第十九話 二つの印
魔皇城へ戻る飛空艇の中で、リズナは窓の外を眺めていた。
黒風の森が少しずつ遠ざかっていく。
森を覆っていた異常な風は収まり、上空の雲も本来の形へ戻り始めていた。
それでも、リズナは腰に下げた風晶石から手を離せなかった。
表面に浮かんだ白い印は、すでに見えなくなっている。
だが、結晶の奥には微かな違和感が残っていた。
「まだ震えているの?」
向かいに座るリュミエラが尋ねる。
「いいえ、今は静かです。でも、何かが残っているような感じがします」
「城へ戻ったら、すぐに調べましょう」
リュミエラは隣に座るゼラスへ目を向けた。
「あなたの方は?」
「何も感じない」
ゼラスは右手を開いた。
掌に浮かんでいた赤黒い印も、今は消えている。
「本当に?」
「感じないものは仕方ないだろ」
「あなたは昔から、自分の身体に起きたことを軽く考えすぎるのよ」
「問題があれば分かる」
リュミエラは呆れたように息を吐いた。
リズナは二人のやり取りを聞きながら、黒風の森での戦いを思い返していた。
レイスウィザードを抜いてからのゼラスは、白い巨獣を一方的に追い詰めた。
あれほどの力を見せながら、リュミエラは、ゼラスがなお余力を残していると言っていた。
戦いの最中には聞けなかったが、今なら尋ねてもいいだろう。
「さっき言ってたフルドライブ、だっけ? それって何なの?」
ゼラスが僅かに目を細める。
「覚えてたのか」
「忘れるわけないでしょ。あれだけの相手を倒して、それでもまだ全力じゃなかったってことよね?」
「使う必要がなかった。それだけだ」
「説明になってない」
ゼラスは窓の外へ顔を向けた。
代わりに、リュミエラが口を開く。
「フルドライブは、ゼラスが自分で組み上げた総合強化術式よ」
「総合強化?」
「単純に筋力や速さだけを高めるものではないの。身体能力、反応速度、知覚、思考、それに魔力の出力と制御。それらを同時に引き上げるわ」
リズナは思わずゼラスを見た。
「全部を?」
「ええ、それぞれを連動させて、戦闘時の総合性能を三倍近くまで高めるの」
「三倍……?」
黒風の森で見た戦いが、頭の中に蘇る。
白い巨獣の再生を止め、闇魔法で身体を吹き飛ばし、最後は霊炎で跡形もなく焼き尽くした。
あのゼラスが、さらに三倍近くまで強化される。
すぐには想像できなかった。
「そんな術式を使ったら、後で動けなくなるんじゃないんですか?」
「普通なら、身体か魔力経路のどちらかが先に耐えられなくなるでしょうね」
リュミエラはゼラスへ視線を移した。
「でも、この人は長い時間をかけて、自分の身体と魔力に合わせて術式を調整している。必要な場所へ必要な分だけ魔力を循環させるから、見た目ほど消耗は大きくないわ」
リュミエラは僅かに笑う。
「それに、今こうしている間も、この人はフルドライブの改良を続けているのよ。それこそ、術式による負荷を限りなくゼロに近づけるつもりでね」
「そんなことまでできるんですか?」
「まだ完成したわけではないわ。でも、以前より負荷が軽くなっているのは確かよ」
「そこまで話す必要はないだろ」
ゼラスが口を挟む。
「誤解されたままの方が困るでしょう?」
「別に困らない」
リズナは改めてゼラスを見つめた。
「……あれで、まだ本気じゃなかったのね」
「必要な分は出した」
「それを本気じゃなかったって言うのよ」
ゼラスは答えず、腕を組んだ。
リュミエラが小さく笑う。
「それに、今回は少年姿のままだったものね」
「それも気になってた」
リズナは身を乗り出した。
「大人の姿になれるって、どういうことですか?」
「フルドライブとは別の話よ」
「別なんですか?」
「ええ、フルドライブは戦闘能力を高める術式。肉体の年齢を変えるものではないわ」
リュミエラは少年姿のゼラスを示した。
「この姿は幻術や変装ではないの。若返りの秘術によって、肉体そのものが少年期まで若返っている」
