第十八話 残された痕
白い巨獣が消滅した後も、誰一人としてすぐには動かなかった。
森に戻った静けさの中で、四本の封魔杭が低い駆動音を響かせている。
白い肉片も、光の粒も残っていない。
巨獣が倒れていた場所には、霊炎に焼かれて黒く変色した地面だけが残っていた。
「周辺の安全を確認します」
カレナの指示を受け、兵士たちが慎重に散開する。
封魔杭の状態を確かめる者。
地中へ沈んだ白い構造物を観測する者。
倒された木々の間に、異形の残滓が残っていないか調べる者。
カレナ自身は三人のもとへ歩み寄り、焼けた地面を見下ろした。
「先ほどの異形は、完全に消滅したのでしょうか」
「少なくとも、こちら側に作られた身体は残っていないわ」
リュミエラは地面へ手をかざした。
淡い紫色の術式が広がり、土の中に残る魔力を読み取っていく。
「こちら側に作られた身体、ですか?」
リズナが尋ねる。
「ええ、あの異形そのものが、向こう側から渡ってきたとは限らないの」
リュミエラの指先が動く。
空中へ、白い巨獣の輪郭を模した術式図が浮かび上がった。
「門が閉じる直前に漏れ出した力が、こちら側の土や木、それに遺構の魔力を取り込んで形を作った。そう考える方が自然ね」
「あれが、仮の身体だったんですか?」
リズナは巨獣によって崩された木々へ目を向けた。
触れたものを白く変え、巨大な身体に似合わぬ速さで動いていた。
レイスウィザードがなければ、どこまで被害が広がっていたか分からない。
「あくまで可能性の一つよ。本体が向こう側にいるのか、それとも意思だけが送り込まれたのか。今の段階では判断できないわ」
「どちらにしても、また作られる可能性はあるな」
ゼラスの言葉に、リュミエラが頷く。
「ええ、門を完全に封じられたと確認できるまではね」
リュミエラは周囲を見渡した。
「巨獣が消えても、調査は終わっていないわ。遺構と封魔杭に異常がないか、全て確認しましょう」
リズナも小さく頷いた。
ゼラスの力については、聞きたいことが幾つもある。
フルドライブ。
大人の姿。
そして、レイスウィザードを抜いた後に見せた、あまりにも一方的な戦い。
だが、今は尋ねる時ではない。
白い巨獣が消えた場所にも、地中へ沈んだ構造物にも、まだ何が残されているか分からなかった。
四本の封魔杭に異常はなかった。
遺構へ集まっていた風と魔力も、少しずつ本来の流れへ戻りつつある。
兵士たちの調査でも、新たな白い構造物や異形の残滓は確認されなかった。
しかし、リュミエラは焼けた地面の前から動こうとしなかった。
「何か残ってるのか?」
ゼラスが尋ねる。
「魔力とは少し違う反応があるわ」
リュミエラは地面へ展開した術式を拡大した。
無数の紫色の線の中に、一本だけ白い筋が混じっている。
髪の毛よりも細く、何度も途切れながら地中へ続いていた。
「巨獣が消滅した後に残った痕跡よ。けれど、魔力が流れた形跡はない」
「魔力ではないなら、何なんですか?」
「情報、と呼ぶべきかしら」
リュミエラが白い筋の先を追う。
それは封魔杭の内側を巡った後、二つに分かれていた。
一方は、ゼラスが立っている場所へ。
もう一方は、リズナの腰に下げられた風晶石へ向かっている。
リズナは反射的に結晶を押さえた。
「まだ、つながっているんですか?」
「いいえ、今は何も送られていないわ。接触した際に残された記録のようなものだと思う」
「俺たちの魔力を記録したのか?」
「おそらくはね」
リュミエラは白い筋を見つめた。
「『火を確認』『風を確認』という声も、二人の魔力を識別するための処理だった可能性が高いわ」
「何のために?」
リズナの問いに、リュミエラはすぐには答えなかった。
