第二百十話 百八十六年前の勇者
「ゼラス……」
カイルは、記録に残された名前を見つめた。
百八十六年前。
この時代にも、ゼラスは一人の勇者と出会っていた。
シアが慎重に頁をめくる。
「接触場所は……魔皇領南部の街道沿いにある宿場町です」
「魔皇城ではないのか?」
バルドが尋ねる。
「違います。アルトたちが北へ向かう途中で偶然出会ったようです」
その記述を追うと、当時の状況が詳細に記されていた。
勇者アルト=レグナード一行は、魔皇討伐のため魔皇領を進んでいた。
しかし、当時すでにアルトは魔族領の実態に疑問を抱いていたようだ。
人間であるという理由だけで襲われることはない。
村や街には、一般的な生活が営まれていた。
商人が働き、子供が遊び、冒険者が魔物を討伐している。
カイルたちが目にした光景と、ほとんど変わらなかった。
そして宿場町で、アルトはゼラスと出会った。
「ここに記載があります」
シアが一箇所を指した。
――ゼラスと名乗る魔族。外見は少年に見えるが、実年齢は不詳。
――魔皇軍の兵士ではなく、軍籍を持たない者。
――冒険者として各地を渡り歩いている模様。
カイルがその部分を読む。
「この頃にはもう、軍人ではなかったんだな」
「はい」
シアが頷く。
「少なくとも百八十六年前の記録では、魔皇軍とは無関係の立場だったようです」
エレナがわずかに考え込む。
「今とあまり変わらないのね」
「そのようです」
魔皇を陛下と呼ぶ。
しかし軍人ではない。
現在のゼラスと同じ在り方だった。
記録には、アルトが当初ゼラスを警戒していたことも残されている。
魔族領の奥で出会った、正体不明の少年の姿をした魔族。
さらに、アルトが勇者であることをゼラスは即座に見抜いたとされていた。
バルドがその箇所を読み、苦笑する。
「昔から同じことしてんじゃねえか」
エレナも横から覗き込む。
「何て言ったの?」
「ちょっと待て」
バルドが文字を追う。
「『勇者か。また来たのか』」
しばしの沈黙の後。
エレナが額に手を当てた。
「百八十六年前からそれなの?」
「むしろ今より少し言い回しが違う程度だな」
カイルも思わず苦笑した。
自分がゼラスと対面した時も、似たような反応だった。
勇者という存在を特別な英雄としてではなく、何度も現れる人間の一人として扱っている。
その理由は、記録を追うほどに明らかになっていく。
アルト以前にも。
幾人もの勇者が魔皇討伐のため魔皇領へ踏み入っていたのだ。
シアはさらに頁をめくった。
「ここから、八百年前の村に関する記述が始まります」
空気が変わる。
カイルたちの表情も引き締まった。
アルトとゼラスの会話の詳細は、完全な記録としては残されていない。
それでも帰還後の聴取において、アルト自身が詳細に証言していた。
発端は、アルトがゼラスへ投げかけた問いだった。
――なぜ人間を憎まないのか。
カイルの目が止まる。
「……俺が聞きたかったことだ」
アルトもまた、同じ疑問を抱いていたらしい。
ゼラスは、自身の故郷が人間によって焼かれた事実を隠さなかった。
村に軍事施設は存在しなかったこと。
住民の大半が戦闘とは無縁であったこと。
それでも人間の兵が侵入し、村を包囲し、火を放ったこと。
逃げ延びた者すら追撃されたこと。
そこまで読み進めたところで。
バルドが低い声で言う。
「今日見つけた記録と一致してる」
「ああ」
カイルも頷いた。
八百年前のゼラスの証言。
そして人間側に残されていた原報告。
別々の場所に存在する二つの記録が、同一の事象を示していた。
エレナが言う。
「じゃあ、少なくともゼラスが作り話をしていたわけではないのね」
「むしろ人間側の公式記録の方が改変されていた可能性が高いです」
シアが静かに答える。
魔族侵攻拠点の制圧。
後世にはそう記録されている。
しかし実際には。
農民がいた。
老人がいた。
子供がいた。
軍事施設は存在しなかった。
そして、その事実は人間側の兵士自身の記録にも残されている。
カイルは続きを読んだ。
