第二百十三話 隠された告白
中央教会の地下書庫。
マルセルは、アルヴァン=レグナードの日誌を開いたまま動かなかった。
その隣では、一緒に地下へ降りてきた神官も言葉を失っている。
――そう信じなければ、この死者たちの前に立つことはできない。
人間諸国を統一へと導いた英雄。
魔族の脅威から人々を守った人物として、長く語り継がれてきたアルヴァン。
その本人が残した言葉だった。
「……大司教猊下」
神官がようやく口を開く。
「この日誌は、いつからここに?」
「正確には分からん。私が大司教位を継いだ時には、すでに保管されていた」
「先代の大司教も?」
「把握していたはずだ」
マルセルは次の頁をめくった。
そこには、村への攻撃から数日後の記録が残されている。
作戦前に共有されていた情報と、現地で目にした実態が一致していなかったこと。
軍事施設も、大規模な武器庫も存在しなかったこと。
住民の多くが兵士ですらなかったこと。
それにもかかわらず、作戦後には人間諸国へ「魔族の侵攻拠点を制圧した」と報告されていた。
「本人は、すべて把握していたのですね」
「ああ」
マルセルはさらに読み進めた。
アルヴァンは、自らの過ちを明確に認識していた。
――私は間違えた。
短い一文だった。
しかし、その文字だけは周囲よりも深く紙に刻み込まれているように見えた。
神官が息を呑む。
「では、なぜ真実を公表しなかったのでしょう」
答えは、その先にあった。
――今ここで真実を公にすれば、ようやく同じ旗の下に集まり始めた諸国は再び分裂するだろう。
――作戦に参加した各国は互いに責任を押し付け合い、人間同士の争いへと逆戻りする。
――魔族側に知られれば、報復を招く可能性もある。
そして。
――それでも、今は公にできない。
マルセルは目を閉じた。
「保身のみで隠したわけではなかったのですね」
神官が言う。
「だからこそ厄介なのだ」
マルセルは静かに答えた。
「自らの名誉を守るだけなら、アルヴァンを卑怯者と断じれば済む」
だが、実際は違った。
アルヴァンは人間諸国の統一を目指していた。
その結束によって、後に救われた命も確かに存在する。
一方で。
その始まりには、一つの魔族の村の犠牲があった。
「自らの過ちを理解しながらも、より大きな混乱を恐れて真実を封じた」
マルセルは日誌を見つめる。
「そして、その判断を後の教会も引き継いだ」
「八百年以上も……」
「ああ」
神官は言葉を失った。
マルセル自身もまた同様だった。
これまで、この記録を公開しないことには一定の理があると考えていた。
過去を掘り返せば、新たな憎悪を生む。
魔族への警戒が緩めば、いずれ人間側が甚大な被害を受ける可能性もある。
だからこそ。
知られない方が良い事実もある。
そう判断していた。
だが。
百八十六年前。
勇者アルト=レグナードが魔皇領から帰還した。
彼もまた、真実の一端に触れていた。
その証言は封じられた。
そして現在。
勇者カイル=レイヴァンが、同じように魔皇領を踏破し、自らの目で見て帰還した。
再び。
同じ事態が起きている。
マルセルはゆっくりと日誌を閉じた。
「……猊下?」
「王家はいずれ、この記録に辿り着く」
「ですが、これは教会の最高機密です」
「ああ」
マルセルは箱に戻さず、日誌をそのまま手に持った。
「だからこそ、決断しなければならん」
「何をですか?」
マルセルはしばし沈黙した。
八百年前のアルヴァン。
百八十六年前のアルト。
そして現在のカイル。
教会は二度にわたり、都合の悪い真実を封じてきた。
三度目も。
同じ過ちを繰り返すのか。
「……少し考えさせてくれ」
マルセルはそう言い、再び日誌へと視線を落とした。




