第二百十二話 英雄の記録
翌日。
アルセリア王城の史料庫では、八百年以上前の記録の調査が続けられていた。
カイルたちが調べているのは、アルヴァン=レグナードという人物だった。
人間諸国へ魔族の脅威を訴え、後の共同防衛体制を構築する契機となった人物。
現在の歴史では、人間同士の争いを抑え、魔族に対抗するための結束を導いた英雄として知られている。
だが、ゼラスの故郷だった村に関する記録には、明らかな不自然さが残されていた。
最初の斥候報告では、軍事施設も常駐兵も確認されていない。
それが数か月後には、人間領侵攻のための前線拠点へと変わっている。
その間に何があったのか。
それを示す記録は、いまだ見つかっていなかった。
「これだけ資料が残っているのに、肝心なところだけ抜けているのよね」
エレナが机上に積まれた書類を見ながら言った。
「アルヴァン本人の書簡は?」
カイルが老文官へ尋ねる。
「現在捜索中です。ただ、八百年以上前のものとなりますと、現存しているだけでも奇跡に近いのです」
「それもそうか」
バルドは古い記録を慎重にめくっていた。
以前のように資料漁りを嫌がる様子はない。
自分たちが知っていた歴史そのものが変わる可能性を理解してからは、彼なりに真剣だった。
シアは別の目録を確認している。
「アルヴァンは、共同討伐作戦の後も長く活動していたのですよね?」
「ええ。少なくとも二十年以上は各国を巡っていたようです」
老文官が答える。
「なら、あの村だけとは限らない可能性もあります」
カイルがシアを見る。
「どういう意味だ?」
「アルヴァンが本当に魔族を共通の脅威として人間諸国をまとめようとしていたのなら、あの一件だけで終わったとは考えにくいです」
エレナの表情が変わる。
「他にも同じようなことを?」
「まだ断定はできません。ただ、調査する価値はあると思います」
カイルは頷いた。
「当時の共同作戦をすべて洗おう」
バルドが積み上がった資料を見る。
「全部か……」
「嫌なのか?」
「やるさ。やるけど、八百年前の連中、書類残しすぎだろ」
老文官がわずかに笑った。
「残してくださったからこそ、今こうして検証できるのです」
「そう言われると何も言えねえな」
四人は再び資料へ向かった。
昼を過ぎた頃。
シアが一つの記録を見つけた。
「カイル様」
「何かあったか?」
「こちらを」
それは、ゼラスの村が焼かれる約二年前に行われた、人間諸国の会議記録だった。
複数の小国。
領主。
教会関係者。
そして、アルヴァン=レグナード。
会議の目的は、人間諸国による共同防衛体制の構築。
しかし。
内容を読み進めるほど、当時の人間側が一枚岩ではなかったことが明らかになっていく。
「まったく話がまとまっていないな」
バルドが言った。
国境を接する国々は魔族への警戒を訴えている。
一方で、魔族領から遠い国々は兵の派遣を拒否していた。
それどころか、人間同士で領土争いを続けている国もある。
「これでは共同軍など成立しないわね」
エレナが頁をめくる。
会議の終盤。
アルヴァンの発言が記録されていた。
人間諸国が個別の利益のみを追求すれば、いずれ大きな脅威に対抗できなくなる。
そのためには、国家を越えて共有できる危機意識が必要だと主張している。
ここまでは、後世に伝えられているアルヴァンの思想と一致していた。
問題は、その後だった。
シアが次の記録を読む。
「『現状の魔族勢力を脅威として認識しない国々に対しては、具体的な事例を提示する必要がある』」
カイルが眉をひそめる。
「具体的な事例?」
さらに読み進める。
国境付近に存在する魔族の集落。
その中から、将来的に人間側へ軍事的脅威となり得る地点を選定する。
そして。
複数国が共同で対処することで、初めて共同軍としての実績を作る。