アルトも当然、同じ問いをゼラスに投げかけていた。
それほどの仕打ちを受けてなお、なぜ人間を見ても襲わないのか。
なぜ勇者である自分たちを殺さないのか。
ゼラスの返答も記録されていた。
――村を焼いた奴と、お前は別人だろ。
カイルはその一文から目を離せなくなった。
短い言葉だった。
しかし八百年前の記録を踏まえた今、その意味は重く響く。
バルドも沈黙している。
エレナが静かに言った。
「本当に、昔から変わっていないのね」
「そうだな」
カイルは答える。
自分たちに対しても、ゼラスは同様だった。
勇者だから排除するわけでもない。
人間だから敵視するわけでもない。
問題を起こさない限り、ただの旅人として扱う。
村を焼いた人間と、現在を生きる人間。
ゼラスはそれを明確に区別している。
カイルは無意識に拳を握った。
自分は魔皇に何もされていないにもかかわらず。
魔族だから。
魔皇だから。
それだけで剣を向けようとしていた。
百八十六年前の勇者もまた、同じ問いに辿り着いたのだろうか。
記録はその後、アルトの行動へと移る。
ゼラスから話を聞いたアルトは、即座に全てを受け入れたわけではなかった。
魔族側の証言のみで、人間側の歴史を否定することはできない。
そのためアルトは旅の途中で、魔族側に残る古い記録を調査している。
村の位置。
焼き討ちの年代。
人間側の指揮官の名。
作戦後に土地が人間勢力へ移管された事実。
断片的ではあるが、カイルたちが発見した資料と一致する内容が複数存在していた。
「百八十六年前の時点で、アルトはここまで調べていたのか」
カイルが呟く。
「でも人間側へ戻った後、今回のように八百年前の原本まで辿り着けたかは分からないわね」
エレナが言う。
シアは記録を読み進めていた。
「いえ……確認しています」
三人がシアを見る。
「帰還後、アルトは王家に対し、古い軍務記録の再調査を要請しています」
「結果は?」
「一部ではありますが、閲覧が許可されています」
シアは数行先へ視線を移した。
そこには、アルトが発見した資料の内容が記されていた。
初期の斥候報告では軍事施設は確認されていなかったこと。
後の報告で突如として侵攻拠点として扱われるようになったこと。
そして、その報告書にアルヴァン=レグナードの名が記されていたこと。
カイルの表情が変わる。
「アルトも気づいたんだ」
「はい」
シアが頷く。
さらに。
アルトにとってアルヴァン=レグナードは、単なる歴史上の人物ではなかった。
「……アルトの直系の祖先です」
部屋が静まり返る。
バルドが目を見開いた。
「直系だと?」
「そのように記されています」
エレナが思わず椅子に座り直す。
「じゃあ、自分の先祖がゼラスの村の焼き討ちに関与していた可能性に気づいたの?」
「その可能性を疑ったと考えられます」
カイルはアルトの名を見つめた。
自らが誇りとしてきた家系。
人間諸国を魔族の脅威から守った英雄の血統。
その祖先が。
実際には、無辜の魔族の村を侵攻拠点として捏造した可能性がある。
アルトが受けた衝撃は、想像に難くなかった。
さらに記録を読み進める。
アルトは帰還後の聴取において、魔皇討伐を行わなかった理由を明確に述べていた。
魔皇領には、人間側で語られているものとは異なる社会が存在すること。
過去の戦争記録にも改竄や省略の疑いがあること。
そして、現魔皇に人間諸国へ侵攻する明確な意思が確認できなかったこと。
エレナが顔を上げる。
「カイルとほとんど同じじゃない」
「……ああ」
カイルも同意した。
時代も立場も異なる勇者でありながら、到達した結論は驚くほど近い。
アルトは魔族を無条件に信頼すべきとは記していない。
魔皇を無条件に善とする主張でもない。
ただ、歴史と現実の再検証が完了するまで、勇者による魔皇討伐は停止すべきだと提言していた。
バルドが眉をひそめる。
「でも、止まってねえよな?」
誰も答えなかった。
勇者は今も派遣されている。
カイル自身がその一人である。
シアが次の頁をめくる。