リズナは目を瞬いた。
「本当に、このくらいの年齢の身体ってことですか?」
「そうよ。骨格も筋肉も内臓も、全てね。必要なら、成人した青年の姿まで成長させることもできるわ」
「では、フルドライブを使う時に大人になるわけではないんですね」
「ええ、二つは完全に別の術式よ。少年姿のままフルドライブを使うことも、成人姿で使うこともできる」
リズナは隣に座るゼラスを上から下まで眺めた。
「どうして普段は、その姿なの?」
「こっちの方が楽だからだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
それ以上は答える気がないらしい。
若返りの秘術をどこで手に入れたのか。
どれほど長く使い続けているのか。
聞きたいことは増えたが、リズナはそれ以上追及しなかった。
ゼラスが隠している力の一端を知っただけでも、十分すぎるほどだった。
魔皇城へ到着すると、三人はそのまま研究区画へ向かった。
レイスウィザードを調べた部屋には、すでに禁書庫の監視記録が運び込まれていた。
リュミエラは扉を閉め、遮断術式を起動する。
「まずは、二人に残された印を確認するわ」
ゼラスとリズナが、作業台を挟んで並ぶ。
リュミエラはゼラスの右手と、リズナの風晶石へそれぞれ異なる術式を重ねた。
淡い紫色の光が二人の周囲を巡る。
しばらくして、ゼラスの掌に赤黒い印が浮かび上がった。
同時に、風晶石の表面にも白い渦の印が現れる。
リズナは結晶を見つめた。
「やっぱり、消えていなかったんですね」
「表面から見えなくなっていただけね。どちらも魔力の深い部分に残っているわ」
「取り除けるのか?」
ゼラスが尋ねる。
「今すぐ無理に消すべきではないと思う」
リュミエラは二つの印を拡大し、空中へ映し出した。
「構造が分からないまま干渉すれば、かえって起動させる危険があるもの」
ゼラスが自分の印を見上げる。
「俺とリズナで形が違うな」
「ええ、同じ役割を与えられた印ではないようね」
リュミエラは禁書庫と黒風の森で記録された術式を呼び出した。
石板に浮かんだ門型術式。
地中から現れた白い構造物。
二人へ伸びた白い線。
それぞれの魔力の流れを、掌と風晶石に残された印へ重ねていく。
ゼラスの印へ炎を示す術式が接続された。
赤黒い線が鋭く明滅する。
次に、リズナの風晶石へ風を示す術式が重ねられた。
白い渦が広がり、その周囲へ円形の線を作った。
「リズナちゃん、風晶石へごく僅かに魔力を流して」
「はい」
リズナが結晶へ魔力を送る。
室内に小さな風が生まれた。
その瞬間、白い渦の印が回転を始める。
同時に、ゼラスの掌にある印も赤く輝いた。
「俺は何もしてないぞ」
「分かっているわ。リズナちゃんの印に反応したのよ」
リュミエラが二つの術式を切り離す。
だが、印同士の反応は止まらなかった。
赤黒い印から細い線が伸び、白い渦へつながろうとする。
リュミエラはすぐに遮断術式を挟み込んだ。
二つの印が沈黙する。
リズナは息を詰めて、その様子を見ていた。
「私の風が、ゼラスの印を動かしたんですか?」
「正確には、二つがそろうことで、一つの術式として動こうとしたのだと思う」
リュミエラは記録を巻き戻した。
黒風の森で、ゼラスの炎とリズナの風が門へ吸い込まれた瞬間が映し出される。
炎が先に灯り、風がそれを包み込んでいた。
「役割が違うのね」
リュミエラの声音が硬くなる。
「ゼラスに残された印は、術式を起動させるためのものに近い」
空中に浮かぶ赤黒い印が、一度だけ脈打つ。
「そしてリズナちゃんの印は、起動した術式を安定させ、維持するためのもの」
リズナは風晶石を強く握った。
「つまり、向こう側にいる何かは……」
リュミエラは二つの印を見つめたまま答えた。
「二人をそろえて、もう一度門を開くつもりなのよ」




