
腹の底まで震わせる、獣の咆哮だった。
グラン・ラビリスの探索が、始まった。