バルドが顔をしかめた。
「待てよ」
エレナも同じ箇所を見ている。
「これって……」
村が焼かれる二年前。
すでにアルヴァンは、魔族側の集落を対象とした共同作戦を提案していた。
「でも、この時点では軍事拠点を攻撃するという話よね」
「ああ」
カイルは慎重に答えた。
「この段階だけなら、まだ不自然ではない」
実際に人間領へ侵攻する可能性がある拠点であれば、先に対処するという判断自体は理解できる。
問題は。
その対象として選ばれた場所だった。
さらに一時間ほど経った頃。
老文官が史料庫の奥から、小さな木箱を運んできた。
「見つかりました」
カイルたちが振り返る。
「何が?」
「アルヴァン=レグナード個人の書簡です」
四人が一斉に立ち上がった。
「残っていたのか?」
エレナが驚く。
「すべてではありません。彼の死後、レグナード家から王家の前身となる勢力へ寄贈された書簡の一部です」
木箱の中には、数十通の古い手紙が収められていた。
紙はすでに脆くなっており、老文官が一通ずつ慎重に確認していく。
しばらくして。
「……これは」
老文官の手が止まった。
「どうした?」
「村の名が記されています」
カイルたちの表情が変わる。
ゼラスの故郷だった村。
その名が。
アルヴァン本人の書簡に残されていた。
「誰宛てですか?」
シアが尋ねる。
「当時の小国の将軍です」
老文官が慎重に手紙を広げる。
内容は、共同作戦への参加要請だった。
魔族勢力の脅威。
人間諸国の結束の必要性。
そして、対象となる村についての記述が続く。
――当該集落は現在、小規模な居住地に過ぎない。
カイルの指が止まる。
「知っていたのか……」
エレナが小さく呟いた。
手紙は続く。
――しかし北方の魔族勢力と街道で接続しており、将来的には人間領侵攻の足掛かりとなり得る。
――脅威が顕在化してからでは遅い。
ここまでは、軍事的判断として理解できなくもない。
だが。
さらに下へと続く。
アルヴァンは別の理由を記していた。
――諸国は未だ互いを敵と見なし、魔族に対する共同防衛の必要性を理解していない。
――小規模な作戦であっても、諸国が同じ旗の下で戦ったという事実を作ることが重要である。
バルドが低く呟く。
「……実績作りかよ」
誰も答えない。
さらに。
――対象は防備が薄く、作戦失敗の可能性も低い。
エレナの表情が険しくなる。
「防備が薄いと分かって選んだの?」
シアは黙ったまま手紙を見つめている。
侵攻拠点だから攻撃したのではない。
少なくとも、この手紙を書いた時点のアルヴァンは、その村が小規模な居住地であることを理解していた。
それでも。
共同軍を成立させるための最初の標的として選んだ。
カイルは拳を握った。
「では、後から軍事拠点ということにされたのか?」
「その可能性は高いでしょう」
老文官が重い声で答える。
「ただし、断定はできません。作戦までの間に新たな情報を得た可能性もあります」
「それを探そう」
カイルは即座に言った。
怒りはある。
しかし。
都合の良い結論だけを選ぶつもりはなかった。
「アルヴァンが後に情報を得ていたなら、それも確認する」
「はい」
シアも頷く。
「すべて検証しましょう」
夕方。
調査結果は王へ報告された。
王はアルヴァンの書簡を読み終えると、長く沈黙した。
「……英雄アルヴァン=レグナードか」
誰に向けるでもなく、王が呟く。
「幼い頃から、その名は幾度となく聞かされてきた」
カイルも同じだった。
人間諸国が争っていた時代。
魔族の脅威の中で、それらをまとめ上げた人物。
現在のアルセリア王国にも連なる、人間側の結束を築いた英雄。
その功績すべてが虚構というわけではない。
「この男がいなければ、人間諸国の共同防衛が成立するまで、さらに長い年月を要した可能性もある」