そこには、アルトの提言に対する王家と教会の協議記録が残されていた。
当時の王家の一部は再調査に賛同していた。
少なくとも、即座にアルトを虚偽の証言者として扱ったわけではない。
問題となったのは、その情報を公表した場合の影響である。
魔族を共通の脅威として成立していた国境政策。
教会の教義。
歴代勇者の正当性。
そしてアルヴァン=レグナードを英雄としてきた歴史そのもの。
それら全てが揺らぐ可能性があった。
「……だから隠した?」
カイルの声が低くなる。
シアはすぐには答えなかった。
「少なくとも、そう判断した者がいたと記録されています」
王もまた、報告書を黙して読み続けていた。
その表情は厳しい。
アルトの証言を否定する決定的証拠は存在しない。
魔族による誘導や洗脳の痕跡も確認されていない。
それでも、公表は見送られた。
最終的に下された決定はこうだった。
――勇者アルト=レグナードの証言は、国家および教会の安定を損なう恐れがあるため非公開とする。
カイルは椅子の背にもたれた。
「百八十六年前にも、同じ地点まで来ていたんだな」
誰も否定しなかった。
「アルトは自ら見て、自ら調べて、帰還して報告した。それでも全て封じられた」
「カイル」
王が低く呼ぶ。
カイルは顔を上げた。
「当時の判断を、現代の価値観のみで誤りと断じるつもりはない」
「……はい」
「百八十六年前には百八十六年前の事情があった。それを現在の基準のみで裁くことはできん」
王は一度言葉を切る。
「だが、事実そのものを隠蔽してよい理由にはならぬ」
カイルは頷いた。
「同意します」
王は記録簿へ視線を戻す。
「アルトの報告の正当性について、改めて検証が必要だ」
シアが問う。
「八百年前の記録も含めて、ですか?」
「ああ」
王の答えに迷いはなかった。
「今回発見された資料と照合し、アルトが何を根拠に結論へ至ったのか、一つずつ精査する」
エレナがやや険しい表情で言う。
「中央教会は反発すると思います」
「だろうな」
王は静かに応じた。
「しかし、発見された記録を再び封じるつもりはない」
同じ頃。
中央教会では、マルセルのもとへ一人の神官が急ぎ足で入室していた。
「大司教猊下」
「何事だ」
「王家の特別保管庫より、アルト=レグナードの帰還報告書が開示されました」
マルセルの表情が凍る。
「……誰にだ」
「勇者カイル一行です。陛下の許可が下りております」
マルセルはしばし沈黙した。
「それだけではありません」
神官が続ける。
「八百年以上前のアルヴァン=レグナードに関する資料も、再調査対象として開示された模様です」
その名を聞き、マルセルの目が細くなる。
「どこまで確認された」
「詳細は不明ですが、魔族集落への共同討伐作戦およびその後の記録を精査しているとのことです」
マルセルはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
最悪の展開だった。
アルトの報告のみであれば、百八十六年前の勇者の個人的見解として処理できた。
しかし八百年前の一次資料まで遡られれば、状況は一変する。
アルトの証言が、過去の人間側記録によって裏付けられる可能性が生じるからだ。
「猊下」
神官が不安げに問う。
「いかがなさいますか」
マルセルはすぐには答えなかった。
教会が守ってきたものは、信仰のみではない。
長きにわたり維持してきた社会秩序そのものでもある。
しかしその秩序の中に、未公開の事実が存在している可能性がある。
そして今、勇者カイルがその扉を開こうとしていた。
マルセルは机上の聖印へ視線を落とす。
「……王がどこまで公表するつもりか、確認する」
静かな声だった。
「それまでは独断で動くな」
神官は一瞬驚いたものの、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
部屋に一人残されたマルセルは、長く息を吐いた。
百八十六年前。
一度封じられた問題が。
再び、現代の勇者によって掘り起こされようとしていた。