慎重に術式の流れを確かめてから、静かに口を開く。
「次に門を開く時、同じ魔力を探し出すためかもしれない」
リズナの手に力が入る。
向こう側にいる何かは、こちらへ触れるたびに自分たちのことを調べている。
最初は見つけられた。
次に、火と風を確認された。
こちらが門を閉じたとしても、向こうに残った記録まで消えたとは限らない。
「この痕跡は消せるのか?」
ゼラスが尋ねる。
「ここに残っているものだけなら消せるわ。でも、向こう側に記録されたものまではどうにもできない」
リュミエラは白い筋へ紫色の光を重ねた。
細い痕跡が端から崩れ、地面へ溶けるように消えていく。
リズナの風晶石へ伸びていた筋も途切れた。
それでも、結晶の奥に残る違和感までは消えなかった。
自分の風が、どこか遠い場所に記憶されている。
そう考えるだけで、結晶を握る指先が落ち着かなかった。
その時、カレナの持つ通信装置が鳴った。
「魔皇城からの通信です」
リュミエラが振り返る。
「こちらにつないで」
通信装置の上に、禁書庫を監視している兵士の姿が浮かび上がった。
『第一席、石板に変化が確認されました』
「状況を報告して」
『石板の表面に浮かんでいた門型術式と亀裂が、先ほど消失しました』
リュミエラが地中へ沈んだ白い構造物へ目を向ける。
「消えた時刻は?」
兵士が記録を読み上げる。
それは、黒風の森の門を封じた直後と一致していた。
『現在、石板から異常な発光や魔力反応は確認されていません』
「石板に浮かんでいた門型術式は、この遺構と連動していたようね」
リズナは通信装置に映る石板を見つめた。
禁書庫に、人が通れるほどの門が現れていたわけではない。
石板の表面に門の形をした術式が浮かび、その中央に生じた亀裂から白い光が漏れていた。
黒風の森で門が開こうとするにつれ、石板上の亀裂も広がっていた。
そして森側の門を閉じたことで、石板の異常も消えた。
「向こうの石板も、この門の一部だったんですか?」
「まだ断定はできないわ」
リュミエラは僅かに考え込んだ。
「門そのものではなく、離れた地点の開門状態を映し出す観測装置だった可能性もある。あるいは、術式をつなぐための中継点かもしれないわね」
「どっちにしても、詳しく調べる必要があるな」
ゼラスが言う。
「ええ、禁書庫で記録された魔力の変化と、こちらで観測した術式を比較するわ」
リュミエラは通信装置へ向き直った。
「引き続き遠隔監視を続けて。許可があるまで、誰も石板へ近づけないでちょうだい」
『承知しました』
通信が切れる。
森には風が戻っていた。
木々の間を抜ける流れは、もう遺構へ吸い寄せられてはいない。
「一度、城へ戻るわ」
リュミエラが告げた。
「石板の記録を調べ直す必要がある。二人に残された痕跡についても、もう一度詳しく確認したいわ」
「遺構はどうする?」
ゼラスが尋ねる。
「封魔杭を維持したまま、砦の監視下に置く。今は下手に掘り返すべきではないでしょうね」
カレナが静かに頷いた。
「こちらはお任せください。監視部隊を交代させながら、二十四時間体制で警戒を続けます」
「お願いするわ。僅かな変化でも、すぐに城へ報告して」
「承知しました」
兵士たちが撤収の準備を始める。
ゼラスも踵を返し、飛空艇の方角へ歩き出した。
リズナはその背中を見つめた後、もう一度だけ遺構を振り返った。
風は穏やかだった。
白い光も、黒い亀裂も見えない。
それでも、風の奥には僅かな異物が残っているように感じられた。
どこか遠くから、自分の風を覚えた何かが、再びこちらへ触れる機会を待っている。
そんな気配だけが、どうしても消えなかった。