王は手紙を机に置く。
「結果として、多くの人間を救ったのかもしれん」
バルドが複雑な表情を浮かべる。
「だからといって、村を焼いていい理由にはならないでしょう」
「無論だ」
王は即答した。
「功績と過ちは別問題だ」
カイルは王を見る。
「陛下」
「何だ」
「これが事実なら、公表されるのですか?」
王はすぐには答えなかった。
容易な問題ではない。
アルヴァンは単なる歴史上の人物ではなく、人間諸国の共同防衛を象徴する存在でもある。
その英雄が。
政治的・軍事的目的のために魔族の集落を標的とした可能性がある。
それを公表すれば、混乱は避けられない。
「まだ早い」
王は言った。
カイルの表情がわずかに強張る。
それに気づき、王は続けた。
「隠蔽するという意味ではない」
「では?」
「調査が終わっていない。アルヴァンに不利な記録だけをもって結論とするならば、それは我々がこれまで批判してきた歴史と同じだ」
カイルは黙る。
「反証があるなら、それも探せ。彼が何を知り、何を考えた上で決断したのか、可能な限り明らかにする」
「……はい」
カイルは頷いた。
その通りだと理解していた。
彼らが求めているのは。
都合の良い歴史の書き換えではない。
真実の全体像だ。
同じ日の夜。
中央教会。
マルセルのもとへ、王城での調査状況が報告されていた。
「アルヴァンの私信まで発見されたのか?」
「はい」
神官が答える。
「詳細は未確認ですが、八百年前の共同作戦に関する書簡のようです」
マルセルは沈黙した。
アルヴァン=レグナード。
教会にとっても重要な人物だった。
当時分裂していた人間社会において、教会の影響力を用い、共同防衛へと導いた存在。
その功績は大きい。
だが。
中央教会の奥には、一般には公開されない資料が存在する。
マルセルは立ち上がった。
「大司教猊下?」
「来い」
「どちらへ?」
「地下書庫だ」
神官は息を呑む。
中央教会の地下。
そこは、大司教を含むごく一部の者にしか許されない保管区画だった。
二人は長い階段を下りていった。
地下書庫。
重い扉が開く。
内部には、王城の史料庫とは比べものにならないほど簡素な書架が並んでいた。
しかしそこにあるのは、良好に保存された資料ではない。
表に出すことを禁じられた記録だった。
マルセルは一つの棚へ向かう。
「アルト=レグナード」
百八十六年前の勇者。
その帰還報告書の原本もここに保管されている。
だがマルセルが手に取ったのは、その隣の箱だった。
神官が刻印を読む。
「……アルヴァン=レグナード?」
「ああ」
「なぜ、こちらに?」
マルセルは答えない。
箱を開く。
中には一冊の日誌が収められていた。
アルヴァン本人が晩年に残した記録。
教会が長く秘匿してきたものだった。
マルセルは頁をめくる。
そこには、ゼラスの村を攻撃対象とした理由が記されていた。
さらに。
作戦後、アルヴァン自身が現地を訪れていたことも。
神官が息を呑む。
「猊下……これは」
「知っている」
マルセルの声は低い。
アルヴァンは焼け落ちた村を目にしていた。
軍事施設が存在しなかったことも確認していた。
そして、自身が受け取った報告と現実の乖離も理解していた。
その日の記述には、こうあった。
――我々は、必要なことをした。
その一文の後には、幾度も書き直された痕跡が残っている。
紙は削られ、墨は重ねられ、最終的に別の文が残されていた。
――そう信じなければ、この死者たちの前に立つことはできない。
神官は言葉を失った。
マルセルもまた、長くその頁を見つめていた。
英雄アルヴァンは。
無自覚に村を焼いたわけではない。
しかし。
一切の迷いなく正義を信じ続けていたわけでもなかった。
そしてこの記録は。
八百年以上もの間。
教会の地下に封じられていた。




